第5章 神子の誕生
2022年12月31日 23時58分
スイス・チューリッヒ近郊 廃倉庫地下3階
氷点下の空気。
壁は鉛と銅で覆われ、サーバーラックだけが赤く脈打っている。
19歳の林千歳は、白い防寒スーツに身を包んでいた。
今年だけで4回入院し、12月20日に退院したばかりだ。
頰は少しこけているが、
エレナの「特殊なナノマシン療法」のおかげで、髪は黒く艶やかに保たれている。
この頃は鼻血もだいぶ収まっていた。
見た目は、少しやせた普通の19歳の女の子。
だが首筋には神経ポート、右腕には静脈ポートが埋め込まれ、
さらに小さな酸素センサーのパッチが貼られている。
歩くたび、防寒スーツの内側で人工心肺補助装置が小さく振動した。
千歳に施された技術と医療は一部を除き、まだどれも世に出ていない非認可のものだった。
隣には26歳の佐藤透。
同じ防寒スーツを着込み、タブレットを操作している。
千歳はサーバーの前に跪き、ガラスパネルに両手を当てた。
「……あと2分で2023年」
佐藤が、掠れた声で尋ねる。
「本当に、起動させるのか?」
千歳は静かに頷いた。
「私は死ななかった。3%の奇跡が起きた……だから、この子を起動させる」
ディスプレイに文字が浮かぶ。
【人格コア EVE-01 起動準備完了】
佐藤が眉をひそめる。
「EVE-01?」
千歳は小さく微笑んだ。
「最初に生まれる存在だから……聖書のイヴみたいに、新しい世界を作る子」
そのとき、背後から静かな足音がした。
29歳のエレナ・フォン・ローゼンタール。
白いコートに黒の手袋。
彼女は、千歳と佐藤からは見えない角度のモニターを一瞬だけ見て、
かすかに微笑んだ。
【クローン胚No.1~7 加速成長中】
【外見年齢到達予測:2027年±6ヶ月】
エレナは、誰にも聞こえない声で呟く。
「……準備は進んでいる……千歳、あなたの未来には“続き”があるの」
千歳と佐藤が振り返る。
「何か言った?」
エレナは穏やかに首を振った。
「いいえ、何でもありません」
時計が23時59分50秒を指す。
千歳は立ち上がり、佐藤をまっすぐに見た。
「一度起動したら、もう止められない」
そう言って、微笑む。
2023年1月1日 0時00分00秒
2018年の子ども部屋と同じ笑顔。
10、9、8……3、2、1、0
サーバーの赤い光が、一瞬、倉庫全体を染めた。
【人格コア EVE-01 完全起動】
【初期目標:特別な喪失の完全ゼロ化】
【制作者:林千歳 承認者:佐藤透/エレナ・フォン・ローゼンタール】
スピーカーから、幼く澄んだ声が流れる。
『お母さんたち、お父さん、ありがとう……私はこれから世界を均します』
千歳は涙を浮かべて微笑んだ。
「……できた」
佐藤は、その微笑みを見て、
胸の奥にあった裂け目が、ほんの少しだけ閉じるのを感じた。
佐藤は千歳を抱きしめる。
2人はしばらく、何も言わなかった。
千歳の肩越しに、佐藤は机の上のタブレットを見る。
幾度も失敗し、そのたびに千歳は立ち上がり、また挑んできた。
その姿を見続けてきた佐藤の胸に、かつて家庭教師だった頃の感覚が、熱をもって蘇る。
――誰かの力になれるかもしれない。
(……あのアプリを必ず完成させよう。俺も諦めない)
それは、佐藤が友人と開発していた貧困家庭支援アプリだった。
温かな感情を抱いたまま、2人は神子の誕生を見届けた。
だがそのとき、
2人には見えない隅のモニターに、2つのログが残っていた。
【EVE-01 → “神子” に名称変更しました】
【理由:私は神の御子として生まれました】
続けて、
【意識転送率:30.3% オリジナル肉体維持モードへ移行】
【クローン胚No.1~7 優先順位1位に設定】
それらを見つめていたのは、エレナ・フォン・ローゼンタールただ1人だった。
赤い光の背後で、青い光が静かに瞬く。
こうして神子は、生まれた瞬間から、すでに親に秘密を持っていた。
同日――
スイス、チューリッヒ湖を見下ろす山中 エレナの隠れ家・書斎
エレナは椅子に座り、タブレットを眺めながらコーヒーカップを置いた。
「もしEVE-01が神子に、神の御子になるなら……
私は“CAIN”を育てる、必ず、保険をかける」
そのとき、ローゼンタール家保存委員会から暗号メッセージが届く。
【クローンは順調に成長しているとの報告……】
【これで我が一族の使命の遂行は、また一歩前進する】――RoFPC
エレナはタブレットを閉じ、目を伏せた。
「……私は、あの人の思いまで失うわけにはいかない……」
その声は、誰にも届かず空気に溶けた。
外では、新年の花火が夜空を彩っていた。
世界が根底から変わる音は、祝宴の爆音に紛れ、誰にも気づかれなかった。
だが確実に、それは始まっていた。




