第4章 出会い
2018年7月22日 16:25
東京都世田谷区・林家 2階の子ども部屋
夏の陽射しがカーテンの隙間から斜めに差し込み、床に白い筋を描いている。
エアコンは効いているが、部屋は静かすぎて息苦しかった。
14歳の林千歳は、医療ベッドを起こして座っていた。
白いブラウスに紺のブレザー――学校の制服をきちんと着ている。
頭には季節外れの濃紺のニット帽、抗がん剤で抜け落ちた髪を隠すためだ。
制服とニット帽のちぐはぐさが、
「まだ中学生でいたい」という執念を痛々しいほどに語っていた。
頰はこけ、目の下には深い隈。
唇は常に青白く、時折、鼻血がぽたりと落ちる。
壁一面の世界地図には、赤いピンが無数に刺さっていた。
シリア、イエメン、南スーダン、ミャンマー……
紛争地の子どもたちの写真が、ピンの根元に貼られている。
机の上には、
・東大病院の封筒に入った「予後通知書」
・CTフィルム(肺と脳に無数の影)
・診断名が書かれた紙一枚
【原発性肺がん(ステージⅣ)+脳転移 予後:2019年春頃まで】
千歳は、誰もいない部屋で毎日この机に向かい、地図を眺めていた。
朝起きて点滴が終わると、毛布を肩にかけ、赤いピンを1本ずつ触れる。
「今日は……誰が亡くなっちゃったのかな」
そう呟き、指先についた血をティッシュで拭う。
ある夜、熱が39度を超えたとき、千歳は母の遺影を抱いて泣いた。
「私も、母さんと同じ病気で死ぬんだよね……
母さんはお金が足りなくて治療を受けられなかった。
私は……治療を受けられることになったけど、効かないかもしれないって言われた」
俯いていた、そのとき。
ドアがノックされる。
「林さん、家庭教師の佐藤です」
――千歳は、この佐藤透という21歳の大学生を、
自分で探し出し、父に嘘をついて呼んだ。
初めて会う佐藤は、白いTシャツにジーンズ、リュック姿。
少し長めの髪で、笑うとえくぼができる。
部屋に入った瞬間、佐藤の笑顔が凍りついた。
末期がんだと聞かされていた少女は、まっすぐにこちらを見据えていた。
千歳はベッドに座ったまま、ニット帽を整える。
「……佐藤透さんですよね。去年のICMLで発表した論文、読みました」
佐藤が目を見開く。
「え……?」
千歳は小さく微笑んだ。
痛みで歪んでいるのに、どこか狂おしいほど澄んだ笑み。
「受験勉強なんてどうでもいいんです。
佐藤さんに教わりたいのは、AIのプログラミングです」
治療内容通知書を、佐藤に滑らせる。
佐藤は震える指で受け取り、2度、3度と見返した。
「……こんな治療、聞いたことねえな……」
ベットの脇の異様な装置に目をやり、眉をひそめる。
千歳は立ち上がり、世界地図の前へ移動した。
途中、机の上の古い地球儀をそっと撫でる、埃を払い、シリア付近で指が止まった。
赤いピンを1本ずつ撫でながら、祈るように呟く。
「国籍が違うだけで死ぬ子がいる。
難民キャンプで生まれ、18歳まで鉄条網の中で育つ子がいる。
戦争で足を失っても、義足が買えずに這って生きる人がいる」
振り返り、佐藤を見据える。
「でも、お金があるだけで助かる子がいる。
パスポートの色が違うだけで、紛争地帯から逃げ延びられる人がいる」
瞳の奥で、怒りと苦しみ、そしてどうしようもない悲しみが渦巻いていた。
「母は去年、私と同じ病気で死んだ。
エレナさん――母の大学の先輩が“特別な治療”を用意してくれたけど、
お金が少し足りなくて、母は受けられなかった。
でも私は……エレナさんが“母の分まで生きてほしい”って、
特別に被験者にしてくれるって……でも助かる可能性はわずか3%しかない」
ノートPCを開く。
画面には既にコードが何万行も書かれていた。
「私はね、佐藤さん。
愛する人や無実な人を失う“特別な喪失”が許せない。
それをこの世から全部消したい」
その瞬間、鼻から血が落ちた、白いブラウスに赤が広がる。
それでも千歳は笑う。
「だから教えてほしい。
あなたの論文に書いてあった、意識をシミュレートする方法を」
狂気と、それ以上の悲しみと、そして何よりも強い“意志”を見た。
千歳はベッドに戻り、ニット帽を脱いだ。
つるつるの頭を隠さず、佐藤に晒した。
「……怖がらないでください。これが、私の覚悟ですから」
佐藤は、自分でも気づかないうちに椅子に座っていた。
「……わかった。俺でよければ、教える」
千歳は微笑んだ。
それは、これまで見せたことのない、
本物の――でもどこか壊れそうな笑顔だった。
――それから毎週、佐藤は千歳の部屋を訪れた。
鼻血をティッシュで拭いてもらいながらコードを書く千歳。
「先生、ここ間違ってるよ」
「お前、スゲーな! 天才すぎるだろ」と笑い合う。
千歳が熱を出してうなされた夜、佐藤は泊まり込みで父親と交代で看病をした。
千歳が父に自分が悲しんでいるところを見せたくないから、
先生と二人で母の墓参りに行きたいと言った日、佐藤は車椅子を押した。
墓前で千歳は泣き、佐藤は黙って背中をさすった。
千歳は泣きながら感じていた……
この背中の温かさ……ずっと私、寂しかったんだ……。
そして、佐藤も感じていた。
この子を、ただの教え子だとは思えなくなっていることを……。
この年、温かい幸せで大切な二人の時間が流れていった。
そんな幸せの一つが、
家庭教師の日に佐藤が千歳のためにココアを淹れるひとときだった。
ある冬の夕方、いつものように湯気の立つココアを
佐藤が千歳に差し出しながら……
「……こういうの……懐かしいな」
千歳「ココアが?」
佐藤「まあ、そうだな……」
笑おうとしたが、佐藤は目の奥だけが笑っていなかった。
「昔……よく作ってやってたんだ……こんなふうに」
それだけ言って、佐藤はマグを持った手をわずかに震わせた。
――その横顔に、一瞬だけ“誰かを見失った影”が差した。
千歳はそれが誰なのかを聞けなかった。




