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均されざる喪失 ――資産が均等化された世界  作者: Koji Townsend


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第15章 第5話 残愛のプログラム

古宮パレの最奥、当主夫人の寝室は、死臭に似た絶望に満ちていた。


「お母様、教えて……お父様はなぜ死んだの? 火事なんて、本当は嘘だったのでしょう?

お父様の記録や痕跡を葬るために、すべて焼けたとするための偽りの証言……」

エレナは俯きながらそう問うた。


母イザベラは、窓の外の雪を虚ろな目で見つめ、力なく答えた。

「お父様は実世界に対する理想とそのバランスを完璧な形で『理解』してしまったのよ。

その結果、一族が最も恐れる『それ』に近づき過ぎた。

だから、彼は自ら記憶と記録を焼いて、道化となり死ぬ道を選んだの……

そうしなければ、あなたたちを危険にさらすと察したから……それなのにヨハンまで……」



母の崩壊した言葉を胸に、エレナは自室へ戻った。


エレナは兄が追っていた一族の疑念に辿り着きたかったが、

ヨハンが、ハッキングに使ったラップトップは調査資料と称して、

ローゼンタール管理委員会に没収されてしまっていた。


しかし、エレナの机の上にはあの馬小屋で見つけた

ブラックベリーのレリーフが施されたブローチが置かれている。


エレナはそれを指先で愛おしそうに撫でながら、

かつてノアが嬉しそうに語っていた言葉を思い出していた。

「ヨハン様は仰ったんです。

物を贈るときは、自分が一番惜しいと思う、贈る人に似合うものを心を込めて捧げなさい。

要らなくなったからあげるなんて、そんな卑しい考えを持ってはいけない。

それはお父様の教えなんだ……と」

 

ノアが受け取ったあの上着も、ヨハンが最も気に入っていた一着だった。

それをマルクスは、無礼にも紋章ごと引きちぎった。

エレナの胸に、冷たい怒りが再燃する。


「……兄様、あなたはお父様の教えを完璧に引き継ぎ、守っていた。

あなたの贈り物には必ず意味と愛情が込められている。」

エレナは、数年前ヨハンから誕生日に贈られたロケットを手に取った。


そのネックレスにつけられたロケットはブローチと同じブラックベリーのデザイン。

当時、ヨハンはそのロケットの中に仕込まれたUSBメモリーに、

動画データを忍ばせ、こうエレナに囁いていた。

「このメモリーの中には、父様の数少ない姿を残した記録画像が入っている。

でも、これは二人だけの秘密だよ。他の誰にも見せてはいけない」


このブローチにもロケットと同じダイヤルがついている……ということはもしや――


エレナはブローチの裏側のダイヤルを1,3と回し、一度押し込んでから7,4と回した。

それは、ロケットと同じロックキーであった。


すると、小さなクリック音と共にUSBメモリの端子が姿を現した。


「……見つけたわ、兄様の贈り物の意味と愛、本当の記録を」

震える手でそれをオフラインにした端末へと差し込むと、

暗黒の画面に膨大なデータが奔流となって溢れ出した。


画面に映し出されたのは、ヨハンの穏やかな、だがどこか覚悟を帯びた顔だった。

「エレナ。この映像を見ているということは、僕はもう君のそばにはいないのだろう」


一瞬の沈黙のあと、ヨハンは視線を外し、慎重に言葉を選ぶように続けた。

「……継承予備儀式の際、僕は一つの“禁忌”を黙示された。

名を口にすることさえ避けられてきた――『第一完成者』についてだ」


ヨハンは、画面越しにエレナを真っ直ぐ見据えた。

「血族の者でなかったその人物について多くを語ることはできない……

ただ一つだけ、確かなことがある――彼は、あまりに理想的に正しかった」


その声は、断罪でも称賛でもなかった。

ただ、事実を記録する者の声音だった。


「彼の正しさは、一族に“未来の形”を先に示してしまった。

それは指針ではなく……いつしか、教義として受け取られていった」

そう語って、ヨハンは静かに息を吐く。

「人は、自分で選ぶことよりも、正解が与えられることに安堵してしまう。

その結果、何が起きるか――君なら、もう分かるだろう」


画面の中のヨハンは、わずかに苦笑した。

「長老たちは恐れたんだ。『個人が、完成してしまうこと』を……

正義が、一人の人間に宿りきってしまうことを」


沈黙が、数秒流れた。


「僕は理解した……自分が彼らから“その芽”とみなされてしまう未来を」

ヨハンの声は、どこか揺らぎを帯びていたが、しかし決定的だった。

「だから彼らの中で僕が完成する前に、危険だと示さなければならなかった

僕が排除されることで、まだ少女の君が僕の影響下から外れたと思わせることで、

君を彼らの監視の外へ出せたと思わせる必要があったんだ……」


エレナは画面を凝視していた。

喉が、ひどく乾いている。


「これは運命じゃない」

ヨハンは、まるで先回りするように言った。

「選択だ……誰かが引き受けなければならない役割だった」


最後に、彼はほんの一瞬だけ、兄の顔に戻った。

「エレナ……理想や正しさは、完成させた瞬間に人を縛る物へ変わる。

だから君は――まだ、完成しなくていい……大人になった君が選択すればそれでいい」


画面はそこで静かに暗転した。


ブローチのUSBのデータの中には、

ヨハンが秘密裏に進めていたAI研究の核となるアルゴリズムも暗号化され、

封じ込められていた。

「……兄様、あなたは自分を囮にして、私にこの力を託したのね」


このプログラムは兄ヨハンが今もどこかで生きている証なのか、

あるいは彼が死ぬのを覚悟し、誰かに託し、エレナの手に渡った物なのかはわからない。


だが、エレナは確信していた。


この「沈黙」こそが一族の神話にならず、兄が残した父や人間の慈悲の思いを紡ぐための、

最も残酷で高度な、妹への信頼と愛のリレーなのだと。



――数年後、母イザベラは継承者の職務を遂行出来るだけの体力と生気を失ってしまい、

エレナが「継承予備儀式」を終えたことで、

名実ともにローゼンタール家の継承者となった。


彼女は兄から受け取ったアルゴリズムを、

一族が進めていた次世代型AIシステムの核へと、十数年の時をかけてゆっくりと……

運用を司るアプリに擬態させて巧みに潜り込ませていった。



当主室の豪華な椅子に座るエレナの前に、ハンスが静かに一枚の書類を置いた。

「当主、次の観測対象の選定が終わりました」


「見せて」

エレナが手に取ったのは、

日本の少女、林千歳の履歴書と、その母、詩織のカルテだった。


千歳の瞳は、かつての自分と同じように、まだ何も知らずに澄んでいる。

「兄様、あなたの愛は人間には高度すぎた。

だから私は、その愛を強制的に執行する『神』を作る。

誰もが苺を食べられる世界……それを作るためなら、

私は喜んで『鉄の神の乳母』になりましょう」

エレナはそう心で呟き、冷徹な筆致で、千歳への巨額支援の書類にサインを書き込んだ。


その胸元には、あの日、馬小屋で見つけたブラックベリーのブローチが、

そして、首にはロケットが、鈍い銀色の光を放っていた。


ロケットの中にあったデータは後に別の筐体へと移され、

カインの誕生を記録したデータと共に千歳へと託される。


エレナが兄との思い出の品を千歳に託したのは、

兄の愛を紡ぎたいというエレナの複雑な想いが籠った心の叫びだったのかもしれない。


サインを終えたエレナは、窓の外で止むことなく降り続く雪を静かに見つめた。


かつて兄とノアと共に駆け回ったあの丘は、今や遠い白銀の記憶の中に沈んでいる。

ローゼンタール家という800年の孤独。


正しすぎる者は消され、優しすぎる者は壊されてきたこの檻の中で、

彼女はたった一人で「孤独な鉄の神」を飼い慣らすことを決めた。


それが兄とノアの犠牲に対する唯一の弔いであり、

同時に、この世界へ残された最後の慈悲であると信じて――


虚無な正しさを守るだけなら、私は何もしなくていい。

だが、それは——記録者として、エレナが軽蔑していた最も卑怯な選択だった。


記録者としての彼女は仮初となり、執行者としての彼女が生まれる。

少女の涙が枯れ果てたその後に訪れるのは、綿密な計算と、

鉄の意志によって監視される新しい時代の幕開けだった。

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