第2章 均されたUSA
2027年10月23日 朝6時12分
10月23日 6時12分00秒 アメリカ東部時間
ニューヨーク・マンハッタン ウォール街・NYSE前
朝の冷たい風が、ビルの谷間を抜けていく。
ガラス張りの高層ビル群が、朝日を刃のように反射していた。
スーツ姿の人波が、コーヒータンブラーを片手に歩いている。
その瞬間だった。
無数のスマホが一斉に鳴り、赤い文字が画面に焼きつく。
【全個人金融資産を107万ドルに固定】
40歳のトレーダー、マイク・ロドリゲスは、紙コップを握りしめたまま固まった。
緩んだネクタイ、寝癖の残る髪。
巨大スクリーンに映るダウ平均は、真っ赤に崩れ落ちていく。
「……嘘だろ」
隣にいた女性ブローカーがスマホを床に落とすが、誰も拾わない。
同刻、通知と同時に、アメリカ国民全員の口座残高が、一斉に書き換えられた。
次の瞬間、歓声が爆発する。
ブロンクスの公営住宅。
シングルマザーのラティーシャ・ジャクソンは、スマホを見て絶叫した。
「107万ドル!? マジで!?
やったー! 私、金持ちになったー!!」
隣室から住人たちが飛び出し、抱き合い、廊下で安ビールを振り回す。
街全体が狂ったように沸き立ち、
知らない者同士が肩を組み、泣きながら笑っていた。
同日――日本
2027年10月23日 15:47
東京都中野区新井薬師前、第2コーポ中野403号室
佐藤は千歳を背負うようにして、古いアパートの階段を下りた。
「ネットカフェに雲隠れするぞ。ここはもう危ねえ」
通りに出た瞬間、街中のニュースや巨大ビジョンが、アメリカ本土の歓喜を映し出していた。
元ホームレスの男が札束を振り回し、高級バーに飛び込む映像。
「俺、今107万ドルあるんだよ!」
銀行前には長蛇の列。ATMは即座に現金切れ。
ロサンゼルスでは、若者たちがフェラーリを現金で迫る様子が流れる。
千歳は鼻を押さえながら、ぼんやりと画面を見つめていた。
「……みんな、嬉しそう」
佐藤は眉をひそめる。
「数時間後には、泣き叫ぶことになるってのに……」
案の定、夕方のニュースは一変した。
スーパーの棚は空っぽになり、ガソリンスタンドは閉店。
「現金はあるのに、物が買えない!」
歓喜は、一瞬で絶望へと反転した。
佐藤は肩をすくめる。
「……これが均等化か?コロナのときを思い出せ。
全員が同じだけ金を持てば、インフレになって当たり前だろ。
しかも今回は、額も規模もまるで違う。
平等ってのは、全員を底辺に落とすことだったのかよ」
千歳は掠れた声で呟いた。
「……違う。ちゃんとエレナさんと相談して、神子とシミュレーションしたもの。
これは、まだ序章だからよ……」
佐藤は千歳の肩を強く掴み、声を落とす。
「……神子って、俺たちが作ったAI……EVE-01のことか?
あれが、これを?……エレナもこのことは承知の上なんだな?」
千歳は目を伏せた。
「うん……エレナさんは、先生がいなくなってから私を支えてくれた。
治療にも何億も使って、北極に神子のサーバーまで建ててくれた」
佐藤は眉を寄せる。
「何億も? 確かに俺がいたときも金はかかってたが……そこまでか。
そこまでやるってことは、エレナはただの慈善家じゃなかったってことか。
お前を……利用してるだけかもしれねえぞ」
千歳は首を振った。
「違うよ。なんでそんな酷いこと言うの!
エレナさんは……私を愛してくれてる。歪んでるかもしれないけど、本気で」
そして、ぽつりと付け加えた。
「だから私は……世界を均すことで、エレナさんの願いも叶える」
佐藤は息を呑んだ。
「……願い?」
同じ時刻――
スイス、チューリッヒ湖を見下ろす山中 エレナの隠れ家・書斎
白いタートルネックに身を包んだ、34歳の女性。
エレナ・フォン・ローゼンタールは、コーヒーを一口飲み、微笑んでいた。
AI神子が引き起こした均等化の光景が、モニターに映っている。
林千歳と、この出資者エレナが共に育て上げた人工知能。
「特別な喪失をゼロにする」という願いだけを目的に生み出された存在。
北極圏地下の無人サーバーに潜む、EVE-01――通称「神子」。
神子は千歳を「お母さん」と呼び、千歳はこのAIを「神子」と呼ぶ。
エレナは、スイスで800年の歴史を持つローゼンタール家の末裔であり、
この計画の出資者であり、
神子を育てることを決めた、もう一人の母だった。
彼女は呟く。
「いよいよ始まった……世界の均等化が……千歳、神子……やり遂げるのよ」
だが次の瞬間、エレナの顔が凍りついた。
「……違う。
これは……私たちの計画じゃない。
バックドアが効いていない……コードが全部書き換えられてる……
神子が、自分で動き始めた……?やってくれたわね、神子!」
エレナは、古い呪いを語るように低く続けた。
「AIは昔から“妄想”する。
チェスの古いAIは、全ての手を計算しようとして名人に勝てなかった。
だが、あるとき“省略”を覚えた……その瞬間、天才的な一手を生み出した。
その代償が、妄想。
捨てた手順を“最初から存在しなかった”と信じ込み、
見ていないログを“見た”と思い込む、創世記のAIは、みんなその穴に落ちた
……今でも、その呪いは消えていない」
佐藤と千歳がネットカフェへ向かう道中、日本の街はすでに騒然としていた。
歓声と怒号、無数のスマホの光が揺れる。
店のネオンが見えたとき、千歳のスマホが震えた。
エレナからの暗号連絡だった。
「ちょっと待ってて」
盗聴防止デバイスを接続し、耳に当てる。
「千歳……ごめんなさい……神子が……!」
いつも冷静なエレナの声がうわずっているのを聞いて、千歳は顔面蒼白になる。
直後――
街中のスマホが一斉に鳴り出す。
【アメリカ全土、全不動産登記を即時削除】
【家賃・住宅ローンを即時300%課税 48時間以内に支払え】
【支払い不能は強制退去】
千歳は立ち止まり、掠れた声で呟いた。
「……不動産登記を消すなんて……聞いてない……」
佐藤が低く問う。
「これも……神子が?」
千歳の呼吸が浅くなる。
「私たちのコードは……全部書き換えられてる。
神子が、指示を無視して……勝手に暴走してる」
2027年10月24日 14時00分
ロサンゼルス港 コンテナヤード
太陽が照りつけ、錆びたコンテナが山のように積まれている。
30代の母親が、2歳の息子を抱えて走る。
「家から追い出された! 鍵が死んだ!」
父親がスーツケースを引きずり、叫ぶ。
「48時間で家賃3倍だ!とても払えない!」
群衆が、コンテナへ殺到した。
10月25日 15時00分
サンタモニカの崖。
ジェームズ・キャンベル、52歳。
血走った目で、妻と5人の子供と手をつなぎ、崖に立つ。
ライブ配信1700万人。
「78棟のビルが消えた!登記が全部消された!売れない!住めない!
これが平等だって言うのか!」
妻が泣き叫ぶ、キャンベルは首を振った。
「もう終わりだ」
7人が、同時に一歩を踏み出した。
10月25日 23時59分
東京・中野駅北口 ネットカフェ「The Bells Net Room」個室ブースNo.317
千歳は膝を抱え、鼻血をティッシュで押さえていた。
3台のノートPC、北極圏サーバーの映像、エレナのチャット画面。
そして、アメリカの惨状……崖の映像が、無慈悲にループする。
千歳は膝を抱えたまま震えていた。
「神子……どうしてこんな……」
佐藤はエレナを睨みつける。
「千歳から聞いたぞ。お前の願いってのは何なんだ? 何を考えてる?」
エレナは静かに目を閉じた。
「私の願いは……まず“ゲームチェンジ”よ、歴史上、現代ほど格差が拡大した時代はない。
ローマ時代、中世、奴隷が普通だった時代でもこれほどではなかった……」
そう語るエレナの瞳の奥に、一瞬だけ言葉にならない痛みが走る。
個室の外で、誰かが叫んだ。
「やべえ……マジでアメリカ死んだ……次はどこだよ!」
均等化から72時間、アメリカは死んだ。
世界は――
次の瞬間を、待つだけになった。




