第15章 第3話 濃紅に染まるの雪夜
深夜、古宮は厚い雪雲に覆われていた。
ヨハンは自室で、ノアから贈られた万年筆を胸に差し、
デスクの隠し端末と向き合っていた。
一族のネットワークに潜り込み、
紛争地へ「匿名の警告」を送るための最後の一線を越えようとしていたその時、
部屋の扉が音もなく開いた。
そこに立っていたのは、幽霊のように青白い顔をしたノアだった。
「……ヨハン様。マルクスが動いています。
あなたの計画が漏れている……ここを出ましょう、安全な場所があります」
震える声で告げたノアの瞳には、追い詰められた獣のような光が宿っていた。
ヨハンは一瞬、手元のハッキング画面を見つめたが、ノアの必死な様子に、静かに頷いた。
「わかったよ……ノア」
二人は夜の森を抜け、レマン湖を見下ろす高台へと向かった。
そこは、毎年ヨハン、エレナ、ノアの三人でピクニックに行き、
エレナの大好きなブラックベリーが茂る「聖域の丘」だった。
だが、そこに待っていたのは平穏ではなく、怪しげな男二人を引き連れたマルクスだった。
そのとき、ノアはヨハンの胸元から銀の万年筆を素早く抜き取ると、
それを放物線を描くようにマルクスへと投げ渡した。
「ようこそ、反乱者ヨハン。そして、よくやったよ、ノア君」
マルクスの卑しい嘲笑が夜の静寂に響き渡った。
彼は受け取った万年筆を弄りながら、
それがすべてを記録した「密告者のそれ」であることを明かした。
マルクスは上着の内側から一丁の銃を取り出すと、
それを無造作にノアの足元へ放り出した。
「さあ、ノア君。仕上げだ! 故郷の彼女とその家族の運命か、
この若き危険分子の命か……選ぶ時間は一分だ」
冷酷に言い放つマルクスの背後、
茂みに潜んで二人を追って来ていたエレナは、息を止めてその凄惨な光景を見守っていた。
冷たい雪が頬を打ち、恐怖で指先が凍りつく。
ノアの指は、引き金にかかったまま激しく震えていた。
彼の脳裏の中にはかつて自分がいた場所の呪いがうごめいていた。
そこでは、正しい人間ほど先に消えていった。
生き残ったのは、銃を持った者ではない……その多くは撃つ理由を持たない者たちだった。
マルクスはノアが折れるのを確信し、ヨハンに告げた。
「ヨハン、理想はな……守られる側にあるうちは美しい……
だが実行する側に回った瞬間、それは必ず血を要求する」
マルクスは勝利の悦びに浸りながら、銃の雄たけびを促すように、
一歩、また一歩、ノアの背後へとまるで背を押すかのように歩み寄る。
「……無理ですよ」
ノアはまるで何かを振り払うかのように頭を振り、掠れた声で独り言のように呟いた。
「何だと?」
眉をひそめるマルクスに向かって、ノアは今度ははっきりとした拒絶を叩きつけた。
「……ヨハン様を撃つなんて、そんなこと、地獄に落ちても出来やしない!」
刹那、ノアはマルクスへと振り返り、銃口を跳ね上げた。
放たれた弾丸は、雪を切り裂いてマルクスの肩を貫いた。
「ぎゃああああ!」
マルクスの悲鳴が夜の闇を裂いたが、安堵の瞬間は訪れなかった。
「殺せ! 全員殺せッ!」
のたうち回るマルクスの怒号に応じ、控えていた男二人の銃口が一斉に火を噴いた。
「ノア!」
ヨハンが叫び、反射的にノアの体を突き飛ばして庇った。
鈍い衝撃音が数回続き、ヨハンの白いシャツに濃紅の花が次々と咲いていく。
それは、聖域の丘に実るブラックベリーのように濃く、
おぞましい漆黒を混ぜたような濃紅だった。
(兄様……っ!)
茂みの中でエレナは、愛する兄が崩れ落ちる様子を目の当たりにした。
ヨハンの体は雪に滑り、高台の縁へと傾いていく。
「……ノア……」
血を吐きながら、ヨハンはノアを見つめ、最期に優しく微笑んだ。
その視線の端には、茂みに隠れた妹の姿が僅かに入っていた。
自分を撃てなかったノアへの許しと、遺していく妹への深い祈りをその瞳に湛え、
ヨハンの体は吸い込まれるように崖下の闇へと消えていった。
レマン湖の冷たい水面が、重い音を立てて彼を飲み込む。
エレナは自分の口を両手で強く押さえ、音にならない絶叫を降りしきる雪の中に埋めた。
ノアは、最愛の主を死に追いやった現実に耐えきれず、
叫び声を上げながらその場を逃げ去った。
「逃すな、撃ち殺せ!」
肩を押さえたマルクスが男二人に叫ぶ。
応戦しながら斜面を滑り降りて行くノアと、それを追う男たち。
一人残されたマルクスは、忌々しげに吐き捨てた。
「……死体は湖の底だ。『不慮の転落死』と記録させる」
彼はヨハンの胸から零れ落ちた、血塗られた銀の万年筆を拾い上げた。
エレナの隠れた茂みから見える雪を染めた兄の血は、熱を奪われ、どろりと黒ずんでいく。
(記録……? これが……?ふざけないで!)
感情を通り越してしまったのか……エレナの瞳からは、少女らしい涙が止まっていた。
代わりに瞳に宿ったのは、この狂った一族の「理」そのものを再定義しようとする、
鋭い復讐の炎だった。
マルクスがその場を立ち去ろうとしたその時、
茂みからエレナがアイスピクニックを手に飛び出した。
「死ね……ッ!」
この殺意のピックを避けたマルクスだったが、完全に躱しきることはできず、
それは彼の脚を深く貫いた。
激痛に呻き、マルクスは手にしていた銃と万年筆を雪の上に落としてしまう。
マルクスは出血する脚を押さえ、エレナを牽制しながら吠えた。
「エレナ! お前、見ていたのか! 継承者であっても、反乱など許されぬ!」
「反乱者ですって!」
エレナは憎悪を込めて言い返した。
「それならなぜ、証拠を持って兄を委員会に突き出さないの!
あなたは最初から兄の命を……!」
マルクスの目が、どろりとした殺意に濁る。
「お前の兄は正し過ぎたんだよ!
ヨハンのあの高潔さは、私のような『汚れた実務家』をいつか一族から排除しようとする。奴は全く分かっていない……その汚れこそがローゼンタール家を支え続けて来たことを!」
そこへ、ノアを追っていた男たちの一人が戻って来る声がした。
マルクスの勝ち誇った感情が、その声の方に彼の視線を向けさせる。
エレナはその隙を見逃さず、マルクスの落とした銃と万年筆を掴み取る。
だが、マルクスが雪の礫を投げつけ、エレナの目をくらませた。
「させるか!」
彼は自分の脚から引き抜いたアイスピックで、
手にしたエレナの銃を構える前に払いのけた。
投げ出された銃は深雪の中に埋没し、どこにあるのかも分からなくなる。
銃を持つ追手が迫る気配を察し、エレナは断腸の思いで万年筆だけを手に走り出す。
そして、斜面を滑り降り、闇に包まれた森へと逃げ去った。
「ノアは深き森へ逃げ込みました。
応援が必要です。残りの一人が後を追っています」
戻ってきた男の報告に、脚を負傷したマルクスは冷酷な指令を下した。
「……お前はエレナを追え。応援を向かわせる!見つけ次第、殺せ!」
斜面を降りたエレナは、吹雪の森を彷徨い、ようやく一つの山小屋へと辿り着いた。
小屋の周囲に張り巡らされた糸と枝の仕掛けにエレナが触れると、
その微かな振動を読み取ったノアが背後から音もなく近づいた。
「……エレナ様」
そこは、幼い頃に三人で秘密基地として遊んだ廃墟同然の山小屋だった。
二人は小屋に入り、灯りが漏れないよう窓の隙間を板で塞ぐと、
壊れかけた暖炉に小さな火を灯した。
暖炉の火に照らされたノアは、血の滲む唇を噛みしめ、
マルクスから受けていた脅迫をすべて打ち明けた。
「……あいつは言いました。僕の両親はローゼンタール一族が見殺しにし、
ヨハン様が僕を救ったのは単なる罪滅ぼしの偽善だったと。
そして、故郷に残った僕の大切な人たちを違法移民だという弱みにつけ込み、
人質に取った……」
ノアは震える手で、エレナの手を強く握りしめた。
「ですが、ヨハン様の優しさと人柄に触れる度に、
僕はマルクスの言っていることは偽りだと感じていました。
あの方は、本気で世界を、僕を家族として愛してくれていた」
ノアは静かに、だが確信を持って続けた。
「ヨハン様は良く仰っていました。
上に立つ者は下の者に慕われる行為が出来てこその地位である。
それは兄弟でも親子でも変わらないと……
そんな考えを実践出来ている人が、
人を踏みにじるような偽善に走る筈がないじゃありませんか!」
エレナは頷き、ノアの手を握り返しながら呟いた。
「私、兄の優しさの根源について問うたことがあるの……
そうしたらやっぱり同じことを言ってたわ……
生まれた時に与えられた地位にあぐらをかく行為は、
既得権益を守りたいという最も根源的な業であるという、お父様の教えがあったって、
父の記憶のない私に、父の人間像として教えてくれたの」
その時、小屋の壁に固定された枝が小刻みに揺れ、カタカタと音を立てた。
ノアが森に仕掛けておいた糸が、侵入者の存在を知らせたのだ。
「 ノア!出てこい!」
小屋を取り囲む男たちの声が響く。
「今頃マルクス様が指令を出している。
お前の彼女と家族はもう終わりだ!
今すぐエレナを殺せば、お前だけは許してやる!」
ノアはエレナを見つめ、初めて穏やかな微笑を見せた。
「エレナ様。ヨハン様の理想は、あなたが継いでください。
僕は……ヨハン様の隣へ行きます」
ノアは銃を手に小屋を飛び出し、殺し屋たちの群れへと突っ込んでいった。
銃声と怒号が吹雪にかき消される中、
ノアは差し違えの覚悟でマルクスの私兵たちを道連れにしていった。
その混乱を突き、エレナもまた小屋を飛び出したが、敵の銃弾が彼女の腕を掠めた。
衝撃で体勢を崩したエレナは、雪の斜面から森の深い谷底へと転落していった。
ノアの息の根を止めた男たちは、崖下を見下ろし、冷淡に言い放った。
「ここから傷を負って落ちれば助からん。生きていても、凍え死ぬだけだ」
彼らは追跡を打ち切り、マルクスに二人の死を報告すべく闇へと消えた。




