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均されざる喪失 ――資産が均等化された世界  作者: Koji Townsend


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第15章 第1話 苺のないケーキ

第15章 エレナクロニクル編・ブラックベリーの墓標 ―記録されない残酷な愛


――プロローグ――


ローゼンタール家の記録には、何度も削除された名前がある。


英雄でも、反逆者でもない……ただ「完成させようとした者」

——一族はその人物を『第一完成者』と呼び恐れた。


彼の思想は失敗したのではない……ただ、未だに人はその真実に解答を得られない。

2007年晩秋

スイス、レマン湖を見下ろす丘に立つローゼンタール家の古宮は、

世界で最も静かな場所の一つだ。


ここには800年の「痛み」が眠っている。


石造りの地下書庫と、超低温で管理されたサーバーラックの中には、

人類が繰り返してきた戦争、飢餓、虐殺、そして名もなき個人の涙の記録が、

ただの「データ」として積み上げられていた。


高い天井を見上げれば、歴代の後継者たちの肖像画が影を落としながら整然と並んでいる。


金色の額縁に収まった彼らは、英雄でも狂人でもない。

歴史という舞台の表層には決して立たず、

裏側でただ黙々と沈黙の記録を積み上げてきた「黒子」たち。


感情を削ぎ落とした彼らの瞳は、深淵のような静寂を湛え、

この部屋に居る者を常に監視しているようだった。



その肖像画の下で、一人の初老の男が音もなく歩み寄る。

家庭教師のハンスだ。


彼はローゼンタール家に仕えて三十年、糊の効いた硬い立襟のシャツに、

煤色の三つ揃いのスーツを寸分の乱れもなく着こなしている。

感情の起伏を感じさせない灰色の瞳は、常に規律と効率を求めていた。



「エレナ、手が止まっているよ。

この時代のアフリカの食糧配給データは、後の暴動の引き金になる重要な記録だ。

正確に、かつ感情を交えずに書き写すのだ」

ハンスの厳格な声に、14歳のエレナは小さく溜息をついた。


彼女は、一族の伝統である深い紺色のシルクのドレスを纏っていた。

長く輝く金髪は、ハンスの指示通り一点の乱れもなく編み込まれている。

端正な顔立ちには、14歳とは思えぬ冷徹な理知が宿っていた。


彼女の手にする万年筆の先が、羊皮紙の上で鋭く跳ね、そして呟く。

「……ハンス先生。このデータにある『軍事費』の項目の水増し数字の推移は本当なの?

実際に発表されている世界の軍事予算のわずか10%、いえ、20%もあれば、

ここに記録された貧困も難民問題も、

そのほとんどが解決できる予算になることは理解していたわ……

でも水増し分がこんなにも多いなんて……」


エレナは別の項目にも目を移し、続ける。

「富裕層が倉庫に眠る『税金逃れの絵画投資』の規模が、

数兆円に達する利益を膨らませているのも知ってはいたけど、

これまでの予想より実数がこんなに多いなんて……」


エレナはハンスを射抜くような目で見つめた。

「これらは記録するだけで、留めるだけでいいのかしら?

この余剰資源の有り様を、私たちはただ『知っている』だけで済ませている……。

それは、共犯と同じではないかしら?」


教師ハンスは眉をひそめ、答えなかった。


それが、この一族の絶対的な鉄則――『観測者は対象に触れてはならない』――

であることを、エレナは幼い頃から諭されて来た。

しかし、不均衡な数字が、

世の中の知る暫定数よりもなお、異なる羅列である現実を突きつけられる度に、

エレナの心には納得できないおりが積み重なっていった。


「エレナ、相変わらずだね……少し頭を休めないか?」

書庫の重い扉が開いた。光と共に現れたのは、3歳上の兄、ヨハンだった。


彼は、一族の制服である白の詰襟に、薄いグレーのベストを重ねていた。

陽光を反射する金の髪と、深い海のような碧眼が、見る者の心を解きほぐしていく。


彼は、歩くたびに微かな革靴の音を響かせ、

重苦しい空気をかき消すように優雅に歩み寄った。


彼はこの古く暗い宮館の中で、唯一の太陽のような存在だった。


ローゼンタール家の次期継承者。

その重責を、彼は奢ることなく、

まるで道端の石を拾い上げるような自然さで背負っていた。


ヨハンは舌なめずりをしながらエレナに語りかけた。

「母様が、お茶の時間だと言っている。今日は特別な苺のケーキがあるんだって」


エレナの瞳がわずかに輝く。

「苺?」


それを見たヨハンは、柔らかく目を細めた。


彼の後ろからは、一歩引いた位置で、同じ年頃の青年ノアが付いてきている。

数年前、中東の紛争地で両親を失い、ヨハンの強い希望で引き取られた「養子」だった。


ノアは、黒い詰襟の簡素な服に身を包んでいた。

ヨハンの華やかさとは対照的に、

日焼けした肌と短く刈り込んだ黒髪、そして射抜くような鋭い瞳が特徴だ。


彼は決して声を上げず、気配を殺しているが、

その鋭い瞳はいつも、ヨハンを追いかけていた。


テラスに出ると、秋の柔らかな陽光が三人を迎えた。


テーブルの上には、真っ赤な苺が乗ったケーキが置かれている。

甘い香りが鼻をくすぐり、

先ほどまでの「死の記録」の陰鬱さが、霧散していくようだった。


「さあ、みんなで食べましょう。ヨハン、あなたが切り分けなさい」

現当主である母イザベラが、慈愛を込めた声で促す。


彼女は透けるような白い肌に、影を落とすような黒いレースのドレスを纏っていた。


椅子に深く腰掛けたその姿はどこか儚げで、

常に薄い膜の向こう側にいるような憂いを帯びている。


かつての美貌は長らく患っていた病によって削ぎ落とされ、

細い指先はティーカップを持つことさえ重荷であるかのように震えていた。



ヨハンはナイフを手に取るとケーキを切り分けた。


皿に載せられたケーキを見て、エレナは声を上げた。

「兄様、これ……」


エレナの皿には、大粒の苺が3つ。ノアの皿にも、同じく3つ。

対して、ヨハンの皿に乗っているのは、苺が乗っていないクリームだけのケーキだった。


「ああ、ごめん。うまく分けられなくて。僕は中に入っている苺だけで充分だよ。

ブラックベリーには敵わないかもしれないが、エレナは苺も好きだろう?

ノアも、甘いもの好きだろ? この苺はきっと美味しいよ」

ヨハンは笑った。


それは、他者の充足を確認することに真の喜びを感じている者の笑顔だった。


エレナは兄からフォークを受け取りながら呟いた。

「でも、これじゃあ兄様のケーキがあまりにも貧相だわ」


ヨハンはノアにフォークを渡しながら答える。

「いいんだよ。僕は、エレナが美味しそうに苺を食べる顔を見るのが、

昔から大好きなんだ」


母イザベラがふっと、寂しげな微笑を漏らした。

「ヨハン。あなたは本当に、亡くなったお父様に似ているわね……」


エレナは一瞬、心に冷たい風が吹くのを感じた。


亡くなった父……母が婿養子として迎えたその人は、

エレナが生まれてすぐに、不慮の事故で亡くなったと聞かされている。


父もまた、ヨハンのように「道化」を演じ、

その場の調和や幸福を祈り、守る人だったという。


エレナは苺を一口齧った。甘酸っぱさが口の中に広がる。

隣では、ノアが戸惑いながらも、ヨハンから譲られた苺を大切そうに咀嚼していた。


エレナ:「……兄様」

ヨハン:「ん?」

エレナ:「苺、一つあげる。一番大きいの」


エレナがフォークで差し出すと、ヨハンは困ったように笑い、それから「ありがとう」と、エレナの親愛を受け取るために、その苺を口にした。


「美味しいね。世界中が、こんな味がすればいいのに」

ヨハンのその言葉は、純粋な祈りだった。


しかし、エレナは知っていた……書庫のデータは語っている。

この苺一粒を誰かが食べる裏で、どれほど多くの人間が、

その一粒さえ奪い合って死んでいるのかを。


そして、その真実から見ると、この平和なテラスの空気さえも「虚構」であることを。


(兄様、あなたはいつも清く、優しい……

でも、この世界は、優しすぎる人を、一番先に食べ尽くしてしまう場所……)

エレナの小さな胸には、兄への深い敬愛と、どこか不安めいた心が常に揺れていた。



その不安の根源の一つは、この平穏を浸食する「影」の存在だ。

エレナとノアそしてヨハンは、共通の嫌悪を抱いていた。


保存委員会の副長、マルクス。

彼は何かにつけてノアを使用人のように扱い、一族の家訓を絶対的な盾として振りかざす。


数年前、エレナが目撃した光景は今も脳裏に焼き付いている。


ヨハンが『もう古くなったから』と、自分の上着をノアに譲ったときのことだ。

その胸元に輝くローゼンタール家の紋章を見たマルクスは、

獣のような叫びを上げてノアに掴みかかった。


「血筋を汚すな、この卑しい異物が!」

マルクスは激昂し、ノアの胸から紋章をポケットごと引きちぎった。

引きちぎられたその胸の布地には小さな穴がいくつも空いてしまった。

ノアの震える肩と、無言でそれを守ろうとしたヨハンの悲しげな瞳。

あの時から、この家の空気には、決して消えない毒が混じっている。


――まだ苺のケーキの甘い香りが漂う室内に、ノックの音がした。

その保存委員会の副長マルクスであった。


「……失礼致します。イザベラ様、お寛ぎのところ恐縮ですが、

ノア君を少々お借りしたい」

そう告げるマルクスの目は、ヨハンの顔を少し伺うように淀んでいた。


イザベラはゆっくりと紅茶を置き、冷徹な目でマルクスを見つめた。

「お茶が終わったら行かせます」


ヨハンはマルクスを見定めるような視線を向けた。


その目は、エレナやノアに向けられた暖かなものとはまるで別人のようだった。

氷の刃のような鋭利な理性が、マルクスの底卑しい思惑を剥き出しにする。


ヨハンのその視線に、マルクスは一瞬息を呑み、逃げるようにその場を去った。

「……失礼致します」



エレナは反射的に身を乗り出し、母の袖を引いた。

「お母様、お待ちください。マルクスはいつもノアに無理な言いつけを……」


イザベラは震える細い指でエレナの手を優しく制し、ひどく静かな声で諭した。

「エレナ……気持ちは分かるわ……でもね、ノアには彼の役割があり、

マルクスはローゼンタール委員会が定めた彼の指導員なの。

それに、私たちには『記録者』という役割を常に尊重しなければならない宿命がある。

嵐の中にいる者を救おうとして手を伸ばせば、私たちの持つ歴史のペンは折れてしまう。

……干渉や慈悲は、時として守るべき者さえも見失わせ、最悪の悲劇を招くこともある……

今はただ、この苺の味だけを覚えておきなさい」


その言葉に含まれた重い諦念と震えに、エレナは言葉を失った。



テラスに再び沈黙が訪れる。


いつも冷静なヨハンが、わずかに震えたような声で呟いた。

「僕はいつか、この苺のケーキが足りない時に、

誰かが譲るのではなく、ケーキの数そのものを増やせるような……

そんな理を見つけたいと思っている」


エレナは、兄の横顔に宿る深い孤独と覚悟を見た気がした。


ヨハンは決して『優しいだけの男』ではない。

彼は、自分を呑み込もうとする「業」でさえ、

愛という名の冷徹な知性で包み込みたいと理想を抱く「選ばれた聖者」だった。



風が吹き、赤い苺の香りをレマン湖の底へと運んでいった。


陽光の下で苺を頬張るエレナと、全てを許したいと微笑むヨハン。


その美しすぎる情景は、まるで散りゆく直前の花火のような、

儚い均衡の上に成り立っていた。


苺の甘酸っぱい香りは、

やがて来る冬の足音にかき消され、レマン湖の底へと深く、深く沈んでいく。

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