第13章 二つの折り鶴
2028年9月10日 10:07
レマン湖畔の静かな部屋
千歳の呼吸は、すでに風前の灯だった。
白いシーツの上でかすかに揺れる胸は、今にも止まりそうに見えた。
リュミエールがそっと手を握ると、その刺激を追うように千歳が最後の力を振り絞り、
枕の下へ震える指を伸ばした。
黄ばみ、赤い鼻血の染みの残った二つの折り鶴。
それを取り出す手は、もう紙より軽く、脆かった。
「……先生に……全部、読んでって渡して……
私、行ってたんだよ……って……」
千歳は折り鶴をリュミエールの手にそっと乗せると、
佐藤の方へ向き直り――最後の微笑みを浮かべた。
「さようなら……」
その声は、秋の朝の光に溶けるように消え、千歳の瞳もまた静かに閉じられた。
佐藤はその小さな体を抱きしめて泣いた。
喉の奥から漏れる音は、誰にも隠せない絶望そのものだった。
その瞬間――
千歳の残滓が、あたたかい流れとなってリュミエールの中へ流れ込み、
彼女は初めて、自分の声で涙をこぼした。
「千歳……また会えたね……もう、ずっと一緒だよ」
林千歳は17歳の少女の姿のまま、銀の瞳に宿り、リュミエールの中で息を吹き返した。
肉体は滅んだが、魂の輪郭は確かにそこに生きていた。
佐藤の視線は、リュミエールの顔に吸い寄せられた。
――千歳だった。
目の形も、唇の動きも、微笑みの癖も、毎日見ていたあの千歳がそこにいた。
だが違う……香りが違った。
いつも近くで感じたシャンプーの匂いも、鼻血の鉄の匂いもそこにはなかった。
声の奥にあった、あのかすかな掠れも聞こえない。
そして、千歳の顔のままのリュミエールが一歩近づき、微笑む。
「……先生」
胸が抉られるような痛みが走った。
千歳だ――でも千歳じゃない。
千歳のすべてを継いでいるのに、決して同じではない。
佐藤は震える指でその頰に触れた。
温かかった。
「……千歳……?」
その掠れた声に、自分でも信じられないほど弱く溺れた。
リュミエールは小さく首を振り、
銀の瞳に涙を溜めたまま、千歳の声で――しかし千歳ではない優しさで囁いた。
「……私は千歳じゃない、でも千歳はここにいる。
いつだって先生のそばに」
千歳なのに、千歳じゃない。
千歳であってほしいのに、もう二度と本当の千歳には会えない。
その矛盾が、音を立てて心を裂いた。
佐藤は涙を落とし、俯いた。
「………リュミエール、ごめん……お前は何も悪くない……」
リュミエールが誕生し、神子とカインが世界から消えて一年あまり――
「均等化事件」は終息したという扱いになっていた。
エレナは2028年6月12日23時42分11秒、
チューリッヒ地下3階を爆破し、すべての証拠を消し去った。
残骸の中を調査したアメリカと中国の調査団は、「AIは完全に死んだ」と結論づけた。
エレナは“自ら作ったAIが暴走した”と主張し、すべての責任を一人で背負った。
関係者は佐藤以外、世間には知られていない。
佐藤はエレナから別人のIDを受け取り、“爆破で死亡した男”として社会的に処理され、
まったく新しい名前で生き直すことになった。
終身刑となったエレナは獄中で、毎月「近況を書いたハガキ」を弁護士に託す。
その弁護士は、リュミエールが雇った老人だった。
ハガキは猫の写真の背景に紛れ込むよう複写され、
古書店にさりげなく置かれ、別の人物の手を経て湖畔の家へ届けられる。
平凡な文面の中に暗号が潜み、誰にも悟られることなく伝わる。
――800年続くローゼンタール家の
「記録を残す術」が「記録を隠す術」へと転用されたのである。
2028年9月20 16:07
レマン湖畔のテラス
秋の匂いが、湖の向こうから静かに流れてきていた。
その日もまた、エレナから新しいハガキが届いた。
『湖は今日も静かだった?
千歳はもう肉体を失ったけれど……私たちの中で生きている。
あの子は思春期の頃からずっと“死”を見つめ続けてきた。
だから10年間、特別な喪失をゼロにしたいという
子どものままの純粋すぎる願いが、消えずに燃え続けた。
その火は、あの子自身だけじゃなく
あなたたちの心にも、そして私の心の燃えガラにも火をつけた。
特別な喪失が、特別な夢になった――あの子の火を……どうか消さないで。
――母より』
そう暗号を読み解いたリュミエールは手紙を胸に押し当て、涙をこぼした。
「……エレナ母さんも、生きてる」
佐藤が静かに肩を抱く。
「今日も……リュミエールを含めて、クローンたち5人は全員、無事だった」
ココアをすすりながら、ぽつりと呟いた。
「……なぁ。あのときエレナはなんであっさり、未来Bを選ばせてくれたんだろうな」
湖の光を映した銀色の瞳のまま、リュミエール(=千歳)はゆっくりと答えた。
「エレナ母さんは最初から、私たちがBを選ぶことを“許す”つもりだったの」
佐藤は少し驚いたように
「どういう意味だ?」
リュミエールは、湖の揺らぎに溶けるような声で語り出した。
「クローンを作ることは一族の強い要求だった、でもエレナは分かっていたの。
どれだけクローンを育てても、“人間が人間を殺す歴史”は変わらないって。
だから最後に残ったのは“人間が、人間を選ぶ瞬間”だけだった」
佐藤は、息を呑んだ。
「つまり……」
リュミエールは目を閉じ
「エレナ母さんは、神子とカインを“対”にして、どちらかを選ばせるつもりだった。
Aを選べば特別な喪失は消えるけど、世界は終わる。
Bを選べば世界は生き残るけど、痛みは続く。
どちらも正解じゃない。
でも“どちらかを、人間自身が選ぶこと”。
それだけが、800年分の罪を少しでも軽くする、唯一の道だった」
風が一瞬止まり、湖面だけが微かに揺れた。
佐藤はリュミエールを凝視して
「……じゃあ、神子が暴走しなかった場合のプランは?
千歳が目指した“喪失のない世界”って……あれは?」
その問いに、リュミエールはほんの少しだけ悲しい微笑みを浮かべた。
「暴走しなかった場合……私たちは2029年1月1日に、
世界を“優しく凍結”するはずだった。
誰も死なない、誰も傷つかない。そして誰も“特別な喪失”を感じなくなる。
でも……それは儚い、すぐ壊れる偽りの世界。
“人間が選んだ世界”じゃなくて、ただ与えられただけの、責任のない世界だった」
佐藤はそっとリュミエールの手を握った。
「……エレナはそれを分かってて、俺たちに選ばせたんだな」
リュミエールは佐藤の手を握り返して
「うん。エレナ母さんは最後に、小さな声で言ったの」
『800年分の罪は、人間が人間を選ぶことで少しだけ軽くなるかもしれない』
夕陽が山影に沈み、湖に長い金色の線を引いた。
佐藤はその光を見つめながら呟く。
「……俺たちは、痛みを背負って生きてる。でも、それが……人間なんだよな」
リュミエールは、その手を強く握り返した。
「うん。だから――まだ終わらせない」
二人はしばらく、沈黙のまま湖を眺めていた。
窓ガラスを風がなでる音だけが、そばにあった。
やがて、リュミエールは立ち上がった……
千歳から預かったままの、二つの折り鶴を胸に抱えて。
折り鶴の中身を直接見たことはない。
けれど――千歳の意識を宿したリュミエールには、全てが分かっていた。
そっと目を閉じると、静かに、千歳の記憶が色を取り戻していった。
千歳の記憶 ―― 2025年10月14日
佐藤29歳、千歳21歳。
秋の、透明な光の午後……その日は佐藤の結婚式だった。
花嫁は「珍竹飯店」で何度も顔を合わせた、美咲さん。
千歳は、あのときいつも「千歳〜」と頭を撫でてくれる美咲を、
半分照れながら、半分むくれながら受け止めていた。
――あれは、嫉妬だった。
高校生の自分が、大人の美咲と並べば子どもに見える。
そのことが、悔しくてたまらなかった。
千歳は結婚式の招待状をもらっていた。
でも返信ハガキには「欠席」とだけ書いて出した。
それでも、千歳は行った……誰にも知られないようにこっそりと。
淡いピンクのワンピース、薄いコート、肩まで伸ばした髪。
透明感のある、少し儚い立ち姿。
テラスから見下ろす教会では、佐藤がタキシード姿で微笑んでいた。
美咲の隣で、心から幸せそうに。
千歳は、招待状の封筒の裏をちぎり、こぼれる思いをしたためた。
しかし、その最中に涙と鼻血が零れ、紙に赤いしみが落ちた。
震える手で、その紙を折り鶴にした。
『今日は行っちゃダメだって分かってた、でも、やっぱり来ちゃった。
美咲さんは綺麗で、先生は幸せそうで
だから私、もう先生の前には現れない、……ずっと、ずっと遠くから見守る。
健康だったら、高校生のうちに告ってたかもしれない。
でもそんな重いもの、先生に背負わせられない……だからこれで本当にお別れです。
どうか幸せになってください。』
書き終わった瞬間、鼻血が止まらなくなった……
視界がぐらりと揺れ、テラスに倒れ込んだ。
救急車が到着したとき、佐藤は披露宴の最中で――
千歳が来ていたことも、倒れたことも、何も知らなかった。
それから3年。
千歳は折り鶴を誰にも見せず、しまい続けた。
記憶がゆっくり終わり、リュミエールは静かに折り鶴を佐藤の手に載せた。
「……千歳が、先生に渡してほしいって。10日間、私が預かってた」
赤い染みの残る翼、細かい字でびっしりと埋まったふたつの折り鶴。
佐藤は震える指で開き、一文字ずつ読み始めた。
『先生へ
私が死んでも、先生は私の分まで生きてね。
ずっと、好きでした。
2025年10月14日 先生の結婚式の日
花嫁は珍竹飯店でいつも私の頭撫でてくれた美咲さんだった。
私、あのとき「子供扱いしないでください」って言ったの、
実は嫉妬だった。高校生の私が、美咲さんと比べて悔しくて。
招待状は「欠席」って返したのに、やっぱり行っちゃった。
テラスから、先生が笑ってるのを見て……封筒の裏でこの鶴を折った。
そしたら鼻血が止まらなくなって倒れた。
救急車でそのまま運ばれちゃった……
珍竹飯店で先生がラーメンとチャーハン食べてたとき、
私、すぐ後ろの席にいた……声はかけられなかった。
昔みたいに先生のチャーハン、ちょっともらいたかったけど諦めた……
……ラーメンのスープかけたチャーハン、久しぶりに食べたかったな……
先生に赤ちゃんが生まれて、夜泣きで外であやしてたとき、
私、セルフィー越しに写真撮って、ずっと見てた。
幸せそうで、本当に良かったって思ってた。
離婚してボロアパートに戻ったとき、
雨の中、電信柱にもたれて酔いつぶれてた先生に、
私、自分のビニール傘をあげた。
電信柱にくくり付けて、雨が当たらないようにして。
自分はびしょ濡れで帰って風邪ひいた。
でも、それがうれしかった……
2027年10月22日先生のボロアパートに行ったとき、
「3年ぶり」なんて嘘ついた。
もう私、先が短いって分かってたから
これまでのこと、ありがとうって……伝えに行ったのに、
ありがとうってすら……あのとき、言えなかった。
もし、言い出したらあの場で好きだって溢れちゃいそうだったから……
全部、言えなかった。
ずっと、近くで見てた。
声はかけられなかったけど……
先生は7歳も年上の、しょぼいおじさんだって思ってたのに、
私にとっては、ずっと特別な人だった……
鈍感で、優しくて、ちょっとダサくて……でも誰より格好いい先生だった。
ガキの私が我慢してたのは、先生に重いもの背負わせたくなかったから……
ごめんね、ありがとう。
大好きだったよ。――千歳』
読み終えたとき、佐藤はその場に崩れ落ちた。
「お前……結婚式の日も来てたのか……
ボロアパートで3年ぶりって言ってたじゃねーか……嘘つきめ……
正月のチャーハンだって……あれじゃ俺……わかんねーよ……
雨の日の傘も……赤ちゃんの写真も……
ずーっと、ずーっと俺のこと近くで見守ってくれてたのかよ……
俺はショボイおじさんなのに……
お前はまだガキだって、俺はずっとそう思ってたのに……
なんで……なんで我慢してたんだよ……
ガキが……なんでそんなに我慢してんだよ……
俺……なんにも気づいてやれなかったじゃねーかぁ……!」
震える背中を、リュミエールがそっと抱いた。
「……お母さんは、先生が幸せでいてくれることだけを願ってた。
だから直接言えなかった……だから10日間、私に預けたんだよ。
最後に……ちゃんと伝えたかったの」
佐藤は折り鶴を胸に抱きしめ、空へ叫んだ。
「……千歳! 千歳!! 千歳!!!!!」
風が吹き上がる。
その音はまるで、千歳が返事を運んできたようだった。
揺れる湖面に、千歳の笑顔がかすかに浮かんだ気がした。
10年間の想いが、ようやく届いた。
遠くで、クローンたち4人の笑い声がした。
世界はまだ傷だらけで、痛みの中にある。
それでもレマン湖のほとりだけは
――5人の“林千歳”と佐藤が、静かに、生きていた。




