第1章 鼻血と再会
《均されざる喪失》前書き
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※完結済み・中編SFです。
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※全部で14章+エピローグです。
完成して2025/12/17に無事全章アップロード完了しました。
まだ挿絵を制作中なのでその挿絵は出来次第、掲載ずみの各章に追加されて行きます。
つまり小説は完成して全て掲載済みですが、挿絵だけ後で追加されます。
2027年10月22日 23:47
東京都中野区新井薬師前、第2コーポ中野403号室
西武新宿線の高架がすぐ横を走る、黄色く汚れた4階建ての鉄筋アパート。
403号室は最上階の角部屋だ。
表札はなく、ドアに貼られた「佐藤透」のシールが半分ほど剥がれかけている。
室内は6畳一間。
天井の蛍光灯がチカチカと瞬き、壁紙は端から反り返っていた。
床には開いたままのノートPCが置かれ、画面には無数のチャートと
「4億3200万円 含み益」の文字が赤く光っている。
床に散乱する株価プリントは、ほとんどが黒字だった。
壁には自虐的なメモまで貼られている。
「元・外資系セキュリティ 佐藤透
示談金全額投資中」
佐藤透、31歳。
元外資系サイバーセキュリティ特務課主任。
今はフルタイムの専業トレーダーだ。
ワイシャツの袖を肘までまくり、ネクタイは床に投げ捨ててある。
目の下には濃いクマが浮かび、伸びすぎた髪がうねっていた。
右手の500ml缶ビールは、すでに三本目だった。
突然、インターホンが鳴った。
深夜零時近く。
佐藤は缶を置き、覗き穴に目を当てる。
そこに立っていたのは――
黒いショートボブ、水色のワンピースに紺のカーディガン。
顔色が悪く、唇は青白い。
右手でコンビニのビニール袋を握りしめ、鼻の頭には汗が浮いていた。
林千歳、23歳。
「……千歳?」
佐藤がドアを開けると、千歳は無言で上がり框に立ち、すぐに壁へ背中を預けた。
雨に濡れたローファーから、水滴がぽたりと落ちる。
3年ぶりだった。
その分だけ、彼女は少し大人びて見えた。
「入って」
佐藤が後ずさると、千歳は一歩だけ踏み込み、部屋の中を見回した。
ビールの空き缶2本、株価チャート、ノートPCに表示された「4億3200万円」。
そのとき、玄関の隅に立てかけられた1本のビニール傘が目に入った。
「これ、ずいぶんボロいビニール傘だね」
佐藤は一瞬視線を逸らし、苦笑いを浮かべる。
「あ、ああ、それか。ちょっと訳ありでな」
千歳「いつの?」
佐藤「1、2ヶ月くらい前かな」
千歳「それにしては、年季が入ってるね」
佐藤「もらいものだから。新品じゃなかった」
千歳は傘の柄を指でなぞり、小さく笑った。
「そっか……ここに来るの、3年ぶりだから。3年ものかと思っちゃった」
佐藤は「ああ……」と曖昧に頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。
千歳は小さく笑い、すぐに目を伏せる。
佐藤は視線を逸らし、床に落ちた株価プリントをそっと拾い上げ、脇に寄せた。
3年。
2人にとって、それはあまりにも長い空白だった。
空白が千歳を大人びて見せていたが、佐藤はふと昔の教え子の姿を思い出す。
――やっぱり、変わっていないのかもしれない。
家庭教師として、佐藤が千歳に初めて会ったのはまだ彼女が14歳の頃だった、
その頃の面影がこうして横目で見るとまだ残っている。
だか、千歳の息は浅く、頰の色も悪い。肩が、わずかに落ちている。
23歳とは思えない消耗した影が、体に張り付いていた。
佐藤は喉を鳴らした。
教え子の顔をじっと見つめ、様子を伺う。
千歳もその視線を感じ、ゆっくりと顔を上げる。
「…………」
沈黙が続いた。
佐藤が口を開きかけた瞬間、千歳が先に息を吐いた。
「……先生、さすがですね。
でも、なんで4億以上もあるのに、こんなボロアパートに住んでるの?」
佐藤は苦笑いし、肩をすくめる。
「この4億は、株でさらに増やすための軍資金だからな。
生活費には、なるべく使いたくない。
それに、ここは……結婚前まで住んでて気に入ってたから。
キープしておいた秘密基地みたいなもんだ。……まあ、ちょっと前まではな」
千歳が、くすっと笑う。
「家を別れた奥さんと子供に、財産分与で渡したんでしょ?
だから仕方なく、ここに戻ってきたってわけね」
少し間を置き、ぽつりと続けた。
「子供……かわいい子だよね」
佐藤は一瞬、顔をしかめる。
「は? 見たこともねえくせに。まだ1歳そこそこだから、人間じゃねえよ。
怪獣みたいなもんだぞ」
千歳は小さく笑い、すぐに真顔へ戻った。
「あの……ほら、奥さん綺麗だったから。かわいいだろうなって思ったのよ。
はは……先生に似ずにね」
佐藤は照れ臭そうに頭を掻く。
「あー、そうだろうよ。
……それで、お前は家出猫探しみたいに、俺の古巣に来てみたってわけか」
千歳は目を細め、呟くように言った。
「猫か……確かに、先生って私にとって猫なのかも」
佐藤は眉を跳ね上げ、声を荒げる。
「ふざけるな! 俺はお前より7つも年上だぞ!
敬意ってものが……ったく。
3年たっても、9年以上たっても、クソガキだな」
千歳は小さく笑い、また目を伏せた。
「猫だって言ったの……自分じゃない」
佐藤は千歳を横目で見ながら
「こっちは謙遜して言った例えだよ、例え!」
千歳はビニール袋を差し出した。
中身は、おにぎり2個とティッシュ。
「どうせ飲んでばかりで、何も食べてないんでしょ?」
佐藤はティッシュだけ取り、おにぎりを受け取り、テーブルに置く。
「鼻紙はお前用だよな?……しかし、どうして今さら」
千歳は目線を逸らし、ぼそっと言った。
『明日、朝6時12分に、アメリカが最初に均されるから』
佐藤の眉が跳ねた。
「……は?」
「だから、先生に教えてあげようと思って」
千歳は微笑んだ。
昔と同じ、ほんの少しだけ狂気をはらんだ笑顔で。
ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、佐藤の手に握らせる。
裏に鉛筆で小さく書かれた文字。
《2029年 世界同時》
その瞬間、千歳の鼻から赤い滴がぽたりと落ちた。
佐藤は紙を握りしめたまま、千歳を見上げる。
「……お前、まさか治療の経過……」
「うん」
血がワンピースの胸元に、ぽたぽたと落ちる。
佐藤はゆっくり立ち上がり、千歳の肩に手を置いた。
「……少し座れ」
千歳は首を振る。
「大丈夫。もう覚悟はできてるから……もう、あんまり時間ないみたいだから」
佐藤は、3年ぶりに会った教え子が、すでに死にかけていることを悟った。
「先生」
千歳は血のついたティッシュで口元を拭いながら言う。
『明日の朝から、世界が変わるよ。
全部、均される』
まるで恋人に告白するような声で、続けた。
「特別な喪失が、この世から消える」
中野の古いアパートの外を、西武新宿線の電車がゴトゴトと通り過ぎていった。
蛍光灯が最後に大きく瞬き、消えた瞬間、
千歳は小さく咳き込み、唇を噛んで佐藤を見上げた。




