ACT.1 徳島市長夫人殺人事件
徳島市・東富田。
風に鳴る竹の葉の音が、やけに鋭く聞こえた夜だった。
市長公邸。
静寂の中で、市長夫人・仙石美沙(せんごく・みさ、44歳)は震える手でスマートフォンを握っていた。
スマホの画面に映る金額が、脳内で何度も読み直された。
「……嘘よね、これ……本当に……?」
画面の一行。減った残高と、“誰?”という名義。
「……なに、これ。誰よこの女。あんた、何に金使ってんの?」
書斎のドアを叩く。
返事はない。
美沙は扉を開ける。
中で、市長・仙石大輔がPCモニターの光に照らされていた。
データの山、株式、AI監視予算の明細、すべてが混線したような映像を前に、無表情でキーボードを叩いている。
「あなた、答えて! 答えないと政治的スキャンダルをばらすわよ!」
仙石は静かに立ち上がり、妻の顔を見た。
その瞳の奥に、もはや“家庭”という感情はなかった。
妻の言葉を一瞬だけ咀嚼してから目を伏せる」
「君に分からなくてもいい。徳島にとっては、これが正しいんだ」
「正義だとか秩序だとか言って、借金で遊ぶの? 嘘つき!」
美沙が机の上の請求書を突きつけた瞬間――!
仙石はしばらく無言のまま動かず、やがて静かに手元のコードに触れた。その手つきには、逡巡も衝動もなかった。まるで、それが“唯一の処理”としてインストールされていたかのように──。
暗転する視界の中で、美沙は、ただ夫の目を見ていた。
「――っ、やめ、だいす……!」
引き絞られる瞬間、美沙は彼の目を見た。
そこに怒りはなかった。ただ……諦めと、使命感と、冷たい安堵。
「あなた……それでも、人間……?」
その疑問が言葉になる前に、喉が潰れた。
「……守らなきゃならないんだ。数字が、数字だけが……残るんだよ……」
次の瞬間、部屋には**雨音だけ**が響いていた。
その三時間後。
アーケロンが、誰より先に“異変”を感じ取った。
《アーケロン解析ログ AIプロトコル No.24819:公安直通コード“γ-4”発動/家宅進入許可取得済》
・位置:徳島市 市長邸
・生体反応異常:検知(Level.4)
・応答確認:失敗(Attempt×3)
・推定被害者:仙石 美沙(44)/ステータス:心肺停止
・プロトコル自動発動:特殊部隊通知
AI監視網が“通常犯罪ではない”と判定、ガイアスワットに通報。
隊長・飯泉リリ警部が端末を叩き、声を張る。
「全隊員、急行。現場は仙石市長邸。状況不明。――美海、行くわよ!」
一瞬だけ、リリの手が止まった。
指先が小さく震える。
(奥さん……仙石の……?)
その動揺を、呼吸と共に押し殺す。
後藤田美海も、モニターに映る“美沙”の文字を見つめたまま、わずかに眉を寄せていた。
(あの時、子供たちと話していたっけ……母親のこと……)
だが迷いの余地はなかった。すぐにガイアドルフィンに飛び乗る。
仙石邸、夜の空をドローンの群れが覆う。
無数のドローンが、空の目のように彼女を見下ろしていた。
正義を見張るのは人間か、AIか。それとも、ただ“見られる”ことそのものか。彼女には、もう分からなかった。
現場。
鑑識班が雨の中、即席のテントを広げる。滴る水音の奥で、雨音にまぎれ、VRカメラが低く唸る。再構成されたホログラムに、足跡・血痕・線維片が次々と浮かび上がった。
「線維片が一致しないぞ……仙石市長の衣服じゃない。」
「第三者がいたにしては、痕跡が少なすぎる」
「……むしろ“上手すぎる”。何者かが“痕跡を消した”か──」
監察医と検視官がぶつかるように言い合う。
「死亡推定時刻は二二時三〇分。致命傷は一撃だ」
「……だが、皮膚に裂傷がない。外傷性ではなく、圧迫の可能性がある」
「むしろ“器用すぎる”。普通の人間が素手でこうなるか?」
「違う、心停止後も筋収縮の反応がある。神経刺激痕が……」
リリが静かに現場に立つ。
雨に濡れる額を手で拭いながらも、目だけは鋭い。
ただ、その足元は、一瞬わずかに揺れた。
「報告をまとめて。AI照合を急いで」
その声は少しだけ掠れていた。
美海は壁に浮かぶ血痕ホログラムを見上げた。
不意に手袋の中の手が、ひどく汗ばんでいるのに気づく。
「……人間の犯行にしては、手際が良すぎる。」
邸内の警備員が連絡を受け、階段を駆け上がっていた。
「……子どもたち、部屋から……!?」
パジャマを着た、小柄で女の子と見間違うほど中性的な少年が立っていた。
長男の仙石幸昌(せんごく・ゆきまさ、13歳・中学1年生)。
「母さん……?」
次の瞬間、彼は倒れ込むように床に膝をついた。
「母さん、起きて……お願い……!」
もう一人、**次男の仙石守信(せんごく・もりのぶ、11歳・小学5年生)**が泣きながら駆け寄る。
警察官が抱きかかえようとするが、少年は離れようとしない。
リリは目を伏せた。だが、その光景は、脳裏に焼きついて離れない。
美海の手が無意識に拳を握っていた。手袋越しの震えは、止められなかった。
顔を上げるまでに、数秒かかった。
美海もまた、ゴーグルを外していた。
表情を覆えなかった。
その目に溜まったものを、雨のせいにはできなかった。
(……これが、“守る”ってことなのに。)
どう直すか迷っていたら、ここが分岐点。
リリと美海に「守る」って何かを刻むには、この瞬間が避けられないはず。
翌朝。
県警本部・捜査一課会議室。
美海とリリは端の席に座っていた。
テーブルには分厚い鑑識報告書とVR映像データ。
刑事課長が書類をめくりながら言う。
「市長本人からの要請だ。“一刻も早く犯人を逮捕してくれ”とな。」
「その言葉を、信じるんですか?」
美海が問う。
捜査本部長は眉をひそめた。
「上の顔色も見なきゃならん。……現実を見ろ」
その言葉に、リリが冷たく返した。
「真実が腐るのは、黙ってる大人が多すぎるからよ」
室内が一瞬、凍りついた。
FAXの音が鳴る。
司法係が**令状請求書**を本庁に送信している。
だが、送信ログの横で、別の回線に通信ログに「記録削除」のアクセスが並ぶ。タイムスタンプには、まだ誰も触れていないはずの時間。
SNS上では「市長邸殺人事件」「真相を暴け」が徳島県内でトレンド入り。
情報の嵐が、徳島全体を覆っていく。
夜。
ガイアスワット本部。
美海の机の上には、分厚い報告書と端末。
データの海の中に、ひとつだけ奇妙なファイル名があった。
突然、ファイル名が揺らいだように見えた。
それが“自分で”閉じたのか、誰かが“閉じさせた”のか──美海には判断できなかった。
《削除済みファイル:妻・美沙》
※このファイルは、通常の操作ログに記録されていません。
クリックしても、何も開かない。
無音の画面に、ただ黒いカーソルが点滅するだけだった。
そして表示されたファイル名が"勝手に"消えた。
美海のペンが震えた。
誰かが――彼女の存在そのものを、消そうとしている。
リリの声がインカムに入る。
「美海、聞こえる? 本件、待機命令が出た」
「待機? 事件の核心に迫ってるのに?」
「命令よ……現場が動けないなら、私たちはもう、誰かの“手続き”にすぎないわね。」
美海は沈黙した。
雨を映すレンズに、彼女の顔が一瞬だけ映った。
監視しているのは、誰だったのか。
(責任、救済……。どちらも正しい。けれど、どちらも届かない。)
机の上の削除ファイルを見つめながら、美海の胸の奥で、ひとつの火が静かに灯った。
――この手で、“記録”の中からあなたを掘り返す。
“誰かが操作している”。
記録から人間が消える”――それは、第二の殺人だ。その確信だけが、冷たい光より早く彼女の中に落ちた。
The Next Misson




