ACT.6 保険勧誘⁉
――夜の徳島港。
風は生温く、空気には錆びと油の匂いが混じっていた。
古びた倉庫群の一角で、男の笑い声が響く。
「ははははっ……いい音がするじゃねぇか!」
殴る音。鉄を叩いたような衝撃音。
地面に転がるのは、既に意識を失った若い男。
その顔面は腫れ上がり、口から血を垂らしていた。
神無月煉――真月団幹部。
“人間改造計画”を仕切る、最も危険な男。
筋肉は無駄がなく、笑みだけが獣のように鋭かった。
「理由? そんなもん、あとで“正義面”した奴が勝手に作文するもんだろ?」
彼の掌が、月明かりを反射して鈍く光った。
皮膚の下を走る金属繊維――強化神経。
脈動する筋肉が波打ち、拳を握るたび骨が軋んだ。音が空気を裂く。
傍らの部下が恐る恐る口を開いた。
「か、神無月さん……そいつ、もう息が……」
「いいんだよ。死んだらそれまで。使い捨ての部品に心配なんざ、無駄だ。進化のための“試験”だ。耐えた奴だけが、生き残れる。それが俺の理屈だ」
神無月は指先で血を拭い取り、そのまま唇に舐めつける。
その目は、何も映していないようだった。殴られた男の呻きすら、耳に入っていない。ただ、誰もいない鏡を見つめるような、そんな目だった。
「それよりも、徳島県警の“箱入り部隊”が動いてるそうじゃねぇか。……ガイアスワットだとよ」
周囲の団員たちがざわつく。
神無月は笑った。
夜風の中で、笑い声が油の臭いに溶けていく。
「“正義”なんてあとからくっつくもんだ。俺は先に叩く。それだけさ」
拳を鳴らすと、街の照明が一瞬、黒い雲に覆われた。
月明かりを失った港は、闇と鉄と笑い声だけに支配される。
「“正義”が動く前に、俺が叩き潰す。それだけだ。裁きは遅すぎるからな。」
――その笑い声が、遠く微かに残響した。
“真月団幹部・神無月煉、再び活動を開始”
――徳島県警本部・特別捜査課 ガイアスワット課室。
朝の冷えた空気の中、コーヒーの香りとキーボードの打鍵音だけが響く。
後藤田美海は、真剣な顔でパトロール記録をまとめていた。
だがその表情に、わずかな緊張が走る。
――コツ、コツ、コツ。
ハイヒールの音だ。ゆっくりと確実に、廊下を近づいてくる。
ドアの隙間から見えるピンク色のスーツ。
手には分厚いパンフレットと、毒でも塗ってありそうな笑顔。見ただけで契約書にハンコ押されそうな圧がある。
「お久しぶりですわねえ、美海ちゃん♡」
ドアが開く。
入ってきたのは、“保険のおばちゃん”こと、槇村トメ(56)。
県警公認の外部保険アドバイザーにして、「狙った獲物は逃がさない」と噂されるベテランの“勧誘の鬼”。
「……また来たんですか」
美海は椅子をくるりと回し、肘をデスクに乗せ、睨むように腕を組んだ。
月曜朝にブラックコーヒーを顔に浴びたような顔。
「だってぇ、先月“検討します”って言ったじゃないの♡ 今ならガイアプランに新しいオプションがついて――“最近じゃ若手隊員の半分が独身のまま殉職するって統計出ててねぇ……」
「不吉すぎる!」
美海が机をドンと叩いた。
思わず隣のメカニック林勝が顔をしかめる。
「またか……」
「い、いえね、ボク事故に遭う予定も、死ぬ予定もないんで」
「じゃあなおさら! 若いうちにこそ入っとかなきゃ損損♡ “責任世代保険”も始まったのよ。20歳半ばの独身警察官向け!」
「どんなニッチなターゲティングしてるんですか!?」
トメは笑顔を崩さずにパンフレットを美海の手元にそっと置いた。
美海はまるで爆弾を扱うように、それをつまんで遠ざける。
「ちなみにねえ、美海ちゃん、これ加入するとお見合いと殉職保障、両方ついて月980円♡」
980円。……わりと安いな。これで本当に保険が務まるのか?
「ボク、いま拳銃とスタンガンと通報ボタンで手一杯なんですよ! 婚活に割くメモリは空いてません!」
「しません!!」
そう叫びながら、美海は飛び出していく。
槇村トメは変わらぬ笑みを浮かべながら、そっと囁く。
「ま、若いうちは断られるのも慣れてるのよ……フフフ」
「トメさんもそのうち勧誘されますよ。“正義の保険”とかで」
「それ、わりと売れそうね♡……事案補償、精神ケア、婚約者向け給付金つけて……3年縛りでどうかしら?」
――今日も徳島の秩序は、色んな意味で揺れていた。
……そしてどこかで、神無月煉の拳が再び“正義の定義”を試そうとしていた。




