痴漢捏造犯vs痴漢常習犯
川白美香、29歳。
彼女には定職がない。だが、堂々と胸を張ってこう言える。
「仕事はしてるわよ。痴漢に仕立てて“稼ぐ”のが、私の仕事」
満員電車──それが彼女の“職場”だった。
朝からスーツ姿の男たちに囲まれながら、ターゲットを探す。
彼らの中には、無実であろうが関係ない。
美香は、隙を見て男の腕を自分に押しつけ、わざとらしく悲鳴を上げる。
「きゃっ! この人、痴漢です!」
そう叫ぶだけで、駅員も周囲の乗客も彼女を“被害者”として扱ってくれる。
証拠はなくとも、痴漢の嫌疑をかけられた男は社会的に死んだも同然。
示談金や慰謝料を支払う以外に選択肢はない。
「簡単でしょ? 男の人生なんて、ワンアクションで終わらせられる」
彼女は笑みを浮かべ、今日も獲物を探す。
その姿は、悪女というよりも“冷酷なハンター”そのものだった。
しかし──この日、彼女が仕立て上げようとした“獲物”は、いつものカモとは違った。
無知で愚かな男ではなく、狡猾さを隠し持つ“本物の常習犯”だったのだ。
電車の中──美香の視線の先に、一人の男がいた。
無精ひげにくすんだスーツ。吊革を握るその姿は、どこにでもいる冴えない会社員のように見える。
だが、彼には“裏の顔”があった。
東山和夫、三十代後半。
彼の通勤時間の“楽しみ”は、他人には決して言えないものだった。
人波に紛れながら、ターゲットを見定める視線。
女子高生、女子大生、OL──彼の中で「標的」とされる存在は決まっていた。
佐久間は“常習犯”だった。
これまで何度も危ない場面はあったが、その度に巧妙に切り抜けてきた。
「俺が疑われる前に、誰かをスケープゴートにすればいい」
彼は周囲の仕組みを知り尽くしていた。
混雑に紛れて逃げるタイミング、駅の監視カメラの死角、そして近くの男に罪を擦りつける言葉の巧さ。
追い詰められても、“自分は潔白だ”と演じるのは朝飯前だった。
だからこそ、彼は今日まで一度も捕まることなく、好き放題に“通勤電車”を狩場にしてきたのだ。
──その東山を、川白美香は新たな“カモ”に選んだ。
だが、彼女はまだ知らない。
自分の得意技が、この男には通用しないどころか、“逆手”に取られることを。
ある朝の満員電車。
いつものように吊革を握る佐久間のすぐそばに、美香はさりげなく立っていた。
(……今日の“獲物”は、この人でいいわ)
彼女は心の中で決め、わざと体を揺らして距離を詰めた。
次の瞬間、彼女は甲高い声を張り上げた。
「この人!痴漢です!」
車内の空気が一変する。
ざわめき、振り返る乗客たち。
美香は涙声を作りながら、彼の腕をつかんだ。
「ふざけるな」
佐久間の声は低く、しかし動揺はなかった。
「俺は何もしていない」
毅然とした態度で、彼は真っ直ぐに美香を見返した。
周囲から「どうするんだ」「駅員に連れてけ」という声が飛び交う。
やがて車掌に通報が入り、二人は駅の事務室に連れて行かれることになった。
蛍光灯に照らされた狭い部屋。
駅員と、呼び出された鉄道警察の職員が同席する。
テーブルを挟み、美香と佐久間が座らされた。
「それでは、お二人のお話を伺います」
駅員の声に、美香は早口でまくしたてた。
「この人、さっきからずっと体を押し付けてきて!本当に怖かったんです!」
一方で佐久間は落ち着いた声で答える。
「証拠はありますか? 監視カメラを確認していただければ分かります。私は吊革を持っていただけで、彼女に触れていません」
美香の表情にわずかな焦りが走った。
彼女はこれまでのケースで、男たちがしどろもどろになるのを見てきた。
「痴漢なんかしていません!」と必死に否定すればするほど、逆に怪しく映るのが常だった。
だが佐久間は違った。
目を逸らさず、淡々と冷静に話すその姿は、まるで“用意周到な無実の人間”そのものだった。
(……この人、他の男たちと違う……?)
美香の背筋に冷たい汗が流れた。
駅の事務室で、佐久間と美香は互いに睨み合っていた。
警察官が淡々と告げる。
「監視カメラ映像の確認が終わりました」
画面に映っていたのは──佐久間が吊革を握り、微動だにしていない姿。
その横で、美香がわざと揺れ、声を張り上げる瞬間が克明に記録されていた。
「……やはり、彼は触れていませんね」
駅員がつぶやく。
美香の顔色が一気に青ざめた。
「ち、違うんです! 私は本当に……!」
だが警察官は冷たく続けた。
「実はあなたに関する相談が、これまでも複数寄せられているんです。“痴漢をでっちあげられた”と」
机の上に並べられたのは、複数の男性からの被害届。
証言は一致していた。
「……嘘、でしょ」
美香の唇が震える。
だがその時、別の警察官が書類を差し出した。
「そして、東山さん。あなたについても報告があります」
佐久間は眉をひそめた。
「……俺が?」
「過去に複数の路線で、“痴漢常習犯がいる”という通報が上がっていました。特徴が──あなたと一致します」
室内が凍りついた。
「……!」
美香が息を呑む。
佐久間は唇を噛み、黙り込んだ。
「つまり、こういうことです」
警察官は書類を閉じ、二人を見渡す。
「あなたは痴漢を“でっちあげて金を得ていた”。
そしてあなたは“痴漢の常習犯だった”。」
まるで皮肉な天秤。
嘘で人を陥れてきた女と、欲望で女を弄んできた男。
どちらも同じ列車の中で、ついに行き着くところまで行き着いた。
「双方の行為について、厳正に捜査を行います」
警察官の冷たい言葉が響いた。
椅子に崩れ落ちる美香。
目を伏せる東山。
──列車は再び走り出していた。
車窓の外を流れる街は、何事もなかったかのように日常を続けている。
だが、その裏で二人の人生は大きく脱線し、二度と元には戻れなくなっていた。
だが──事務室の外には、険しい表情の通勤客がいた。
「俺だって疑われたことがある」
「私は本当に被害に遭ったのに信じてもらえなかった」
痴漢をでっちあげる女。
痴漢を繰り返す男。
そのせいで、本当に被害を受けた女性も、冤罪で人生を壊された男性も、みんな巻き込まれてしまう。
誰もが疑心暗鬼に陥り、誰もが傷つく。
──こうして、皮肉にも二人の歪んだ行為は、無関係の男女にまで影を落とすことになったのだった。