今年も絵描きの鳥が空を舞う
朝、駅に向かう途中で空を見上げると、大きな黒い鳥が空に絵を描いていた。
鳥が描いているのは、優しい黄色の花畑のような絵だった。じっと見ていると、菜の花畑のようにも見える。立ち止まって周りを見てみると、私以外にも空を見上げている人がそこかしこにいて、写真や動画を撮っている人もたくさんいた。そうか、もうそんな季節になったのかと思うと、心の中がちりりとした。
私はそっと右手でお腹を触れ、それから再び駅に向かって歩き始めた。
花粉の猛威が収まる四月末から、梅雨入りまでの比較的過ごしやすい季節になると、渡り鳥である大きな黒い鳥がやってきて空に大きな絵を描く。鳥は自分の羽に絵の具をつけて空を舞い、器用に絵を描いていく。小学校の理科の授業で黒い鳥の生態や、彼らが絵を描く理由や方法について聞いた気がするが、詳しいことはもう忘れてしまった。
鳥によって描く絵は様々で、風景画を描く鳥がいれば、抽象的な絵を描く鳥や、果物や食器などの静物画を描く鳥もいる。そうかと思えば、単色の鉛筆のデッサンのような絵を描く鳥もいて、絵には鳥の個性が出る。また、絵のレベルも鳥によって異なるので「おお、これは!」と唸らせられる大作がある一方、伸び代を感じる作品も多々ある。
鳥によって描かれた絵は、どんな絵も少しずつ薄くなり、描かれてからだいたい一日ほどで消えてしまうので、彼らの作品は「消えるアート」と呼ばれている。
美しくも刹那的、そんな鳥たちの作品が、私も私の旦那も大好きなのだけれど、彼は今この世界にはいない。
「新田さん、だいぶお腹が大きくなったわね」
会社に着き、自分のデスクで仕事の準備を進めていると、須藤さんに「おはよう」と声をかけられた。須藤さんは二人目のお子さんの育児休暇を終えて、今年の四月に復帰したばかりの先輩ママだ。
「おはようございます。最近、一気に大きくなった気がして驚いてます」
妊娠六カ月、今まではそこまで気にならなかったけど、ここ最近服が急にキツくなり、マタニティ用の仕事着と下着を買ったところだ。自分が動いている時はわからないが、横になった時に、たまにお腹の中でぽこぽこと動く気配を感じることが増えてきた。
自分とは違う命が体の中にいる。子どもの頃に見たSF映画の影響なのかもしれないが、たまにお腹の中に人間じゃない何かがいるのではと不安になる。
「あ、わかるわーそれ。急に大きくなった気がするのよね。あと、お腹の中で動かれると自分の中にいるのが人間なのか不安にならない?」
「なりますなります。たまに怖くなります」
なんだ、不安になるのは私だけじゃなかったのかと、先輩ママと話して私は少しほっとした。
「だよね。でも大丈夫よ、お腹の中にいるのは人間だから。そうだ、うちの子のお下がりでよかったら肌着とかベビー服をもらってくれない?」
「え、いいんですか?」
「いいの、いいの。新しく買い足したけどあまり使わなかった綺麗なのが色々あるの。確か男の子だったよね?」
「はい、この前病院で聞いたら男の子でした」
「じゃあ丁度よかった! また今度持ってくるわ。困ったことがあったらいつでも言ってね」
そう言って立ち去る先輩に、私は「ありがとうございます」と心から言った。先輩からすると何気ない一言かもしれない。でも、一人で子どもを産み、育てることに不安を覚えていた私にとってその言葉はありがたかった。
翔平は春が好きだ。
ひどい花粉症持ちなのだけれど、春が来ると毎年「早くお花見がしたい」と言う。そして、花粉症のシーズンが終わると嬉しそうに私を散歩に誘っては、黒い鳥が描く絵を見て嬉しそうにはしゃぐ。私はそんな無邪気な彼が好きだ。
社会人になってから大学時代の友だちの紹介で知り合い、そして付き合い出した私たちは、お互いに仕事が落ち着き始めた三十手前で結婚した。特に何かにつまずくこともなく、結婚生活は始まり、そして結婚して三年後に私は妊娠した。
「春になったら子どもを連れて散歩に行きたい」
私に笑顔で何度もそう話していた彼は、去年の冬の寒い日に、長い仕事に出かけてしまった。それそれは長い仕事に。
「白羽の矢が立っちゃった」
私が仕事から帰ると、玄関に白い矢を持った翔平がいた。そしてその横には白くてまん丸なニワトリがいた。
「すみません、突然お邪魔して。旦那さんをしばらくお借りします」
でっぷりとしたわがままボディーのニワトリは、申し訳なさそうにそう言うと、ゆっくりと頭を下げた。ニワトリって話せたんだ、私はニワトリの発言内容よりもその事が気になって仕方がなかった。
でっぷりとしたニワトリ曰く、世界の創造主である女性と、世界を終焉へと導く男性による千年に一度の三番勝負が近々行われるそうだ。女性が勝てば世界は存続し、男性が勝てば終末を迎えてしまう大勝負。勝負の内容はまだ決まっていないけれど、とりあえずどちらの派閥でもない者を審判にしようということでくじを引いた結果、翔平が選ばれたらしい。
この三番勝負、内容は未定なのに、何故か二年ぐらいかかるということは決まっているんだとか。勝負の期間中、審判は決戦の場にいなければいけないので、翔平は暫くこの世界ではない別のどこかに行かなければいけないそうだ。
「これ、拒否権はないの?」
私が聞くと、ニワトリは申し訳なさそうに首を横に振り、「こればかりは断る云々でなく、明後日になれば強制的に飛ばされちゃうので」と言った。
「なによそれ」
私はついきつい言い方になってしまった。しょぼんとうなだれるニワトリを見て、ニワトリを責めてもどうしようもないことだと気づいた私は、少し申し訳ない気持ちになった。
「誠に申し訳ございません。私の力不足により審判を任せてもらえず、翔平さんを巻き込んでしまったので、せめて事前にご連絡をと思い伺った次第でして……」
「いや、別に謝って欲しいわけじゃなくて……私こそ、その、ごめんなさい」
ニワトリと私が気まずくなり黙り込んでいると、翔平が笑顔で「まあまあ、もう決まっちゃった事だから仕方がないでしょ。とりあえず拒否権がないことは分かりましたし、せっかく選んでいただいたので頑張らせていただきます」とニワトリに言い、私には「悪い、留守番頼むな」と言った。
翔平の言葉を聞いたニワトリは嬉しかったのだろう。うるうるとした目で翔平を見つめてから、左右の翼でありがたそうに翔平の右手を握り締めた。そして、声を詰まらせながら何度も「ありがとうございます」と言いながらむせび泣いた。そんな光景を見せられ、私はため息をつき、しばらく黙ってニワトリの泣き声を聞いていた。
ひとしきり泣いてから、ぺこぺこと頭を下げながら帰っていくニワトリを見送った私たちは、とりあえず両家の両親に電話で翔平の事を報告した。
私の親は状況が理解できず、父親は特にパニックになり「どうしてそんなことになったんだ! 何とかならんのか!?」と電話越しに喚き散らしていた。何度か説明を試みたが一向に伝わる気配がなかったので、私は諦めて電話を切った。
電話を切ってから五分ほどした時、私の母から「何となくしかわからないけれど、お父さんのことはこっちで何とかするから安心して」とメールが届いた。私はそれを見て自分の母の偉大さを知った。
一方、翔平の両親は最初は驚いていたものの、取り乱す気配は全くなく、お義母さんに至っては「いつかこういう突飛な出来事に巻き込まれるんじゃないかと思っていたのよ。ねえ、お父さん」なんて笑って話していた。そんな会話を聞いて、理由はよくわからないが「流石翔平の両親だな」なんて何故か私は納得していた。
ニワトリが来た翌日、翔平は会社に行って明日からいなくなる事を報告し、できる限りの業務の引き継ぎをして帰ってきた。報告した時、それなりに混乱と騒動があったらしいのだが、翔平はすぐにニワトリを召喚しなんとかその場を収めたらしい。
会社側の配慮により翔平は定時で帰宅し、私もそれを聞いて急いで帰宅した。一緒に晩御飯を食べてから、私が帰宅途中に買ってきた、翔平の好きなチョコレートケーキを食べた。ケーキを食べて早めに布団に入り、朝起きたら彼はもういなかった。行ってしまったのかしら、そう思ってぼんやりしていると、廊下からてちてちと小さな足音がした。見ると丸いニワトリだった。
「翔平さんからの伝言です。『早く帰れるよう頑張るから留守番よろしく』、とのことです」
ニワトリはそう言うと、深々と頭を下げた。私もニワトリに頭を下げ、顔を上げるともうニワトリは姿を消していた。こうして私は一人になった。
私は一人になった今何をやるべきか考え、その結果、翔平がいつ帰ってきてもいいようにこの家で彼を待つことにした。そして、彼を待つにあたり、私は一つのことを決意した。お腹の子は私一人で育てる、と。
私が一人で子どもを育てると言った時、私の親も翔平のご両親もかなり反対した。両家の両親に対して私は「できるところまで一人でやらしてほしい」と言い続け、三日三晩に及ぶ舌戦の末、最終的には「困ったらちゃんと私たちを頼ってね」と翔平のご両親から言われ、一人での子育てを認められた。
正直なところ不安はある。うん、かなりある。でも、早く帰るために翔平が頑張ると言ってくれたから、私も何かを頑張りたいと思ったのだ。
もちろん一人での子育ては、自己満足以外の何物でもないことはわかっているつもりだ。でも、子育てを一人で頑張り、家で翔平の帰りを待つ。それが私のすべきこと。なんとなくそう思った私は、たまに不安に押しつぶされそうになりつつも、子どもの誕生を楽しみにして日々を過ごしている。
定時に仕事を終えて家に帰る。
日はかなり長くなっており、六時を過ぎても外はまだ明るい。帰り道、夕焼け空を見上げると、今朝見た黄色い花畑が赤い空に浮かんでいた。
今年も翔平と一緒に鳥の絵を見たかった、そう思うとやはり胸に寂しさが募る。こんな景色を見たら、きっと彼は子どものように喜んで写真を撮ろうとするだろう。はしゃぎ回る彼の姿が頭に浮かぶのに、彼は今ここにいない。
「来年は一緒に見ようね」
私はお腹に手を当てて言った。そう、来年はこの子と一緒に絵を見よう。二人で空を見上げて春を満喫するんだ。そして、再来年は絶対に家族三人で散歩する。
徐々に薄れゆく花畑を眺めながら、私は楽しげな未来を思った。