第五話 遠州錯乱
本当に久しぶりになりました
永禄5年12月10日 駿府 今川館
「元康よ、一向宗やそれに与した吉良たちの成敗、大儀であった」
今川義元は大層な上機嫌であった。義理とはいえ娘婿とした元康が三河の混乱を収めたのが嬉しかったのだろう。傍にいる嫡男の氏真も喜んでいた。
「義弟の挙げた武功誇らしく思うぞ、よくぞやってくれた。尾張の織田に引導を渡す良い前祝いじゃな」
手放しの賞賛に頭を下げた元康であったがここで一つの懸念を披露するのであった。
「此度の裏には有る大名家が関与していたことが明らかになり申しました。由々しき事ゆえに直々に言上しようと駿府へ伺った次第です」
「なんと、あの乱には裏があったと申すか?それはどこの家じゃ?織田家であろうかの?」
義元の問いに元康は首を振り応える。
「さにあらず、一向宗を動かせることが出来るのは本願寺の顕如と義理の兄弟である甲斐の虎以外に居りませぬ」
「なんと! だが武田家は我が今川と北条とで盟約を結んでいるのだぞ、それを破ったと申すか!」
氏真の問いに頷きながら元康は応える。
「その通りでございます。そもそも駿甲相同盟はお互いの目指す場所が違ったため成り立ったものでした。それが失われたとしたら?同盟が揺らぐことになりましょうな」
「なるほど、信濃の攻略が終われば次は……というわけか、越後の長尾は一筋縄ではいかぬと方針を変えたと見ゆる」
義元は顎を撫でながら手元に広げた地図を扇で指す。
「さようでございます、彼らが真に欲しいのは海に面した国、駿河・遠江で御座いましょう」
「ですがいきなり盟約を破り攻め入ってくるでしょうか?嫡子の義信殿には我が妹が嫁いで居るのですぞ」
氏真の問いに義元は手に持った扇をぱちりと鳴らしてそれに答える。
「先年の信濃川中島での合戦では武田方は典厩信繁など多くの将を失う激戦だったと聞く。信濃の支配は武田が勝った様だが戦だけなら長尾の勝ちじゃろうな。信玄坊主め、機を見るに敏ではあるが信濃は北信より先には行けぬと読んだのよ。そうなると南の駿河、遠江か西上野しかあるまい。じゃが盟約を破れば今川だけでなく北条も敵に回し長尾を含めて敵に囲まれることとなるゆえ表立っては動けぬ。故に本願寺を使って我らの内を揺さぶったのであろう」
「某もそう感じました、大師様(雪斎)は武田には油断せぬよう注進申し上げよと度々言われておりました」
俺がそう言うと義元はうむとうなずき口を開いた。
「確かに亡き老師も常々言うておったわ、まさに乱世の梟雄とな、これは尾張攻めを行っておる後ろから突かれる懸念も生まれるな、元康はいかにすれば良いか腹案はあるかの」
「はっ、まずは北条家とも内々に話をして同盟崩壊の危険があることを伝えまする。第一の目標が駿河、遠江ではありますが今侵攻中の西上野より押し出すこともあり得ます。北条方の警戒心を上げて東上野の緊張状態を上げておけば兵を張り付けておかねばなりませぬ。武田には上杉の越山に警戒していると説明すれば文句も言えますまい、次にはやはり次期当主の義信殿との誼を強くすることかと思いまするが一つ懸念もございます」
「ほう、何かな?」
「三家のうちで義信殿だけが当主になっておりませぬ、一番年長でありながら当主になれていないことで焦りを持っておられることもあり得ます。そしてかつて晴信殿が家督を得たことを思えば…」
「まさか!当主押し込めを図る可能性があると言うのか」
氏真が驚くと義元もうむむとうなり声をあげて絞り出すように声を放った。
「二十年ほど前に起こった事がまた繰り返すというのか」
「ですが今の状況では現当主である晴信殿への家臣団からの不満はありますまい、なので企ては潰えるものと思われます。その時我らが義信殿への誼を強くすればどうなるか読めませぬ」
「逆に火を煽ることになりかねんな、ここは思案が必要じゃな」
「そして問題は武田の次の手をいかにかわすかです」
元康が置いてあった地図の一点に指を指す。
そこは遠江と書いてあった。
△
遠州忩劇とか遠州錯乱とか言われる内乱は本来は家康が遠江の国人達を調略したのを今川が気が付いたため起こったとされている。
もちろんこの世界ではそんなことは起こらない、三河の一向宗の件もどちらも武田の仕業である。
史実では武田が動いてないって?そんなことはない、単に利害が一致しておりお互いが知らぬ間に動いていたんだろうな。まさかとは思うが知ってて知らん顔してたのかもしれないね。
まさに戦国時代、修羅の時代だよね。
さて、こちらの調べでは武田の調略を受けている遠州の領主たちは結構いる。今川の力が衰えていたら受ける可能性はあるが桶狭間で義元が生き残り織田に勝利した今はそれには応じる気はないのが殆どだ。
無論火種になりそうな所は幾つかある。奥山氏や天野氏は元々武田と交流があるので密かに手紙のやり取りがあるようだ、しかし今のところ今川が盤石なので寝返る事は無い。
問題は井伊谷を治める井伊氏である。ここは内部が複雑になっており調略を受けやすい状態の上、実際に次期当主の直親に武田の手が伸びている状態である。直親の父親はかつて武田との内通で処刑されており一時直親は武田に亡命していた。なので武田の手が伸びやすい状態ではある。しかも家老の小野がそれを今川家に報告(讒言)してる状態なのだ。
まあ現当主の直盛は死ぬはずだった桶狭間の戦いで生き残ったし当面は大丈夫だが、直盛には娘一人しかいないので甥である直親を次期当主にしなきゃいけなかったんでその後が困る。
直親にはすでに妻子がおり子はあの井伊直政になるのだからなんとかなりそうな気がするけど。
因みに直盛の娘は{女城主}と言われた女性なのだがこの世界では直盛がまだ生きてるからなっていない、直親が粛清されたら彼女に婿を迎えて継がせるしかないかなあ。
駿府の徳川の屋敷に戻って考え事をしていたら、南陽坊が戻ってきたようだ。
「殿、直親は武田の調略に乗った模様、飯尾、天野、奥山らに今川への反逆を進めております」
「早いな、信玄坊主の忍びも噛んでいるのか?」
「繋ぎをつける役割をしている模様、ですがまだ賛同は得られておりませんな」
「だろうな、今川が盤石なのに反逆してもすぐに抑えられるはず、武田の後詰でもない限りはな、武田は動いているか?」
「青崩峠にて密かに武田の物見が動いておりますがあくまでも物見で動員は掛かっていないようです」
「ならば早くに動いた方が良いな、そちらは井伊直親と家老の小野の動きを監視せよ、今から御屋形様のところへ行く」
「はっ!」
△
今川館
「井伊直親が武田と通じておったと!」
館に上がった元康の知らせに義元は驚く。
「どうやら、父親が内通で討たれたのを恨んでのことでしょう」
「父上、これは許せませぬ、直ちに討伐を!」
激高する氏真に対し元康は己の考えを披露する。
「お待ちください、討伐を行えば直盛殿が責を負い自刃する恐れもあります、ここは井伊家内部で片づけた方が周りへの影響も少のうございます、家老の小野に上意を伝え討たせた方が良いと思います」
それを聞いた義元はうなづいた。
「確かにその方が周りの領主たちも動揺は少なかろう、元康よ家老の小野に上意を伝えてくれ」
「わかりました、念の為某も手勢を率い備えておきます」
「うむ、頼んだぞ」
直ちに退出する元康を見ながら義元は氏真に言う。
「戦にも強く、国内にも目配りが効く、亡き老師が頼りになる者と勧めて関口の娘を養女として娶らせたがここまで育つとは、そなたにとっては無二の義弟となったな」
激高を収めた氏真も笑顔を見せ答える。
「まことに頼もしくまさに父上の申されるとおり氏真にとって無二の義弟でございます」
△
小野に御屋形様からの上意討ちの命を伝える使者を出した後元康は南陽坊を呼び出す。
「小野が上意討ちに動く前に直親に伝わるようにせよ、小野は井伊家にとっての獅子身中の虫、井伊家を乗っ取るつもりであろう、共倒れが望ましい」
「ではそのようにとり図りまする」
姿を消した南陽坊に振り返ることなく元康は歩き出す。
(あとは直盛殿たちをどうするかだが、まずは井伊谷まで行かねばな)
配下の者たちに下知を出すために前に進む元康であった。
なおこの小説はフィクションであり登場する人物・団体・組織等は完全な架空の存在です。
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