第二話 桶狭間の戦いへ
出陣が決まり元康も岡崎衆と合流する為に三河の大樹寺に来ていた。
本来の居城である岡崎城に入らなかったのは城代に遠慮して……という訳でなく下手にあの城に帰還すると岡崎衆が暴発しかねないと報告を受けていたからであった。
その報告を受けて元康は呆れたが、先代の広忠を失った後に彼らは残された竹千代を慕うあまりの事と聞かされた彼は内心で思う。
(家康の家臣たちの忠誠の高さは後の世までの語り草になったほどだけど度が過ぎているんだよな、これに本音では手を焼いていたんじゃなかろうか本物の家康も)
里帰りの時の彼らの狂乱に近い歓迎振りを見てドン引きだった元康は具足をつけた状態で床机に腰掛けて思う。 この度も集まってくる者たちの高揚振りを見て心が冷える一方であった。
(こりゃ早いとこまともな家臣を増やさないとな)
内心でそう思いつつにこやかに彼らを迎えるのであった。
□
「我等岡崎衆には尾張侵攻への先手と言う栄誉が与えられた。ここで手柄を立てれば松平家の今川での地位は磐石な物となり三河の旗頭として……」
「彦右衛門! その様な事は言うな! 我等は今川に良い様に使われる為に出陣するのでは無い!」
元康が竹千代と入れ替わった後に駿府に来て近侍した鳥居元忠が今回の出陣の意義を説明しようとすると岡崎に残っていた家臣が口を挟み、それに同意する声が口々に上がる。
(思っていた以上に頑迷固陋な連中だな)
元康はこのやり取りを醒めた眼で見ていた。
「この戦に勝たねば我等の明日は無いのだ! 戦うのみ!」
同じように駿河に来て仕えていた本多忠勝が噛み付いた。彼らは元康が影武者とは気付かずに忠信を持って仕えて呉れており数少ない味方であった。
このままでは纏まらないと感じた元康は口を開いた。
「そなたらが危惧する事は判る。だが儂は今川家の養女を娶り御一門に列せられ御屋形様の信頼も得ている。今川は松平を必要としているのだ。今川の尾張制覇に貢献し三河に松平ありとされれば必ず御家は栄え皆々に報いる事も出来よう、そなたたちの力を馳走してくれ」
この発言は功を奏し、皆従って出陣することになった。表面的にはである。
□
「岡崎に居る者達は我等がどの様な思いでいるのか判らないのです!」
評定の後駿河からの側近たちのみになった時、本多忠勝がはき捨てるように言った。
「彼らは過去の栄光の時代が忘れられないのですよ、殿の祖父に当たる清康様の時代の事をね」
鳥居元忠が悔しそうな顔をしながら言う。
「尾張を御屋形様が攻め取ればその様な声は出なくなるだろう、それよりもこの戦で我等が活躍せねば御屋形様の期待を裏切る事になる。それは避けたい、元忠、忠勝、やれるな?」
「その事についてはお任せを」 「我等が衆を引っ張って行きます」
「うむ、任せたぞ」
彼らが退出した後元康はおもむろに手を二回打った。すると隣から部屋にするりと入る者がいた。
「聞いていたな」 「はい」 「調べてもらいたい」 「なんなりと」
目の前で頭を下げる僧形の男に指令を与える元康であった。
□
やれやれ、思った以上に三河武士って面倒くさい連中だった。本物の家康もこの後井伊直政や榊原康政とか重用していくのはこの為なんだろうな。今は入れ替わった後に駿河に来た本多忠勝や鳥居元忠等が頼りなんだよな。彼らは俺が入れ替わりとは知らない為かいい具合に教育出来たので岡崎に残っていた奴らとは違って良く世の中が見えている。そうなるように色々連れ回して教えた甲斐があるというものだ。
さて、このままの流れでいけば桶狭間の戦いの流れになるよな。流れに任せたいところだが問題がある。
織田信長が俺を偽者と見破る可能性だ。恐らく、いや間違いなく見破られる。それに今の俺を影で支えている連中、雪斎の作った{組織}は俺が偽者と知るものは居なくなっているが、あくまで{今川}を支える為の組織という事だ、その長たる俺が今川を裏切ればどうなるか、良くて離反、悪ければ粛清されるな。
となればここは今川を勝たせる、最低でも義元を死なせないようにするしかないのだがその後の展開が読めなくなるな。
織田信長がここで義元を討ち取れないと尾張の完全な統一も出来ないだろうし、美濃も取れない事になり、結局一大名で終わるかもしれん。それどころか天下統一が行われないか大幅に遅れるかもな。
「まあ、悩んでもしょうがないな」
戦場を完全にコントロールするのは難しいし、今の松平勢では大したことはできないだろうしね。
「とりあえず義元を死なせないように注力するか」
明日は出撃だ。早く休もう。
□
岡崎を発った松平勢は取り決めどおり進軍し、義元本隊と合流する。総勢二万と呼号する今川軍の威容に元康の家臣たちは圧倒されたようだった。
「元康には大高城へ兵糧を届けて貰いたい」
義元から与えられた指令は元康の知る通りの物であった。
「ははっ、直ちに」
素早く本陣を出た元康は鳥居元忠と本多忠勝を呼び寄せる。
「我々松平勢には大高城への兵糧輸送の任が下った、そなた達は手勢を率い寺部城に向かい城下に放火等して参れ」
「敵の注意を寺部城に向かわせるのですな」
「そうだ、織田勢が寺部城に向かっている隙に大高城に本隊が向かう、任せたぞ」
「御意!」
自分の部隊へ走り去る二人を見ながら元康は大樹の傍に立った。
「状況は?」
「はっ、織田信長の動向は手の者が掴んでおります、また今川本隊の方にも潜り込んでおります」
「よろしい、信長に動きがあれば知らせよ」
「はっ!」
大樹の傍らで交わされた会話を聞いたものは当人たち以外だれも居なかった。
□
尾張 清洲城
前日の軍議で篭城か出撃で揉めていたこの城に急使が飛び込んだ。
「丸根と鷲津の砦に今川勢が襲来!」
この報を聞くや否や飛び起きた織田信長は出陣を命じる。この時{敦盛}を舞った後身支度を整え熱田神宮に向かう、到着時には僅か供は五名であったが続々と集まり三千の軍勢となった。
「此の侭我等は善照寺砦に向かう!」
向かいながら信長は傍を走る小男に話しかける。
「禿げ鼠、梁田からの知らせがあれば直ちに動くぞ!」
「承知!」
「今川義元! 兵の多寡が戦の絶対的な差では無い事を教えてやるぞ!」
信長は吼える。
その目は遠くの獲物を見据えていた。
□
「織田勢は善照寺砦に集結! 数は三千程です」
「判った、その動向は押さえているな」
「はっ、間違いなく」
「では、あちらに伝えてくれ……」
矢張り桶狭間の戦いは始まろうとしていた。だがそれは俺にとっては死刑判決を受けるようなものだ。絶対に阻止する。
「忠勝! 皆を集めよ!」
兵糧を無事に持ち込んだ大高城の一角に松平勢の将が集まった。
「皆の者、織田勢が最後の足掻きをしてきた、当主織田信長が出陣し、御屋形様の本陣に切り込むとの知らせが入った」
俺の声にどよめきが起こる。
「我が松平勢はこれより城より出でて織田勢を追撃する」
「お待ちを!」 「我等が今川にこれ以上肩入れする事はありませぬ」
重臣たちは口々に止めに入る。だが。
「ここで動かずにいつ動くというのだ! 織田勢は長年の宿敵、我等で討ち取り松平の名を挙げる好機ぞ!」
俺の激に忠勝が答える。
「出撃だ!」
俺たちは向かう、戦場へ。
□
田楽狭間
「あれは間違いなく今川義元の旗印です」
「良くやった梁田よ、皆々! あれに見えるは敵の総大将の陣! 打ち掛かり手柄首を挙げよ!」
「「「応!」」」
豪雨の中死闘が始まった。
「こいつら織田勢か!」
「防げ! 御屋形様に近づけるな!」
奇襲に今川勢は必死の抵抗を試みるが勢いは完全に織田方にあった。
「今川の陣に綻びが出来たぞ! 大将を狙え!」
織田勢から武者たちが雪崩れ込む。
「大将は! 今川義元は何処だ!」
彼らは大将が座っていたであろう幔幕の中の主の居ない床机を発見する。
「掛かったぞ! 銅鑼叩け!」
今川勢の中で後ろに控えていた武将が指示すると銅鑼を持った兵たちが打ち鳴らす。
「右より今川勢が!」 「左からも!」 「正面に新手が!」
「挟まれた? 罠か?」
突入した織田勢を三方から新手の今川勢が襲い掛かる。
「後ろにも軍勢が! 旗印は井伊勢です!」
その言葉を聴いた信長はすぐに決断する。
「権六! 右に向けて逃げるぞ! 進め!」
「応! 掛かれ! 皆掛かるのだ!」
傍に控えていた柴田勝家が吼える。掛かれ柴田の名は伊達ではなかった。
「殿!殿は某が!」
「犬千代! 居ったのか!」
「御免!」
こっそりと従軍して戦功を挙げて帰参せんとしていた前田利家が井伊勢に掛かっていく。
織田勢の奇襲は失敗に終わった。
□
善照寺砦近くの山林
織田勢は散りじりになりながらもようやくここまで戻ってきた。数は既に五十人を切っている。それでも信長を中心に柴田勝家や佐々成政などが付き従っていた。
「何とか虎口を逃れたか」
「早く、善照寺砦に入りましょう」
「犬千代も皆も帰らなかったな」
そう言いながら進もうとすると鬨の声が上がる。
「旗印は松平です!」
「是非にも及ばずか」
「殿、お逃げくだされ、この柴田勝家、死にたい者から掛かってまいれ!」
松平勢に打ち掛かる柴田勝家は正に鬼人であった。
□
「信長の首は見つかりませんでした」
新たに作られた今川本陣で首実検が行われた。
柴田勝家、佐々成政、それに前田利家も討ち取られた。
だが、信長は討ち取れなかった。
「元康、そなたの策のお陰で命拾いしたぞ」
「亡き師が用意してくれた策でございます。何かあったらこの袋を開けよと」
俺は用意していた錦の袋を取り出す。その中にあったのは信長を嵌めた包囲策である。もちろん本物の雪斎の策ではない、師の代理で書を書いていた祐筆役の坊主に書かせた物で予め用意して置き本陣に詰めていた朝比奈元長に配下の坊主を使って渡したのであった。
そして松井宗信、蒲原氏徳、井伊直盛らが伏兵を勤め見事織田勢を撃破したのであった。
「信長を討ち取れなかったのは残念でした」
本当に残念だ、俺の正体を見破れる存在を生かしてしまった。
「なに、手勢の殆どを失ったのだ、もはや信長は死に体よ」
「このまま尾張に雪崩れ込めば何れは頸も獲れよう」
皆は勝ち戦に喜んでいる。
「殿、信長を取り逃がし申し訳なく」
本多忠勝が申し訳なさそうに言ってくるが笑顔で言葉を返す。
「何を言う、そなたはあの{掛かれ柴田}を討ち取ったではないか、そなたの働き嬉しいぞ!」
そう言って肩を叩く。そうだ、良くやってくれた。信長はしぶとい、簡単には討たれないだろう。 これで歴史は変わるだろう、今川義元は討たれずに、織田家はこのまま滅ぶかもしれない。
だが後悔はしていない、徳川家康として天下を取れるかどうかは判らないがこの戦国の世泳ぎきってみせる。
「新しい馬印を作ろうか」
「どの様な物ですか?」
「{厭離穢土 欣求浄土}だ、この戦国の世は誰もが己の欲望の為に戦をしているから国土は穢れ切ってしまっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めれば必ず仏の加護があるという意味だ」
「よき思案にございます、必ずや殿はそれを成しますとも」
元忠が破顔する。
こうして桶狭間の戦いは今川が勝利し、尾張侵攻作戦は本格的に始まった。
天下は統一できるのか? そして家康は覇者になれるのか? それは誰にも判らない。 ただ流れる時間だけが知っているのかも知れない。
こうして家康の新たな歴史は始まった。
なおこの小説はフィクションであり登場する人物・団体・組織等は完全な架空の存在です。
御意見・感想ありがとうございます。
ブックマーク・評価の方もしていただき感謝です。
読んでいただくと励みになります。
感想等のご返事が出来ず申し訳ありません。