十一話 美濃調略 前
永禄8年10月31日
美濃国 北方城
城主である安藤伊賀守守就は一色(斎藤)家の重臣である。彼は西美濃一帯を領する国人たちの内有力な三家のうちの一家で西美濃三人衆と呼ばれる者たちの一員であった。この城を訪れた石川与七郎数正の目的はこの城の主に所縁のあるものと会うためであった。
「菩提山城城主の竹中半兵衛重治と申します、今日は舅殿の招きで参りました」
「石川与七郎数正です、我が主徳川三河守の使いで参りました」
「して、徳川殿は某に何か御用とか、それを伺いたく参上した次第」
「そうですな、では単刀直入に申しましょう、竹中殿は稲葉山城に討ち入りされると見ましたがいかがですかな?」
与七郎が切り出すと穏やかであった半兵衛が俄かに殺気を纏った、そして低い声で尋ねる。
「それをどこで知られたのか?この秘事どこにも漏れておらぬはず」
「確かにどこにも漏れておりますまい、稲葉山の御歴々にも、唯我が主のみが気付いただけです」
「信じられぬ、尾張より我らの動きが判ったと申すのでありましょうか」
「殿曰く、囲碁も将棋も脇で見ている方が何手も先が読めるものだと、申しておりました」
「うむむ、しかし現実に知られておる」
「我が殿はこのまま一色、いや斎藤に任せていては美濃を通って上洛など出来る筈も無しと申され今川家がこれを治めるべしと思っております」
「……」
「このまま行けば美濃は四方から攻められますぞ、恵那には武田が手を伸ばし、北からは朝倉、西には浅井が狙っております。今川もこのまま上洛できぬわけには行きませぬ、尾張を攻め織田を討ったはその為でございます。ご存じの通り公方様は朽木谷にて上洛軍を待っている所です。竹中殿ら西美濃の衆が斎藤を討つのであれば今川の元で御働き為されれば公方様への執り成しもできまする」
「むむ、確かに」
竹中たちが兵を挙げる事は決まっていたが主と仰ぎ亡き道三を共に討った斎藤家(一色家)を討てば下手をすれば公方より上洛を邪魔している輩とされ正式に討伐対象となりかねない。今川旗下に収まり上洛軍に加わればその懸念も無くなるのである。彼らとしては自分たちの領地を保証してくれる存在であれば土岐でも斎藤でも良く、それが今川になっても問題は無いのであった。
「竹中殿の口利きで西美濃の御歴々を説いていただけませぬか?我が主は尾張一統の功を持ちまして三河守に任じられました。今川の御屋形様は功ある者には必ず賞される方です、その事を挙げて頂ければ皆様判っていただけるかと」
結局、半兵衛は西美濃三人衆を中心として徳川の提案を説くことを了承した。
△
北方城からの帰路石川与七郎は馬に揺られながら先ほどの会見の件を振り返っていた。
(竹中半兵衛と言えばその知略を見込まれ安藤殿の婿になった方、その策を見破った殿の知略はどこまで凄いのか)
一色龍興と西美濃三人衆を殿は伊賀者を使って調べていたが、そこまで両者の関係がこじれていたとは、だが驚くべきはそこから竹中が策を立て稲葉山城に討ち入るところまで読んだことだ。
これは家康が前世知識で知っていたので時期はずれてもほぼ同じ事をするだろうと考えて与七郎を向かわせたのだがこの事を知らない彼は底知れない家康に半ば恐怖に似た感情と同時に頼もしさを感じていたのであった。
「殿は御屋形に出座を願うために駿府に居る頃合か、急ぎ報せに行かねば」
馬の脚を早めるのであった。
△
駿河国 駿府 今川館
家康は美濃攻めを相談しに駿府へ来て義元と氏真に会っていた。
「一色は家中の統制が全く出来ておりませんでした。このままでは武田、朝倉、浅井に食い荒らされましょう。それに加えて西美濃三人衆が主家を討たんとしております、これは看過できませぬ」
「其方の言う通りじゃな、このままでは公方様に命じられた上洛など夢物語である、手を打つ必要はあろう!」
氏真は余りに不甲斐ない味方にあきれ果て美濃を攻めるべきと義元に訴える。
「確かにこのままではいかんの、じゃが次郎三郎よ、其方は上洛に思う所は無いのか?」
「父上?」
いきなり上洛について疑問を投げ掛けるような物言いに氏真が驚く。
「正直迷っております。織田を叩くのは駿河、遠江、三河の安定の為、そしてそれは為され念願であった尾張を得ました。公方様の命に従うならばこのまま美濃を取り北近江の浅井を討てば良い、六角と今川、紀伊の畠山が組めば修理大夫無き三好は打ち払う事叶いましょう。ですが…その後ですな、御屋形様」
家康が歯切れ悪く答えるとそれに応えるかのように義元も渋面を作る。
「そうじゃ、氏真は知らぬかもしれぬがかつて公方様の命で上洛した大名が居っての、その当時の公方様の願い通り京に戻すことに成功し管領代として幕政を動かしたのよ、西の大名大内じゃ、じゃがその勢いは長くは続かず領国へ帰ることとなった。そしてその子の代になり又上洛しようとしたが家臣の反乱に会い結局は滅んだのじゃ」
「大内が滅んだことは知っておりましたが、そのような事があったとは」
氏真が呆然とした顔で答えると家康は義元に向き直り言葉を発した。
「あの{大寧寺の変}ですが亡き老師がいささか訝しいと申しておりました。反逆したのは陶、内藤、杉等大内の下守護代を勤めた御歴々、それがすべて主に背き兵を挙げた、伝え聞くところ当主が京より公卿を集めて雅に耽り政務を顧みなくなったためとなっていましたが、その間も大内は周辺国に力を伸ばし特に豊前、筑前の支配を固めその地の有力な大名である少弐氏を滅ぼしています。少弐氏は代々太宰少弐を務めその地を長らく支配した。それに対抗するため大内は朝廷に太宰大弐という上の官職を得更に従二位という公方様でも成れない官位を得ていました。それを公方様がどう見たか、幕府に取って代わろうとしていると見たのでは」
家康がそう言うと氏真が思わず息を飲む
「では大内は倒幕を図っていたと?」
「残念ながら老師もそこまでは判りませんでした、ただ大内が都に擬した山口には前関白や宮中の儀礼を行う官人も多数滞在しており帝に行幸、或いは動座していただきそこを京師にしようとしたのかも知れぬと申しておられました」
「つまり変は公方様の命を受けた陶たちが動いた結果と?」
「あくまで仮定です、老師は明確な証が無い以上口外できぬと言われておりましたが一つだけそうではないかというのが偏諱です」
「偏諱とな?」
「はい、変後主導的な立場であった陶は諱を隆房から晴賢に変えております、後に当主として迎えた大友家から来た晴英からの偏諱と言われていますがそもそも晴英の晴は先の公方様である義晴公からの偏諱でありそれを与えることなど有り得ません、恐らくは晴賢が直接貰ったものでありますがそれはそれでおかしなことになります、変の時義晴公はすでに身罷られていたのですから、なので変が起こる前既に褒賞の先渡しで送っており変後に名乗りを変えたのでしょう」
家康の話に息をのむ親子であった。
※ 大寧寺の変の件ですが最近の研究による「室町幕府黒幕説」に沿って書いております。詳しくはしかかく氏の動画を参考に!
https://youtu.be/kToK0AFWJZs?si=P7N0qVxha_72quWG