09. それは雪白に滲むように
ヴェンネルヴィク王との用談を済ませ、サディアスはその足で姫の居室へ赴いた。控える衛兵の横を抜け、侍女に取り次ぎを頼むと、その後に中から姿を現したのはアンジェリカだった。口許に微苦笑を浮かべている。目を瞬くサディアスに、クラリッサ様を泣かせてしまいました、とアンジェリカは眉尻を下げた。さも困り切ったふうである。腹立たしいほど他人の前では人の好さを見せるアンジェリカが、よもや姫を泣かせるとはどういうことなのかと、サディアスは訝しんで渋い顔をした。
睨めつければ、アンジェリカは視線から逃れるように目を伏せる。俯せられた睫毛を見て、唐突に、彼女に対してサディアスは言い表せない違和感を抱いた。殊更何が違うと明白にできるものではなかったが、何かが胡乱な気がした。
「……アンジェリカ?」
疑念を含んだ声で呼び掛けると、アンジェリカは視線を合わせないまま、笑んだ。
「わたしは外におります、サディアス様。御用がございましたらお声掛け下さい」
意を察したに違いないはずだが、返ってきたのはそれを無視する応えだった。アンジェリカは一礼し、立ち塞がるサディアスを躱して、部屋を出て行こうとする。サディアスはアンジェリカの手首を掴んだ。何を言っている、と低い声で糾す。
「意味がわからない。どういうことか説明をしろ、アンジェリカ」
胸中で苛立ちが首を擡げ、サディアスはうっすらと骨の浮く華奢な手首を強く握りしめた。退出を阻まれたアンジェリカはサディアスを見返して柳眉を顰め、口の端を強張らせた。ぎこちないそれは自嘲のようにも、泣きそうにも見え、僅かに瞠目したサディアスは追及に窮する。
互いの間に、重い沈黙が立ち込めた。
「……わたしは」
ややあって吐息混じりの小さな囁きが聞こえたそのとき、けれど同時に泣き濡れた響きがふっと耳朶に滑り込んで、サディアスの意識は一瞬他方を向いてしまった。
我に返ったのはほとんど同じであっただろうに、アンジェリカは素早く立ち直ると、隙を逃さずにサディアスの手からおのれの腕を抜いた。アンジェリカ、と呼ばわったサディアスに対し、肩越しにちらと眼差しを投げただけで、そのまま外へ退出してゆく。扉が、閉まる。
閉ざされたそれを見つめ、サディアスは唇を引き結んだ。
これは拒絶か、と内心で吐き捨てる。それとともに悲しみが迫り上がり、拳を握りしめた。アンジェリカは、傍にいられればそれでいいのだと言いながら、一方で頑なにサディアスと距離を置こうとしている。まるでそれが罰だとでもいうように、自らを引き裂いてゆく。
サディアスは俯き、彼女の手首を掴んでいた手を見下ろした。――不意にこの間、あの白い頬を加減なく引っ叩いたことを思い出し、苦い気持ちを抱く。もう一度手を握りしめ、感情を鎮めるために瞑目すると、次に目蓋を押し上げた後にはアンジェリカが去った方を見遣らずに、サディアスは身を翻した。
嗚咽を堪えた、泣き声が聞こえる。
紅茶や菓子の甘い匂いが漂う部屋の中、不規則な息遣いが滲んでいる。耳を衝く歔欷の音に、サディアスは足を止めた。
何度か請われて、サディアスはこの部屋を訪ねてきたことがある。主室の入口から見渡す限り、それまでと何の違いもなく、やや窓辺寄りに低いテーブルとソファが置かれ、レースのカーテンを透かしてそれらの上に穏やかな光が落ちている。ただ、それまでとは異なって、部屋の雰囲気は切々としていた。姫が、泣いている所為だ。
ソファに座した少女は身体を縮めて、両手で顔を覆っている。小柄な身体が微かに震えているのは、出入口で立ち止まったサディアスからもよくわかった。
ほんの小さな、嗚咽が聞こえている。
――それは、ひどく既視感のあるいじらしさだった。
目の前に現れた光景に、サディアスは立ち尽くした。脳が揺さぶられる感じがする。
(……アンジェリカ)
違う。
泣いているのは、いつかの子どもではない。
姫に歩み寄ることのできぬまま、サディアスはおのれを戒めるように独白した。けれども、啜り泣く姫の姿からは目が逸らせない。涙に濡れた呼吸音が耳に触れるたび、心に爪を立てられ、奥深く押し込めた記憶を曝かれるようだった。現在が過去に覆い被さってくる。
にいさま、と呼び、抱き上げれば肩に齧りついて泣き縋る。大声で泣いたのは数えるほどしかない。いつも嗚咽を堪えて涙ぐんでいた。寂しがりで甘えたで、けれども人に懐くのが苦手だった、幼い頃の異母妹――
昔日が脳裏を過ぎり、サディアスは咽喉を鳴らした。
その一方で、思考の一部はいやに冷静で、アンジェリカに仕組まれたのかもしれないと疑心が囁いた。姫との間に何があったのかはわからないが、この状況を利用しようと思いついたのかもしれず、おのれの騎士に嵌められた可能性をサディアスは否定できかねた。でなければ何故、――こんなにも既視感を憶えなければならないのか。
(愛せるはずがない)
冷たくそう思っても、目前で泣いている少女を見なかったことにはできもせず、サディアスは重石を付けられたような足を動かした。踏みしめた絨毯が奇妙なほどに柔らかい。
(わたしは)
アンジェリカの言葉の続きを、本当は、サディアスは知っている。
「……姫」
項垂れている姫の傍らで、サディアスは片膝をついた。表情を窺うように見上げる。
姫はぴくりと肩を揺らし、恐る恐るといったふうで、手のひらに埋めていた顔を上げた。見返した濃茶の瞳は真っ赤になっていて、丸い頬には幾筋も涙の痕が残っている。サディアス様、と微かにしゃくり上げながら呟いたそのときにも、目尻に溜まった雫がぽろりと零れた。
サディアスはひっそりと眉を寄せた。随分長いこと泣いていたのではないかと思う。
ごめんなさい、と姫は慌てて溢れた涙を拭おうとする。
「わたくし、いつも、……泣いてばかりで」
赤らんだ目に擦りつける両手を捉えて、サディアスは努めて優しい声を出した。
「何故泣いている? アンジェリカが何かしたのか」
訊ねると姫は目を瞬き、いいえ、と首を振るう。そしてまた涙を落とし、唇を噛むと俯いた。
「……わたくしが。わたくしが、アンジェリカを傷つけてしまいましたの」
思い掛けない告白にサディアスは目を見開く。その動揺が握った手を通じて伝わったのか、クラリッサはサディアスをおずおずと見遣って、泣きながら口角を歪ませ、小さく笑った。その笑みは、毒を含んだと形容するには痛々しく、おのれの無邪気さを無理に剥ぎ取ろうとするかのようだった。サディアスは顔を強張らせる。
「……そんなふうに微笑わなくていい」
手を伸ばして少女の頬を包む。意図せず、懇願じみた声が洩れた。
(アンジェリカ)
無垢を厭うて、自ら全てを汚すみたいに。
そんなふうに微笑うなと、何度、心の中で繰り返しただろう。
いつからか、アンジェリカはサディアスの前でも隙のない笑みしか浮かべなくなった。彼女のどんな笑い方も、それこそ微苦笑の一つでさえも、作られた表情であるとサディアスはよくわかっていた。人は、心を殺して自分を作ると、そのうち本来の在りようを忘れてしまうのだ。サディアスはそれを知っていた。変わりゆくさまをずっと見てきたのだから。
やめろと言えたらよかった。けれども、サディアスには言えなかった。アンジェリカがあんなふうになってしまったのは、おのれの罪ゆえだったから、――救ってやれたらよかったのにと、浜辺に打ち寄せる波の如く、どれだけ自らを責めても後悔は尽きないが。
「辛いのなら泣けばいい。それは悪いことじゃない」
未だ幼さを残す、少女に過ぎないヴェンネルヴィクの姫君。幸せであれば笑い、悲しければ嘆く。独り善がりだとわかっているが、そのままでいいのだと思う。
サディアスは、姫の滑らかな頬に手のひらを這わせ、親指の腹で目端に滲んだ涙を拭った。姫は一瞬呼吸を止め、それからくしゃりと表情を崩した。
「わたくしどうして……あんなに、アンジェリカを苦しめてしまったのでしょう」
眼差しが伏せられ、その拍子に光が零れる。
「あんなふうに微笑わないでほしかった……」
二人のときのやりとりを思い出したのか、姫は悲鳴じみた声で呟き、ぎゅっと目を閉じた。姫の言うアンジェリカの微笑とは、サディアスがもう何年も嫌というほどに見ているものだろう。思い起こせば襲って来る暗闇の気配に、サディアスは吐きかけた嘆息を嚥下する。
「……アンジェリカとは、何の話を?」
訊ねると姫はぱっと視線を上げ、瞬きのうちに頬を染めた。あの、と躊躇いがちに答える。
「たわいのないこと、です。その……見目の話や、クロンクビストとヴェンネルヴィクの違いなど、わたくしが一方的に質問をして」
サディアスが首を傾けると、サディアス様とアンジェリカの髪の色は太陽と月のように思っていて、と恥じ入ったふうに姫は続けた。
「サディアス様とアンジェリカでは、色の濃さが違いますでしょう? それで……」
「アンジェリカは何と?」
「ロマンチストだと笑っていましたわ」
そうか、とサディアスは呟く。
自分たちの髪の色合いの違いについて、アンジェリカには、確かに思うところがあっただろう。何を考えたのか。
(……わたしなんて)
遠く、声が聞こえる。
甦るのは、赦免された日の記憶だ。
サディアスは額に皺をたたみ、少女の手を握るおのれのそれに力を籠めた。アンジェリカ、と独りごちる。わたしはと呟かれたその言葉の続きを、本当は、聞くまでもなく知っているのだ。――たとえ自分を蔑ろにしてでも、あなたが幸せならそれでいいのだ、と。
「サディアス様」
姫に呼び掛けられてサディアスは彼女を仰ぎ、潤んだ瞳を見つめ返す。波間に揺れるように映るおのれの陰翳に、少し、嗤いたくなった。
「姫、貴女は悪くない。……貴女があれに対して嘆く必要などない」
「でも」
言い募ろうとする姫の目尻をもう一度拭うと、サディアスは床についた膝を浮かせて、僅かに背を伸ばした。少女の上に影が重なる。サディアスは、泣きすぎてふっくらと腫れた、その赤い目蓋に口づけを落とした。
不意を突いたキスに、か細い声が上がる。
サディアスが表情を窺うと、姫は驚きに目を丸くして、耳にまで朱を上らせていた。サディアスは小さく笑った。あどけなく、初心な反応を可愛らしく思うと同時に、けれども思考は壊死してゆくようだった。
そっと少女の手を離す。
「すまない。アンジェリカを許してやってほしい……」
――わたしなんて、産まれてこなければよかったのに。
審理を終えて、教会から赦免されたあの日。
腰ほどまであった金髪を自らの手で無惨に切り捨て、一房を掴んだ華奢な手からそれらがはらはらと零れ落ちてゆくのを見つめて、アンジェリカは笑った。
異母妹の、不揃いな長さの髪に指を通したときの感触は、今もまだサディアスの手に残っている。どれだけ強く抱きしめても、熱を分け与えることはできずに、アンジェリカは孤独を抱えて。今にも、潰えてしまいそうだった。
(どうして許すの……)
ぽつりと呟き、ただそれだけだった。誰も詰らず、諦めて、――ああそうだ。それが悲しく、苛立たしいのだ。
幸せにならなければいけないのはおまえだろう、と。
サディアスは笑みを消して項垂れる。
独りきりで、罪も、罰も、何もかもを背負おうとしている。履き違えた優しさが憎らしくて堪らない。
(……俺はおまえに泣いてほしいんだよ、アンジェリカ)
いつも必死で呼ばわってあんなにも泣いていたじゃないか、と。
サディアスは静かに眸を伏せた。