08. 太陽と月
ともに昼食を摂った後、父王と用談があると言ったサディアスに、ならばその間アンジェリカを貸してほしいと、クラリッサは申し出た。いきなりの頼みにサディアスは少し眉を寄せたが、傍らに控えていた当の本人が構わないと答えたので、結局、彼はいつもの素っ気なさで承諾してくれた。
時々の会話から窺える彼らの絆に、いつも少しだけ胸の奥が疼く。
けれど気づかないふりをして、ありがとうございます、とクラリッサは微笑んだ。
以前から、サディアスの騎士とは二人きりで話がしてみたいと思っていたのだ。
「アンジェリカの髪は、淡い色味の金なのね」
ぽつりと呟いたクラリッサに、目前に座ったアンジェリカは碧眼を瞬かせた。艶のある金の睫毛が繊細な光を零す。
「月みたい。きれいだわ」
「……ありがとうございます」
感嘆の息を洩らすと、アンジェリカは少し困ったふうに微笑した。よく見る笑い方だ。
世辞だと思っただろうか。
言葉にしたのは初めてだったけれど、ずっと考えていたことだった。やんわりと瞳を細めたアンジェリカに、クラリッサは照れ隠しで笑い返した。肩につくかつかないかほどの長さで切り揃えられたアンジェリカの金髪は、藍の夜空にぽっかりと浮かぶ月の光に似ていると思う。
クラリッサは、テーブルに用意された陶器のカップを手に取った。お気に入りの紅茶だ。異国風な甘い薫りがする。
「よい茶器ですね、クラリッサ様。レンノのオードリーですか?」
一口含んで飲み下すと、アンジェリカが手許のカップを眺めてそう言った。クラリッサは一瞬きょとんとしてから頷く。
「ええそうよ。アンジェリカ、詳しいの?」
そうでもないですけれど、と曖昧に笑い、オードリーの陶製食器は有名ですから、と彼女は続けた。格調高い浮彫のある真白に、青いレーアテルエ――現実には存在しない花だ――が描かれている。持ち手に指を掛け、ソーサーからカップを持ち上げたアンジェリカは、陶器の花を撫でるように手を滑らせた。ひそやかに眼差しを柔らかくし、中身を飲むでもなく茶器を弄る姿は、それをよく好んでいるようにしか見えない。クラリッサは小首を傾げた。
それにしても、と静かに息を吐く。
アンジェリカは何てきれいな女性なのだろう。
茶器へ集中している彼女をそっと窺い、クラリッサは独りごちた。間近で観察しても美貌に欠点は見当たらない。白皙の肌はきめ細やかで白粉など必要としないだろうし、ふっくらとした唇に紅を差したなら、むしろ彼女の美しさを損なってしまうかもしれない。輪郭は滑らかで、鼻筋は通り、長い睫毛は影を落としている。伏し目がちなさまなどは、画家が挙って筆を執り、何枚でも肖像画を描きそうだ。同性でもうっとりするほど嫋やかな女性美にあふれ、けれども前髪からちらりと覗く柳眉は凛々しさを宿し、その絶妙な均衡には溜息が零れる。
そして、サディアスとは微妙に色合いを異にする、碧眼と金髪が本当に美しい。
神が自ら卵を捏ね、造形したのではないかと思うほどの妍である。
さらに、最近になって、アンジェリカの美しさは決して眉目形だけにあるのではないと、クラリッサは気づいた。
彼女は所作がとても優婉なのだ。無駄がなく流れるようで、上品の一言に尽きる。今日も、座り方や茶器に触れる手指の繊細さを見て、彼女は完璧な行儀作法を身につけているのだと思った。交流のある上流貴族の女性の中にも、アンジェリカほど自然にそつなく振る舞える者はいない。
サディアスの傍らに控えているときの立ち居も見惚れるほどだ。
清冽な雰囲気を纏い、常に凛と伸ばされている背筋には、王女として嗜みを憶えているクラリッサでさえ、素直に羨望を抱いてしまう。
アンジェリカの美貌と挙措なら、人々が美しさを競う社交界でも決して見劣りはしないだろう。女ながらに騎士の制服を着こなして、もちろんその男装も似合っているのだけれども。金髪を飾り、映える化粧を施し、鮮やかな色のドレスを着たなら。
(きっときれいだわ)
最も持て囃される社交界の華となるに違いない。クラリッサは想像する。
(――サディアス様の愛妾では)
城に出入りする貴婦人たちがそんな噂をしているのを聞いた。ふと思い出して、クラリッサは眉を顰める。
アンジェリカがサディアスの愛妾であるなどという下世話な風聞を、クラリッサは信じていない。信じたくないという気持ちよりも、ふたりの間にある空気がどうしてもそういうものに思えないのだ。クラリッサは、彼らが甘い雰囲気を醸し出しているのを見たことがない。それどころか、視線や態度、交わされる言葉は、今にも割れそうな薄氷を踏むみたいに感じるときがある。ふたりでいるのに、孤独であるかのような。
眼差し一つで意思疎通ができる彼らの関係は、特別なものだろうとは思うけれど。
「クラリッサ様?」
呼び掛けられて、クラリッサははっと顔を上げた。アンジェリカが心配そうな顔でこちらを見ている。
どうかなさいましたか、と訊ねられ、慌てて首を振った。もてなすはずが何をしているのか。額にたたんでいただろう皺を解き、クラリッサは笑みを繕った。アンジェリカは気遣わしげな目をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
さらりと淡い金髪が揺れる。
「……わたくしあなたが羨ましいわ」
ふっと吐息して、クラリッサはささめく。アンジェリカが不思議そうに首を傾げたのに微笑い、デコルテに落ちた自分の髪を一房抓む。
「わたくしの髪、亜麻色でしょう。地味だと思わないかしら。それに、細くてふわふわしていて勝手に広がるし、そのせいですぐに絡まってしまうの。アンジェリカの髪は癖もなくて艶やかで、絹のようだもの。本当にきれいね」
触りたくなってしまうわ、思わずそう洩らすと、彼女は目尻を下げ、ありがとうございます、と答えた。
「でもわたしの髪は纏めるのに不向きで。クラリッサ様のような素敵な髪型は難しいのです。結わえなくて困ると……昔は、よく侍女に詰られていました」
懐かしそうに笑みを落とすアンジェリカに、クラリッサは目を瞬かせた。
――侍女、と彼女は今、確かに言った。
「アンジェリカ、あなたもしかして良家の子女なの?」
クラリッサが聞き返すとアンジェリカは一瞬咽喉を鳴らして、それから微苦笑をはいた。
「そうですね」
「……どうして騎士に?」
母が亡くなって、と静かな声が降る。
「外へ出たくなったのです。母は身分が低く、――クラリッサ様にはお耳触りでしょうけれど、正妻ではありませんでしたから。私は家に馴染むことができず、居心地が悪くて。父は、母のことは愛しておりましたが、私には興味を示さない方で、他の誰も止めませんでしたし」
淡々と話すアンジェリカに居たたまれなくなって、クラリッサは顔を歪めた。膝の上で手を握り合わせる。好奇心だけで不謹慎に、聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「アンジェリカ、あの……」
「でも結局行き場がなくて。そんなふうに困っていたところをサディアス様に拾って頂いたのです」
口を挟もうとしたクラリッサには気づかない素振りで、アンジェリカは続けた。恐々と目を遣るクラリッサに彼女は笑い、その眼差しがあまりに穏やかで、姉のようですらあったので、クラリッサは強張った身体から力を抜いた。躊躇い、あの、とおずおずと問い掛ける。
「何故騎士だったの? 侍女でも何でも、他に仕事は」
況してアンジェリカほどの嗜みがあれば、そちらの方がふさわしかったのではないだろうか。
ふと、アンジェリカはクラリッサを見据えた。
「――あの方が幸せになれるように」
砕けた硝子を踏みしめて立つような。
痛々しい強さの。
眸で。
ふっと立ちのぼった冷たく清んだ空気に、クラリッサは息を呑んだ。肌が弥立つ。
だが次に目を瞬いたときにはもう、アンジェリカの周りから凍てたその熱は霧散していて、見間違えをしたのではないかと思うほどだった。
ふわと微笑んだアンジェリカは、不器用な方ですから、と茶目っ気混じりに言い添える。
一瞬の変貌に茫然としていたクラリッサだったけれども、それを聞いて、思わず唇を綻ばせた。
「……わたくしもそう思うわ、アンジェリカ」
サディアスのことを考えると、少しのほろ苦さとともに、どうしようもない愛しさが込み上げてくる。
「そういえばね、あなたの髪が淡いのだと気づいたのは、サディアス様の色と比べてなのよ」
「サディアス様とですか? ……ああ、確かにサディアス様の御髪の方が濃いかもしれませんね」
「ふたりが並んでいるのを見て、太陽と月みたいだと思ったの」
無邪気に話すクラリッサに、アンジェリカは口許を緩める。
「クラリッサ様はロマンチストでいらっしゃいますね」
「あら嫌だわ、アンジェリカ。ばかにしているの?」
クラリッサは頬を膨らませ、わざとらしく怒った表情を作る。まさか、とアンジェリカも道化たふうで目を見開いた。これは失礼致しました姫君、と慇懃に頭を下げるので、さらに不満そうな仕草をしてみせる。軽やかな戯れの後、ひどい方、と明るい声で言い、クラリッサは微笑した。
でも本当にきれいだと思っているのよ、と継いで、それからはヴェンネルヴィクの話をした。
この国には純粋な金髪の人間はあまりいないのだということ。母親が大陸北方の出身だからクラリッサ自身の髪は色素が薄いけれど、国民の大半は黒茶の髪を持っているのだということ――
「クロンクビストには金髪の方ばかりなのかしら」
生まれ育ったヴェンネルヴィクからほとんど外へ出たことのないクラリッサには想像もつかない。人々がみな金髪なのだとしたら、国民が集ったときにバルコニーから見下ろしたら、それは初秋の、黄金の稲穂のように見えるのだろうか。そんなことを考える。
疑問に思ったことを素直に口にしただけだったのだが、アンジェリカは少し戸惑ったような表情をした。
どうなのでしょう、と眉尻を下げる。
「金の髪の国民が多いかどうかは、わたしでは何とも。……クロンクビストは本国に沿うように海洋が広がり、異国の民も数多く訪れますので。わたしは、髪や目、肌の色が異なるのは、当然だと思っておりました」
「そうなの? では、サディアス様とアンジェリカのように揃って同じ髪色だということの方がめずらしいの?」
「そういうわけではありませんけれど。王の血族の方は皆様、金の御髪でいらっしゃいますし。……ヴェンネルヴィクの方々から見ると、不揃いの色は不思議に感じられるのですね」
「アンジェリカは、わたくしたちがみな同じ色合いの髪を持っていて、不思議には思わなかった?」
「こういう国もあるのだなとは思いましたが」
矢継ぎ早の質問を重ねると、アンジェリカは困ったふうに笑う。彼女の微苦笑でふと我に返り、クラリッサは羞恥心を憶えた。お喋りな口許を押さえ、それからしょんぼりと肩を落とす。ごめんなさい、と項垂れると、アンジェリカは首を振った。
「クラリッサ様は好奇心旺盛で、勉強熱心でいらっしゃるのですね。サディアス様とお二人のときにも、こうしてご質問をなさるのですか?」
「サディアス様に? ……いいえ、しないわ」
クラリッサは唇を引き結ぶ。何故です、とさらに優しく訊ねられて、泣きたくなってしまった。
「だって、呆れられたら嫌だもの……」
落ち着いた大人のアンジェリカとは違い、子どもでしかない自分。
ふたりが並んでいるのを見つめるたびに胸を過ぎる劣等感がぷかりと浮き上がってきて、クラリッサは目を伏せた。
アンジェリカがサディアスの愛妾であるという噂話などは信じていない。けれども、彼の何もかもに引けを取らない、むしろ僅かの遜色もないアンジェリカを見ていると、自分はサディアスには釣り合わないのだと感じて、不安になることはあった。そもそも下世話な風聞は、クラリッサが至らないからこそ、流布するのではないかとさえ。
祖国からたった一人だけ、サディアスの追従を許された美しい女騎士。
本当の意味で『夫婦』になれない、形式だけの花嫁。
クラリッサはテーブルの下でひっそりとドレスを握りしめた。憧憬を塗り潰して、羨望が胸の裡を占める。
いつからかクラリッサの心には、とても醜い気持ちが巣喰っている。
サディアスを恋しく想うと心は痛み、それはまるでレーアテルエの棘が刺さっているみたいなのだった。今は、棘はまだ浅いところにいるけれど、そのうちにもっと深い場所まで入り込み、クラリッサの一番柔らかく脆い部分を傷つけるかもしれない。
そうして心は引き攣れて、クラリッサは、もっとずっと醜くなってしまうのだ。
クラリッサ様、と。
呼び掛けられて、心臓が跳ねた。
のろのろと首を上げると、いつの間に傍らへ足を運んだのか、アンジェリカがクラリッサの座るソファの真横で片膝をついている。彼女は微笑んではいない。ただ、ひどく真摯な色を灯した碧眼が、クラリッサを見上げている。
クラリッサが見つめ返すと、わたしは、と誠実さの滲む声でアンジェリカは言った。
「あの方をずっと近くで見てきました。こんなことを申し上げたら、クラリッサ様は不安を抱かれるかもしれませんが」
「アンジェリカ……」
「ずっと見てきたのですもの。知っています。クラリッサ様、サディアス様にはあなたのそのあたたかさが必要なのです」
膝の上で硬くした両手を、アンジェリカの手が包む。冷たい肌だった。
「あの方は長らく、自らの手で幸せを遠ざけて生きてこられました。本当はとてもお優しい方なのに、人を傷つけて歩む道を選んでしまった。あらゆるものを犠牲にして、踏みつけて、あんなにお好きだった花さえその手で手折って、美しいものを疎んでは、暗闇の中だけを歩いていらっしゃった。……もう、いいのに、そんなことは」
罅割れそうな眼差しをして。
アンジェリカは喘ぐ。
「幸せになってもらいたいのに」
辛くてたまらないような響きで吐いて、顔を歪めたアンジェリカは、両目を閉ざす。次に碧眼を覗かせたときには、それまでの悲痛さは消していたけれど。
「……きっとあなたの隣でなら、あの方がいつか失った優しい日々が叶うと思うのです。クラリッサ様」
それは、信じたいと叫んでいるようでもあった。
サディアスがあたたかく優しい世界で生きてゆくことを信じたいのだと。
ひどく静かに、アンジェリカは微笑んだ。それはとても美しい笑みで、痛ましくさえ感じられた。
「ですからどうか、サディアス様とご一緒のときも、そのままのクラリッサ様でいらっしゃって下さい。そちらの方がきっと喜ばれます。機微にとても敏い方ですから」
涙が、頬を滑り落ちる。
一つ雫があふれたら、その後はもう止まらなくて、クラリッサは戸惑った。アンジェリカの指が肌を掠め、ぼろぼろと零れる涙を拭う。
「嫌だわ、わたくしったら……」
そう自嘲して笑おうとしたけれど、笑えなかった。
いろんな感情が込み上げて、わけがわからなくなる。息苦しい。間違いなくみっともない顔をしている。
「……アンジェリカ。それは、本当に?」
せめて嗚咽だけは堪えて、抑えた呼吸の隙間からクラリッサは小さく問い掛けた。瞳を濡らす膜の向こうでアンジェリカが頷くのを見る。涙を透かした碧眼は、光を反射させる湖面のようにきらめいていた。
「わたしは、今日お話しさせて頂いたままのクラリッサ様が好きですよ」
静謐を宿した碧眼が、ひどく泣いているような気がするのはどうしてだろう。
(貴女はきっと)
声がする。
寂しそうに微笑いを零した男の。
「……サディアス様に幸せになって頂きたいのです、クラリッサ様」
(狂おしいほどの孤独を抱きしめたことはないんだろう)
クラリッサは両手で顔を覆った。
ふたりの間にある張り詰めた空気のわけを、知る。だけれど、息ができないほどの悲しい熱に翻弄されて、言葉が出てこない。アンジェリカ、とクラリッサは心の中で繰り返す。アンジェリカ――それは、本当に?
目蓋の裡に広がった暗がりで、織りを成した二種類の金色が毀れてゆく。
融け合うことのないまま、ただ果敢なく。