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碧の独善  作者: 氷空けい
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07. リフレクション


 始め、と開始の一声が響く。揶揄の笑みに片頬を吊り上げた男が先制的に仕掛けてくる。アンジェリカは、緩慢にさえ見える所作で剣を抜いた。

 石造りの鍛錬場に、金属の打ち合う冷徹な音が、遠く鳴る。



 女の騎士はめずらしいのだと言う。ヴェンネルヴィクだけではなく、近隣の小国はどこもほとんど存在しないらしい。

 あるじの婚礼から数日後、アンジェリカはその事実を知った。

 だからといって、特別な驚きを得たわけではない。城を訪れてすぐにアンジェリカにまとわりついた、クロンクビストで向けられていたのとは微妙に異なる奇異の眼差しの理由を知って、納得をしただけだった。肩身の狭さなど感じるべくもない。冷やかしや侮りを棲まわせた視線には、疾うの昔に慣れてしまっている。風聞や陰口を気にするほどの純粋さは、今はもう持ち合わせていなかった。

 群盲にあげつらわれたところでどうでもよいとしか思えなかった。何を言われても、アンジェリカには、サディアスの騎士を辞すつもりはないのだから。

 サディアスのためだけに生きている。それ以外には興味がない。

 だが、一ヶ月を過ぎて、まるで様子の変わらないアンジェリカに、周囲が苛立っているようではあった。人々の前を通り過ぎると空気がささくれ立つのを感じる。

 それは、この国の社交界に徐々に広まったサディアスの才幹のせいだと思われた。

 クロンクビストで事前にある程度学んではいたが、ヴェンネルヴィクへ来てからもサディアスは国を知ることを欠かさず、結婚してからの数日は書籍に溺れていた。その後は学術機関へ赴き、権威ある学者たちと話をするようになったかと思えば、大した日数も経たないうちに知識に裏打ちされた弁舌で彼らを黙らせるようになってしまった。学問に飽き、視察も兼ねて騎士や兵士の訓練場へ出向くと、今度は彼らが舌を巻くような腕前を披露して見せ、サディアスは有能な次期王婿として称賛の声と感嘆の溜息を集めるようになったのだ。当人にはどうでもいい雑音にしか聞こえていないだろうが。

 サディアスは元々、先王が存命だった十代からクロンクビストの政治中枢に関わってきた、将来を嘱望された最も優秀な王子だったのである。ここ数年表舞台に立っていなかったのは、――理由があっただけだ。これが本来の姿だとアンジェリカは知っている。

 そうしてあるじが有名になり、自然、周囲の関心はアンジェリカにも向けられるようになった。憶測は数あり、噂は口さがなく流布している。最たるものは、愛妾ではないのかというありきたりな風聞だ。好んで話すのは主に城へ出入りする貴婦人たちだが、彼女らの夫や、騎士、兵士、女官や侍女、あるいは王室に近い官僚たちでさえそのように見ている節がある。そこかしこで囁かれる声に、アンジェリカは苦笑するしかない。

 いいけれど、と諦めとともに思う。どうせ王城とはそういう場所だ。サディアスはわかってくれているから、それでいい。サディアスのいるところが、アンジェリカの居場所になる。

 ――サディアスだけがいればいい。それだけでいいのだ。

 だから。


(……うばわないで)


 水面に雫が落ちるよう。

 ひっそりと零れた声に潜む、我が儘な自分を静かに見つめて、アンジェリカは笑みを消した。




「そんなに疑わしいのなら試してみればいい」


 否応なく耳に入る世間口に、厭気が差していたらしい。騎士の鍛錬場へ足を運んだサディアスは、そこに居並んだ人々を睥睨して、そう宣言した。突然の発言に、騎士たちは虚を突かれて立ち尽くしている。

 アンジェリカだけが、呆れてサディアスを見返した。


「やるだろう、アンジェリカ」


 勝手なことを、と思ったが口にはせず、アンジェリカは溜息を吐いた。サディアスは唇を歪めて笑い、アンジェリカの無言を了承と取って、誰か、と声を張る。


「クロンクビストの白金プラチナ位と仕合をする勇気のある者は」


 一瞬群衆が波打ち、引いたかと思うと、では私が、と手を挙げる者がいた。

 爽やかな声の方向へ目を遣ると、若い男が笑い含みにアンジェリカを見ていた。歳は二十代半ばくらいだろうか。身に着けた襟章の色は浅紫、ジェルヴェの葉の意匠が用いられている。男の年頃にしてはやや上位の階級、軽侮の視線と余裕と自信を覗かせた態度――貴族の次子といったところか。


「グレン・バルフォアと申します。殿下の騎士どのとは一度剣を交えてみたいと思っていました。ぜひ、お相手を」


 前へ進み出てきた男は、弓形に瞳をしならせた。アンジェリカは微苦笑をはく。


「……よろしくお願いします」




 それまでで最も甲高い音が空気を引き裂いた。

 照りつける陽射しを弾き返して、研磨された銀が蒼天を一閃する。

 熱を凝らせ、張り詰めていた空気に、誰のものとも知れない呼吸が滲んだ。刃を強くぶつけすぎ、痺れの走る利き腕を下ろして、アンジェリカは深呼吸をした。息を吸うときに目を瞑り、吐ききってから目蓋を押し上げる。新鮮な空気を肺へ送り込んで息を整え、肩から力を抜いた。

 これで、騎士としての器量は二度と疑われなくなるだろう。

 提げた剣を一振りして、鞘へ収める。


「――勝者、アンジェリカ!」


 刃と鞘とが触れて立てた音でようやく我に返ったらしい審判が、上擦った声で判定を叫んだ。

 茫然とした様子の相手にさっと一礼をしたアンジェリカは、切り揃えた金髪を風に流して振り向いた。勝手に仕合を吹っ掛けたサディアスは、つまらなさそうに鍛錬場の石壁にもたれている。アンジェリカが歩み寄ると、腕が鈍ったな、と彼は言った。


「五分だ、アンジェリカ。レックスが泣くぞ」

「泣くはずありませんよ。あの方はわたしが騎士になることに最後まで反対なさっていましたもの」


 師である騎士団長の名に、アンジェリカは渋面を作る。そして息を吐き、ふと困ったように笑むと、小首を傾げた。


「でもあんまりです、サディアス様」


 小さく詰ると、何が、とサディアスは片眉を上げる。


「仕掛けておきながら全く関心がなかったでしょう」

「手に汗を握って見ていればよかったのか? たかだか小国の騎士相手に剣を交えるところをか」


 おまえの叙勲がその程度の価値だったとは知らなかった、そう皮肉そうに口の端を歪めるので、アンジェリカは表情を消した。サディアス様、と抑揚のない声で呟くと、アンジェリカを冷ややかに見下ろしていたサディアスはふいと顔を背ける。


「……おまえが剣を取ることを嫌っているこの俺が、褒めるわけないだろう」


 自らの撞着に不機嫌を見せ、サディアスは壁から身を起こすと、素っ気なく行くぞと言って歩き出した。

 ――滅多に洩らさない本音だった。

 アンジェリカは背を向けたサディアスを凝然と見つめて立ち尽くした。柄を掴んでいた手のひらが今更熱を帯び、痛みを訴える。足が地面に縫いつけられたようになってしまい、一歩を踏み出すのにひどく苦労した。

 守るはずが傷つけて、遠ざかるはずが手放せなくて、こんなところまで来てしまった。

 灼きつけられた影が足許から立ち上がり、アンジェリカを呑み込もうとする。暗翳を睨めつけたアンジェリカは顔を歪め、頭を振ってそれを追い払う。まるで罪の烙印を押しつけるような太陽の光を背負い、距離が空いてしまったサディアスの後を追った。



 きら、と白銀が光る。

 陽射しとは違うきらめきのそれに、アンジェリカははっとして背後を振り返った。

 誰かが、グレン、と叫んだ。制止の声であったに違いない。驚愕と狼狽に顔色を変えた人々の姿が視野を過ぎる。押し止めようと数々の手が伸ばされるさまは、アンジェリカにはひどく緩やかな速度で見えた。遅い、と思う。アンジェリカは腰に提げた剣の握りへ手を伸ばす。指先に馴染んだ金属の感触がした。――だが。

 遅い、と。

 無意識が判断を下す。


(――さま)


 アンジェリカは騒ぎに振り向きかけたサディアスを反射的に突き飛ばす。剣の鋩子ぼうしが僅かでも届かないように。

 片腕に鋭い痛みが走ったのは、咄嗟の行動とほとんど同時だった。

 ぱたたたっ、と血が落ちてゆく。


「……アンジェリカ!」

「グレン、グレン・バルフォア、止めろ!」

「おまえは何を考えている!」


 喚声が重なる。ざわめきが一気に群れを成してやって来た。

 迫り上がる熱さに奥歯を噛みしめて、アンジェリカはどうにか体勢が崩れかけるのを堪えた。斬りつけられた二の腕を押さえている手は、真っ赤に濡れている。袖は破れ、黒の生地は不自然に色味を濃くしていた。零れた血で、足許には次々に不規則な楕円が描かれてゆく。

 鼻を衝く臭いがした。動脈は切れていないと思うが、浅い傷ではなさそうだ。痕になるかもしれない。


「アンジェリカ」


 呼ばれて顎を上向けると、少し青ざめたサディアスがアンジェリカの顔を覗き込んできた。動揺を隠せていない碧眼にぎこちなく笑い、大丈夫です、と深い溜息を洩らす。


「油断しました。すみません」


 事態の少し前、意識が飛んでいた。これは注意を怠った自分の落ち度だ。

 血の気が失せているのを感じながら、それでも安心を促すために笑うと、サディアスは表情を強張らせた。アンジェリカの身体を支えていた彼の手が離れる。次の瞬間にはもう、アンジェリカの腰から剣を抜き取っていた。

 アンジェリカは瞠目した。

 サディアスの動作は速かった。仲間に取り押さえられた騎士へと迷いもなく向かう。周囲が状況を呑み込めずに目を白黒させる中、だめです、とアンジェリカは悲鳴じみた声を上げた。


「だめ――やめ、止めて、下さい!」


 彼の、怜悧な美貌が凍てついている。息を殺し、昏い眸をして相手を見つめて――

 重なる。ばらばらと記憶の薄片が落ちてくる。濡れそぼった金髪。碧眼。赫と朱が踊る。アンジェリカは喘ぎ、手当てをしようとする者たちを振り払って、サディアスへ腕を伸ばした。振り上げられる刃。光る。銀。



「――兄様!」


 咽喉を衝いたのは、慣れ親しんだいつかの。

 誓いをかなぐり捨ててアンジェリカはサディアスに縋りつく。


「兄様、わたしは……アンジェリカは平気です、無事ですから! お願いします、剣を下ろして……」


 その場にいる誰の目も気にならなかった。負った痛みさえどうでもよかった。サディアスが人を傷つけようとすることだけが、ただただ耐え難い。辛く苦しく、悲しい。サディアスが何かを擲とうとするたび、アンジェリカの心は千切れて、狂いそうになる。

 幸せにならなければだめなのに。

 幸せになってほしいのに。


「おねがいにいさま……」


 その背に額を擦りつけ、皺が寄るくらい強く彼の衣服を握りしめて、アンジェリカは請うた。情けないほど手が震えている。

 どれくらいそうしていたのだろう。やがて、アンジェリカ、と名を呼ぶ静かな声が聞こえて、アンジェリカは恐々と首を擡げた。そろりと、指を解く。振り向いたサディアスは黙ってアンジェリカを見つめている。逆光の中、狂おしげに眉を顰め。

 アンジェリカは無意識に、その、歪んだ眦に触れようとして。

 けれどもふと思い至って、上げかけた腕は引っ込めた。その代わりに、きつく剣を握りしめている、サディアスの手に触れる。

 赤く濡れた指先でなぞるとぴくりと力が入ったが、サディアスは抵抗もなく、すんなりとそれを手放した。柄をぬめる手のひらでおのれへと引き寄せ、アンジェリカは息を吐く。嗤えるくらい、弱々しい吐息だった。


「……サディアス様」


 血を飛ばし、刀身を鞘へ収めて、アンジェリカはサディアスを見た。


「お叱りならばわたしに。バルフォア様にはどうぞ寛大なご処置を」

「騎士の名にもとる行為をした男を、おまえは俺に許せというのか、アンジェリカ」


 感情の失せた声色だった。怒りさえない。淡々とした眼差しを受けて、アンジェリカは微笑い、目を伏せる。

 否や、ぱんと乾いた音が鳴る。

 サディアスがアンジェリカの頬を張るのを見て、ずっと様子を窺っていたらしい騎士たちが息を呑むのがわかった。衆目の中、アンジェリカは黙って腰を折り、サディアスは何も言わずに身を翻す。気配が遠ざかって消えるまで、アンジェリカは身動きを取らなかった。

 背筋を伸ばすと、いくつもの視線がアンジェリカを取り巻いていた。


「――あの。アンジェリカどの、手当てを……」


 先んじて声を掛けてきた騎士に目を遣る。随分な撲ち方だった、腫れるかもしれないと他人事のように思いながら、ひりつく頬を甲で撫ぜ、アンジェリカは首を傾げた。平然を装い、流血し過ぎて貧血気味なのは、この際、感じていないことにした。


「タオルと紐だけ頂いても? 後は部屋へ戻って自分でやりますから」


 しかし、と眉を顰めた相手に、アンジェリカはにこりと笑った。自分の容姿は心得ている。


「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫です、痛みには慣れているので」


 要求したものを受け取り、応急処置をしてから、鍛錬のお邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした、と謝ってその場を後にしようとする。だが、さも思い出したかのようにふと振り返って、アンジェリカは未だに立ち竦んでいる人々を見回した。

 そうして殊更きれいに微笑んでみせる。それは牽制だった。


「どなたも気に病まれる必要はありません。今日のことは他言無用ですから。――降格されたくはないでしょう?」




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