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碧の独善  作者: 氷空けい
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06. 片恋の花


 故国、クロンクビストでの生活に、幸せな記憶はあまりない。

 互いへの思慕に満ちた笑いを交わすクラリッサとカイルを心持ち遠くに眺めて、アンジェリカは静かに独白した。

 彼らを見つめて抱く気持ちは、羨望や憧憬といった名を与えるべきものとは少し違うと思う。ヴェンネルヴィクの、代わり映えのしない穏やかであたたかな日々は、アンジェリカを包み込みながら、けれど僅かにも馴染まずに、それどころかまるで水の遣りすぎで花を枯らすみたいにして、少しずつ心を病ませていた。

 明るく談笑している二人から目を逸らしてしまいたかった。彼らが醸し出す睦まじい空気の傍にいても、アンジェリカは微笑えずにいた。

 今更何を望んでも、それは叶わない夢だ。



「そういえば、今夜は新月ですわね、サディアス様」


 天気がいいからと誘われた硝子張りの中庭(アトリウム)で、ふと、クラリッサはそんなことを言った。クラリッサとカイルの会話について、時々相槌を打つ程度に聞いていたサディアスは、頬杖をついたまま、目線だけを姫へ向けたようだった。声を出さないので、あまり興味はないらしい。アンジェリカは、サディアスの背後に控えて表情が窺えずにいたので、あくまでも推測ではあったが。

 クラリッサは、サディアスのつれない態度に少し困ったようだった。愛らしく眉を下げている。


「もしかしてご存じではないのですか?」


 いかにもどうでもよさそうに、サディアスは肩を竦めた。

 ますます困惑したふうで、クラリッサは目を瞬かせ、隣に座ったカイルを見た。彼は口許だけで苦笑する。


「お二人のご成婚祝いにと、御国からお花を頂戴致しました。憶えていらっしゃいますか」

「……花?」


 怪訝そうなサディアスに、ええ、とカイルは頷きを返す。


「ルツィエという」

「――サディアス様」


 アンジェリカは無礼と知りながら話を断ち、落ち着いた声であるじを制した。花の名を聞いただけではっきりと機嫌を急降下させたサディアスは、肩越しに険の籠もった眼差しを投げてくる。斬り捨てようかとばかりの眼力で睨めつけられ、アンジェリカは微かに笑った。

 そうして、平気ですよ、と目で言い返す。

 新月に花と聞き、すぐに思いつくものはルツィエしかなかった。

 そもそもアンジェリカは、祝儀の中に混じり、ルツィエの苗が贈られていたことを知っていた。兄王フェビアン自らがそれを選んだことも、生育の難しさゆえに専任の庭師まで付けられたこともだ。動揺するはずがない。自覚できる範囲内では、という話だけれども。

 目前の二人を含め、ヴェンネルヴィクの面々は、誰もそれがどんな由来のものなのかを知らないのだ。成婚に際し贈呈されたルツィエは、彼らにとってはただの祝いの花なのだから――アンジェリカは、強いてでも平静でいなければならない。

 突如として口を挟んだアンジェリカに、クラリッサは戸惑いの表情を浮かべている。アンジェリカは頭を下げ、謝罪を申し出た。


「立場を弁えずに失礼致しました。お邪魔をしてしまい、申し訳ありません」

「いえ、いいけれど……あの」


 彼女は、サディアスとアンジェリカを見比べて、不安げな仕草をする。サディアスはあからさまに大きな溜息を吐き捨てると――多分にそれは、アンジェリカに向けてのものだったろう――、二人に向き直り、ルツィエが、と言った。


「故国からこちらへ贈られていたとは聞いていなかった。兄が勝手に決めたのか。……どうやら、俺の不忠な騎士は知っていたようだが」


 あるじの刺々しい物言いは聞き流す。驚かせたかったのでしょう、とアンジェリカは涼やかな口調で応えた。


「フェビアン陛下は遊び心のある方ですから」


 遊び心ね、抑えた不愉快を滲ませた低い声でサディアスは呟き、ものは言いようだな、と続けた。言葉の裏にひそめられたあるじの思考を読み取って、アンジェリカは目を伏せる。おのれの口唇がつい皮肉と自嘲で歪みそうになったが、どうにか象ったままの笑みで取り繕う。

 フェビアンがルツィエを贈ったのは、成婚への喜悦か、それとも諧謔ユーモアを弄しての愉悦であるか。否、恐らくはそのどちらでもない。

 彼の気性は、完全なる王だ。知慮深く君臨し、狡猾に支配する。感情的で無意味な行為はしない。

 ――忘れるなと言いたいのだ。過去を、罪を、罰を。

 歪んだ愛と狂気からは、どこへ行こうとも逃げられるはずはないのだと。


(だって、ルツィエは)



「とても美しい花だと伺っています」


 期待の響きを含んだカイルの声が、アンジェリカの意識を現実に引き戻した。目を瞬く。心が空虚に喰われていた一瞬の間にも、卓を囲んでいる三人は話を続けていた。


「新月の夜にまるで姿を失った月の代わりのように咲き、銀に耀くと」

「わたくし、お伽話かと思いましたわ。この目で見るまでは少し信じられませんけれど。でも、きっととても素敵なのでしょうね……」


 うっとりと夢見るようなクラリッサに、サディアスは言葉少なに相槌を打つ。先程までとは違い、興味がないから適当な返答をしているわけではない。片肘をついている後ろ姿を見つめ、アンジェリカはそう察した。

 きっとサディアスは、い表情はしていない。

 それはアンジェリカ自身もそうかもしれない。

 目の前が、ひどく昏くなっている。周囲一面に張られた硝子の向こうには青空が広がり、中庭には午後の柔らかな陽射しが燦々と落ちて、ここは明るい場所であるはずなのに、だ。クラリッサとカイルが繰り広げるたわいない会話が、壁越しのようにくぐもって聞こえている。

 代わりに、耳朶に巣喰った声が響く。


(……リーラ)


 狂気じみた執着。患ったのは、恋の病だった。


(リーラ。私の。私のリーラ)


 目に、耳に、鼻に、口に。

 頭に、首に、肩に、胸に、腹に、腕に、脚に。

 皮膚を裂いて、肉を断ち切って、骨にまで染み込ませ。

 深淵を、身体の全てで記憶している。常闇は日毎に色を濃くして、止まるところを知らずに侵蝕を続けている。鳥籠の扉が開き、自由を得てもなお。あの日アンジェリカに許された外の世界は、仮初めなのだと嗤笑するかの如く。

 今は、夢を見ているだけなのかもしれないと思うことがある。

 花が咲くのをずっと楽しみにしていましたの、朗らかに笑うクラリッサを翳る視界で捉えたアンジェリカは、ひどく遠くに少女を見ている自分を感じている。


「ですから、サディアス様、あの……」


 眺めているだけで緊張が伝わってくる眼差しで、はにかみがちにクラリッサは言葉を紡ぐ。うっすらと頬を染めているのが可愛らしい。初々しさに、アンジェリカは目を細めた。

 彼女はきっと恋をしているのだ。サディアスに。


「あの、……ご一緒に観賞致しませんか、ルツィエを。今夜」


 微かに震えた声音に、精一杯の勇気が籠もっているのがわかった。

 アンジェリカに背を向けたサディアスは一呼吸の沈黙を挟み、その間をどう受け取ったのか、クラリッサは不安そうな表情をした。隣にいるカイルは眉を顰める。彼らの様子に、サディアス様、とアンジェリカは努めて柔らかな声を掛けた。含みを持たせた呼び掛けに、硬直したようだった男の肩が動く。

 浅く吐息する気配の後、ああ、とぽつりと短い返事が落ちる。

 クラリッサは安堵したように瞳を緩ませ、砂糖菓子みたく甘い、幸福そうな微笑を零した。



 それぞれに公務があるからと談話を終えて、城内へと戻る道すがら。

 先を歩いているサディアスとクラリッサの後ろをついて歩いていたアンジェリカの傍にさり気なく並んだカイルは、意外だったな、と独り言のように呟いた。

 アンジェリカはカイルへちらと一瞥を投げ、何のことです、と返す。


「君が、クラリッサの後押しをしたことが」

「まるでわたしがお二人の邪魔をするだろうと勘繰っていたような言い方ですね、殿下」

「そうだと言ったら?」


 カイルの目が向くのを感じて、アンジェリカはひそやかに微笑う。

 おかしな人だ。

 周囲からサディアスとの関係を疑われ、嫌悪の視線を注がれるのはよくあることだが。こうも単刀直入に言われることは滅多にない。素直なのか、それとも作為なのか。カイルの眼差しは廉直のようにも思えるが、人の善良さを猜疑する浅ましい自分であるので、判断は難しい。


「クラリッサ様の後押しをしたわけではありませんよ」


 だが本性がどうであれ、奇妙な清々しさのある、小気味のいいその態度自体は嫌いではない。


「わたしは、サディアス様が幸せになってくれさえすればそれでいいのです。……クラリッサ様なら、きっと」


 アンジェリカは言いして、口を噤んだ。苦く微笑い、かぶりを振る。

 カイルの怪訝そうな空気は感じたが、気づかないふりをした。

 人一人分ほど距離を開けているサディアスとクラリッサの姿を見つめ、あの空間がなくなる日を想像する。そのときにもこの位置にいられればそれでいい。アンジェリカは目を閉じる。

 追憶の片隅で、庭一面に群れる花が揺れている。

 陽が落ちた宵に咲き初めて、空が薄らぐ明けの頃に枯れてゆく。新月のただ一夜にしか咲かないはずなのに、目蓋の裡に広がる暗がりでは、ひとひらの花弁も褪せていない。失せた月影を溶かしたそれらは、冷たい夜風に吹かれ、まるで泣いているように光を零している。

 幻想の銀。ひとときの夢。――狂れてしまった片恋の。

 『ルツィエ』は、その象徴だった。

 美しく鬱くしく咲き匂う。ぞっとする光景を目裏に見て、アンジェリカは睫毛を震わせた。そうして目を開け、仰いだ先のカイルは、渋面を作り、胡乱な視線をアンジェリカへと突き刺している。

 やたらと感情が見え透く男に、アンジェリカはいっそ潔ささえ憶えた。ヴェンネルヴィクは幸せな国だ。常闇に絡め取られて溺れた自分は、もう清くはなれない、と白々しく独りごちて。

 アンジェリカは笑った。


「それにわたし、ルツィエが大嫌いですから」




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