05. ふたつの影
従妹のクラリッサが結婚した。
相手は大国クロンクビストの第二王子、サディアス=メディオフ・オルブライト。王婿候補として迎えてほしいという彼の兄に当たるクロンクビスト国王からの直々の打診を受け、ヴェンネルヴィク王室の現状を鑑みて、討議の結果、彼の婿入りが決定され、クラリッサとの成婚へ至ったのである。
しかし、クロンクビスト王族とは、小国ヴェンネルヴィクの王女には些か過分なのではないかと、カイルは当初から思っていた。
西側諸国で最も有力な国家であるクロンクビストは、大陸の方々だけではなく、海を越えた国々にも影響力があると聞く。相手国から持ち込まれた縁談だが、数多の国交を持つクロンクビストが何故、有閑な田舎としか呼べないこのヴェンネルヴィクを、王子――それも、クロンクビスト現王に次いで王位を戴く可能性のある――の婿入り先として選んだのか、婚礼から日の経った今でも疑問に感じている。
さらに、第二王子自身、謎の多い人物なのである。現王のすぐ下の弟だが、近年、表舞台にはほとんど出てきていない。他の兄弟姉妹とも交流が少なく、どういう人柄なのか、全く洩れ聞こえてこないのだった。寧ろそのミステリアスさで有名で、長く闘病生活を送っていただとか、諸外国を放浪していただとか、軍に籍を置いていて暗躍していただとか、噂は枚挙に暇がない。どれも眉唾に違いないけれども。
だからこそ、今まで表立たなかった人物が何故、とカイルは考えずにはいられなかった。
長く可愛がってきた従妹の結婚そのものは、勿論喜ばしかったが。
サディアス王子は男でありながらひどく見目麗しい風貌をしていた。腕のいい彫刻家が精巧に仕上げた大理石の像のようである。安易に話し掛けることを躊躇わせる怜悧な雰囲気は、冴えるからこそ美しい冬のようにも思えた。
ヴェンネルヴィク王室の人間にはない、静かに人を圧倒する気配は、ややもすると冷淡なふうでもあるが、彼の美貌にはそれさえふさわしい。
クラリッサも同様の印象を受けたのだろうか。婚礼を挙げた聖堂で、王子と向かい合ったクラリッサが仄かに頬を紅潮させているのを、カイルは確かに見た。
――何にせよ、幸せになってくれればいい。
カイルが願うのはそれだけだったのだが。
現実は、容易く願いの実像を結ばない。
成婚から一ヶ月経ち、他国の視察から帰還したカイルの耳に入ってきたのは、クラリッサとサディアスが不和であるという話だった。
口頭での視察の報告もおざなりに、カイルは急ぎ足でクラリッサの許へと向かった。本人に直接会って、風聞の真相を確かめ、話を聴いてあげなければと思ったのだ。繊細なクラリッサのことだから一人で思い悩んでいるだろうし、根拠のない噂が流れるだけでも、辛くてたまらないに違いない。まさか、泣き暮らしてはいないだろうか。
カイルは通い慣れた廊下を突き進み、真っ直ぐに従妹の私室へと辿り着いた。
しかし、部屋の前には常時そこにいるはずの衛兵の姿はなく、代わりに細身の剣を佩刀した一人の女が立っていて、遠目に彼女を認めたカイルはそこへ近づくにつれて無意識に歩幅を縮めていた。そうして、少しの距離を取って足を止める。
女も近づいてくるカイルに気づいていたのか、カイルが立ち止まると、不思議そうに何度か軽く目を瞬いた。長い睫毛が美妙な光を帯びてけぶる。
細身で、背丈が頭一つ分くらい自分より低い女を、カイルは注視した。肩につくかつかないかくらいの癖のない金髪に、森の湖を想起させる翡翠がかった碧眼。透明度の高い水を覗き込むような心地で女の眸を見て、以前にも会ったことがある気が、と独りごちる。
彼女は僅かに首を傾け、ふっと微笑した。
「クラリッサ様に御用ですか?」
黙って女を見つめていたカイルは、相手の言葉で我に返る。
「――そうだ。中にいるのか?」
「いらっしゃいますが、今しばらくお待ち頂かねばなりません。話し終えるまで誰も通すなと言いつけられておりますので」
「話? ……誰と」
カイルは眉を顰めて訊ねる。だが、同時にクラリッサの相手はわかりきっているとも思った。王位継承者たる王女の私室で、彼女と会話が許される人物は限られる。怪訝に思ったのは、城内でまことしやかに囁かれているあの噂の所為だ。
女は、ご夫君のサディアス様です、とさらりと答えた。
「通せ!」
反射的に、カイルは声を上げて命令した。
自分は今、二人に関する話をしに来たのだ。ひどく耳障りな、不和、という風聞の真相を明らかにしなければならない。
苛立ちをそのまま吐き出したようなカイルに、女はやはり先程と同じく睫毛を震わせ、恐れながら、と冷静な声を返してきた。扉を阻むためか、さり気なく立ち居を改めながら。
「クラリッサ様、サディアス様、お二人からのご下命ですので、致しかねます」
「私はその二人に用があるんだ、丁度いいだろう。カイル・キャヴェンディッシュが来たと取り次いでくれ」
カイルが詰め寄り要求しても、女は扉の前から退こうとはしなかった。考える様子を一瞬見せただけで、できかねます、と言う。
何故、と言い募るカイルの声は、自然と険を帯びた。
「お二人の命令がより上位のものだからです、殿下」
こちらの身分を理解しての返答に、カイルは思い切り渋面になる。
女のそれは、妥当な判断ではあった。確かに命令の優位では王太子とその夫君が上だからだ。だが、とカイルは苦々しい気持ちで唸る。室内の二人に確認するふうもなく、一介の臣下に言い返されるのは不愉快だった。
額に皺をたたんだまま、カイルは今一度目前の女を観察した。
佩刀している時点で、女が女官や侍女ではないことは明白である。彼女が身に着けている、黒を基調とし、装飾の少ない簡素な仕立ての服は、男が着るものとほとんど変わらない。よく見ると、右に階級章と思しき肩章がついている。蜜蜂と剣、そしてそれらを繋ぐ蔓――クロンクビスト王族に仕える騎士の紋章ではなかったか。
君は、と低い声で呟く。
「サディアス様の騎士か」
そういえば、王子は祖国からただ一人だけ供を連れてきたと聞いた。その従者だけがいれば、他には不要と申し出たとも。
――まさか女の騎士であったとは。
騎士と言っても、カイルの前に立ち塞がっている彼女は、戦場に立つ女戦士の如き背格好の人物ではない。細身で、ともすれば華奢とも形容できる体躯の女だった。ぱっと目を惹く金髪と碧眼だけではなく、優美さを漂わせる眉、整った鼻梁、紅を剥いたような口唇を揃え、白皙の美貌を具えている。全く欠点のない、均衡の取れた面立ちは大層美しく、天使も斯くやというほどだ。
こんな女騎士が常に傍らに控えていれば、醜聞も立つはずである。カイルは胸中で毒づいた。
「アンジェリカと申します、カイル殿下」
カイルの不躾な眼差しにも嫌な表情一つ見せず、それどころか慣れているふうで、女は微苦笑をはく。
「……アンジェリカ」
意味もなく舌先で名前を呟くと、はい、と彼女は律儀に返事をした。カイルはじっとその顔を見る。
「君は――騎士か?」
つい発してしまった問いは、礼儀を失していたと思う。カイルは一瞬、ひやりとした。
しかしアンジェリカはただ困ったように微笑い、そうですよ、とあっさり頷いた。信じられないかも知れませんけれど、と付け加え。――この女は、周囲の邪推を知っているのだ。
「アンジェリカ。……私は、クラリッサには幸せになってもらいたいんだ」
唐突に言い出したカイルに対し、アンジェリカはきょとんとした表情をした。だがすぐに言動の意味するところを察したらしく、わたしもそう思っておりますと、その同調はさも当然という口調だった。
なら、とカイルは俄に急き込んだが。
「殿下」
アンジェリカは、静かにカイルの言葉を遮った。
「憶測だけでものを言うのはどうぞお止め下さいませ」
するりと細められた碧眼は、抜き身の剣の如く。
「それ以上は、我があるじに対する侮辱と受け取ります」
先を制され、なおかつ落ち着き払って諫められて、カイルは顔に朱が走るのを感じた。羞恥の熱が一気に全身を駆けめぐる。
過ぎたことを口走ろうとしてしまった。
親しくしてきた従妹には幸せになってもらいたい、そのためなら何でもする。それは紛うことなくカイルの本音だ。けれど、聞いただけの噂話と目前にいる女の見かけだけで決めつけを行い、思慮に欠けた分別のない物言いをしようとしたのは、疑いようもなく正しくないと思われた。王室の血を引く一員としてだけではなく、人間として間違っている。
自らの恥ずべき行為に思い至り、カイルは視線を彷徨わせた。
すぐに謝罪しないこともまた愚行だと気づいたときには既に遅く、そのときには扉が開かれてしまった。部屋の中から、クラリッサとサディアスが現れる。
すっと身を退いたアンジェリカを居たたまれない心地で目の端に捉えながら、カイルは揃って出てきた夫婦を眺めた。サディアスを見て、クラリッサは慎ましげな微笑を口許に浮かべている。
「お話しできて楽しかったです、サディアス様。ありがとうございました」
クラリッサは穏やかに、けれど言葉の裡に恋しそうな響きを滲ませて、サディアスに謝意を述べた。彼は目を細め、クラリッサの頭を数回軽く叩いてそれに応じる。
「アンジェリカ、戻るぞ」
夫婦のための部屋は初夜以来使われていないという話は本当らしく、名残惜しむ体もなく背を向けたサディアスは、騎士の返事も待たずに歩き出した。カイルには一瞥さえくれない。アンジェリカは素っ気ないあるじに失笑を零しつつ、では失礼致しますと一礼をして、サディアスの後ろを追いかけてゆく。
彼らを茫然と見送りながら――ふと、似ている、とカイルは無意識に呟いた。
「……クラリッサ」
本来いるべき衛兵たちが戻ってきて、カイルはそこでようやく従妹に声を掛けた。
カイルと同じく王子と騎士を黙って目送していたクラリッサは、呼ばれて視線を動かし、小さく首を傾ける。小動物のような仕草は可愛らしかったが、久しぶりに顔を合わせた彼女は、少し寂しそうに微笑うようになっていた。
「お帰りなさい、カイル兄様」
ただいま、とカイルはぎこちなく笑う。
「私のいない間何もなかったかい、クラリッサ」
「嫌だわ、兄様。……知っていて訊くのね」
クラリッサは息を吐き、そっと目を伏せた。
痛む胸を押し隠すようなそのさまがいじらしく、可哀想で、カイルはクラリッサを慰めようとした。だが、その気配を敏感に感じ取ったらしいクラリッサは首を振るい、それから、黙ってあの主従が歩いていった方向を見つめた。クラリッサの横顔からは複雑な感情が窺え、そしてその眼差しが全く知らない者のように大人びていて、カイルは掛けようとした言葉を見失ってしまう。
何もなかったわ、何も。ぽつりとクラリッサは呟く。
「クラリッサ」
「ただ、わたくしがサディアス様に恋をした以外は、何も」
吐息で霞んだ声を洩らし、切なそうに口の端を綻ばせる。
しかし彼女はすぐに表情を改めて、カイルを仰ぎ見、中に入りましょう、と勧めてきた。
「サディアス様に、クロンクビストの美味しいお菓子を頂いたの。カイル兄様、一緒に召し上がるでしょう?」
返事は聞かずに身を翻し、クラリッサは部屋の中へと入っていく。カイルは苦笑して、ふわりとドレスの裾を踊らせた少女を追った。
けれどどうしてもクロンクビストの主従が並び歩いた後ろ姿が振り切れず、もう一度だけ、カイルは彼らが消えた廊下へ視線を遣る。既に、長い廊下のどこにもふたりの影はなかったが、金と碧の残滓が記憶に残り、疎ましかった。