04. 罪と罰
初めから思惑と打算の入り交じった縁談だったが、それに託けても薄情だという自覚はあった。
息を潜め、声を殺して啜り泣くヴェンネルヴィクの姫君に対して、サディアスは距離を取って俯瞰することを選んだ。慰める言葉は持っていなかった。未だ少女の域を出ない姫君を身勝手に傷つけた罪悪感は少なからずあったが、半歩ですらその部屋へ立ち入ろうとは思わなかった。
けれども、サディアスは早々と踵を返すこともしなかった。月影が位置を変えてゆき、洋燈の火が音を失って、彼女が泣き疲れて眠るまで、扉のところで佇んでいた。
良心の呵責などではない。それはただの気まぐれだった。
姫だけではなく、見張りの衛兵以外城中が寝静まったと思われる頃になってようやく、サディアスは新しい夫婦のための部屋を辞した。ヴェンネルヴィクの王城に宛がわれた自らの部屋へと一人、帰途につく。
冷えた風の匂う、人気のない廊下を歩む。等間隔に灯された洋燈が夜を照らし、延びた絨毯に孤独な影を落としている。
――どこまで愚かであればいいのだろう。
サディアスは独りごち、ひっそりと溜息を吐いた。らしくもなく、鬱々とした気分に苛まれる。
本当は、姫にこちらの意思を告白したら、サディアスはすぐに部屋を去るつもりだったのだ。寧ろ、それが最低限の誠意だったに違いない。
できなかったのは、冷徹に為りきれないおのれの不甲斐なさと、考えていた以上に彼女が幼かった所為だ。無垢で、純真で、幸せを夢見ていただろう、深窓の姫君。クラリッサ・フェラー。
痛めつけるような言葉を吐き捨てるには、サディアスを見上げた瞳はあどけなさすぎた。
聖堂で、或いは部屋で、彼女と交わした視線を思い出し、眉を顰める。
ヴェンネルヴィクの正統を継げる唯一の王女。サディアスにとっての彼女はその肩書きを持つものでしかなかった。光に満たされた聖堂で司教が促した誓いの詞も、小さな手に嵌めた銀の指輪も、ヴェールを上げて落としたキスでさえも、定められた行為をなぞっただけに過ぎない。所詮は政略結婚で、愛を捧ぐものでも、況して恋に落ちるものでもないと、サディアスは完全に割り切っていた。だが、あの少女にとってはそうではなかった。
あたたかな明日を想像できない自分と形だけでも結ばれてしまった姫君は、不運で、哀れだ。
サディアスはそう思う。
季節が移るにつれ、踊るように色彩を変えると聞く、美しい田園の広がる内陸の小国ヴェンネルヴィク。長閑で穏やかなこの地は、祖国クロンクビストとは正反対と言ってもいい。ここで、王室のたった一人の子どもとして、誰からも愛され、慈しまれ、可愛がられ、姫は養育されてきたのだろう。見ていればわかる、彼女の纏う愛情にあふれたその雰囲気は、サディアスの知る王家のそれとは間違いなく違うものだ。
相容れない。寄り添い合って歩くには、生きてきた場所が掛け離れすぎている。
――ともに日々を過ごしてゆけば。
そう微笑んだ女の姿が甦り、そんなものはいらない、とサディアスは毒づいた。
国にいた頃から誰もがサディアスに幸福な未来を語ってみせた。たとえ国家間の交渉の上に成り立つ婚姻であっても、慈愛はやがて育まれるものだと諭すのだ。何度それを忌々しく思ったか知れない。
「……アンジェリカ」
自室の前に辿り着き、サディアスは扉の前で足を止めた。部屋の中にいる女を思い、自然と睨みつけてしまう。
わたしはあなたの騎士ですと、躊躇もなくそう言って見返したアンジェリカが憎たらしい。欲深く浅ましい、ひどく昏い感情が胸の裡で蜷局を巻く。アンジェリカは、サディアスが過去と決別し、彼女自身を見限って、幸せを享受して生きることを願っている。――本当に、莫迦なことを。
サディアスは顔を歪める。できるはずがない。アンジェリカを置き去りにして生きてゆくなんて。
今もなお蔓延る闇に足を取られたままの異母妹を、独りにすることなんて、できるはずが。
帰ってきた部屋にアンジェリカの姿はなかった。薄暗い主室を見渡したサディアスは、そのまま隣の使用人部屋へ向かう。そうして、真夜中であるというのにノックもせずに、勝手に扉を開け放った。起きていることはわかっていた。
突然入ってきたサディアスに、ぼんやりしていたらしいアンジェリカは、緩やかに目を瞬いた。
必要最低限の調度品だけが並べられた殺風景なその小部屋の片隅、備えつけられた寝台の上に、アンジェリカは腰を下ろしていた。少しも寛げずに騎士の制服を着たままで、滑らかな髪には一房の乱れもない。座した部分以外は未だにぴんと整えられている敷布も視界に入り、寝ようとした素振りさえないことに、サディアスはきつく眉を寄せる。
何度か睫毛を上下させ、アンジェリカは微苦笑をはいた。随分と早いお戻りですねと言う。
部屋を出て行ったときと代わり映えのない恰好をしたサディアスに気づき、状況を察したのだろう、アンジェリカは困ったように息を吐いた。しかしそれについては何も言わずに立ち上がり、何かご用意致しましょうか、とさも仕えの者らしいことを訊く。
だが、サディアスは取り合わなかった。アンジェリカ、と低い声を洩らす。
「寝ていなかったのか」
「……サディアス様」
狭い空間だというのに、アンジェリカの居室には、明るすぎるくらいにあちらこちらに洋燈の火が灯されている。その光に当てられた彼女の顔色は青白い。
「アンジェリカ」
答えずに眉を下げたアンジェリカに、サディアスは強い語調で返事を強いる。困惑と逡巡の気配を一瞬だけ漂わせた碧眼は、すぐにそれを失笑にすり替えた。小首を傾げると、今はサディアス様にお仕えしているのはわたししかいませんから、ともっともらしい理由を口にする。
「何かあったとき、大変ですもの……」
見抜かれているとわかっているくせにアンジェリカは嘘を吐く。サディアスは苛立ちを隠さなかった。
――扉を開けた瞬間に見えた、眸。
嫌というほど見慣れた、その裡に巣喰う空虚。
アンジェリカはサディアスの表情を窺い、唇を引き結んで、金色の睫毛に碧眼を潜めた。サディアスは足を踏み出した。彼女に歩み寄る途中で壁に立てかけてあった剣を放り投げる。剣が床に落ちて立てた硬質な音にアンジェリカは弾かれたように目線を上げ、手が届かなくなったそれを見て身体を強張らせた。
身構えた女に、サディアスは容赦なく手を伸ばす。
押し倒した寝台は鈍い音で啼いた。
「サディアス様」
「――眠れないんだろう、アンジェリカ」
突っぱねる細い腕を掴み、肩と腿を押さえつけて、サディアスはアンジェリカを見下ろした。
「父上も兄上も、誰の影もない、ここはクロンクビストではないとわかっていても、眠れないんだろう。違うか」
俺が気づかないとでも、そう言って嘲りに口角を吊り上げたサディアスに、アンジェリカは柳眉を歪める。
見下ろした顔は色が悪いだけではなく、少し痩せたと思う。まともな睡眠が取れない所為で、食事も受けつけないのかもしれない。アンジェリカの不摂生は、騎士の勤めに忠実であるからなどという真っ当な理由から来るものではないとサディアスは知っている。情緒が不安定になり、病んでいるだけだ。
アンジェリカ、とサディアスは請うような声を吐く。
「欺こうとするな……」
(……いや)
(こわい)
懇願するアンジェリカの悲愴な声は、今も耳朶に絡みついている。
(怖いの、夜は嫌、いや……だって、とうさまが)
今のヴェンネルヴィクの姫君と同じ年頃の時分、アンジェリカは陽が落ちるたびにそんな言葉を繰り返した。
当時のアンジェリカは既に、下級ではあるが騎士の身分を得、異母兄妹の関係を捨て、サディアスの騎士として傍らに控えてもいた。取り巻く世界に怯えるばかりの小さな子どもではなかったが、それでも乗り越えられずにいたものがあった。絶望と孤独、逃げきれない悪夢を連れてくる、夜だ。
(父様が)
宵になると人目を避けてどこかへ消えてしまうアンジェリカをサディアスが迎えに行くと、虚ろな、焦点の合わない目をして、彼女はいつも同じ譫言を呟く。そのたび、目蓋に手を翳して視界を覆い、騎士と呼ぶにはあまりに頼りなく細い身体を抱き上げて、サディアスはおのれの部屋にアンジェリカを連れ帰った。侍医に処方させた薬を飲ませ、一緒に寝台に潜り込む。薬が切れるとすぐに目を覚ましてしまうアンジェリカの傍で、あの頃は、そうして毎晩を過ごしたのだ。
夜だけは、主従の立場ではなく、異母兄と異母妹のまま。
身近にいた誰もにとって、それは暗黙の了解だった。
どれほどの日々をそうしていたのか、サディアスは憶えていない。月日を経て、一人でも浅い眠りに落ちられるようになったアンジェリカは、いつの間にか夜も主従でいるようになっていた。
けれども、サディアスの婿入りが決まってからの数ヶ月、どうも様子が変わり始めた。クロンクビストを発ってからはそれが顕著で、平気な素振りをしていても、青白い顔をしていることが増えたのだ。眠れていないのだと気づくのに、時間は掛からなかった。
ゆらゆらと揺れている火が翳らせた碧眼に、常闇が映る。
忌まわしい記憶の。
「……薬は、飲んだのですけどね」
黙して動かないサディアスに観念したのか、アンジェリカは息を吐き出した。
ふと、徐に手を伸ばして、アンジェリカはサディアスに触れた。ほっそりとした指先は肩や首筋を這い、躊躇いがちに頬へ辿り着く。開かれた手のひらが、弱々しい仕草で強張った頬を撫ぜた。かつての滑らかさを失い、傷だらけのその手に、サディアスはおのれの手を重ねた。
アンジェリカの、少し無骨とも感じられる手に触れるたびに、自嘲したくなる。
今、目の前にいる女が騎士になってしまったのは、他の誰でもなく、自分の所為なのだと。
「そんなふうに嗤わないで……」
微笑もうとして失敗したみたいに、アンジェリカは美しい顔を歪めた。
「わたしのために傷つかないで。お願いだから、そんな悲しい眸をしないで……」
アンジェリカの人差し指がサディアスの目尻をなぞる。泣いているわけでもないのに、まるで涙を拭い去るように。
サディアスは自らの頬に彼女の手を押しつけて、華奢な指を絡め取った。
「ご自分を責めないで下さい、……サディアス様」
宥める声で囁いて、幸せになってほしいの、とアンジェリカは言葉を重ねる。
「あなたが幸せならそれでいい。あなたの幸せがわたしの幸せですもの、わたしは」
「――俺のために生きて、俺のために死ねれば、それで幸せなんだろう?」
聞き飽きたよ、と罅割れそうに痛む胸の奥で、小さく呟く。
サディアスは笑った。
アンジェリカは莫迦だ。ともすれば滑稽で愚かしいその願いを幾度となく口にする。サディアスはアンジェリカが憎らしくてたまらない。憎くて憎くて、悲しくて、だから、いっそこの手で殺してやりたいとさえ、思う。
「おまえは俺のことばかりだ……」
捕らえた手のひらに唇を押しつけ、その内側でささめく。組み敷いたアンジェリカの身体が震えた。視線は合わさったままだった。サディアスはくつりと咽喉を鳴らす。毀れた笑いにアンジェリカが碧眼を細めるのを見て、血管の浮いた手首に唇を寄せ、もう一度手のひらに、それから肉刺の痕だらけの指の付け根に、細い指に、爪にと、キスをする。
肩を押さえていた片手を放して、円い額に散った前髪を梳き。サディアスは、身を屈めた。
微かに皺のたたまれた眉間に、鼻先にも、唇を落として。
アンジェリカと額を合わせる。
「傷つけていい、アンジェリカ」
吐息が混ざるほど間近で、碧の――時折、翡翠にも見える彼女の眸を覗き込んだサディアスは、目蓋を下ろして、請う。
独りで背負うな、あの日の罪と罰はおまえだけのものではないのだ、と。
「甘えろとは言わないから。せめて痛みは分けてくれ」
「……サディアス様」
「おまえに傷つけられるなら、甘んじて受けるよ」
幸せなどいらない。アンジェリカがいればいい。
――忠誠も、本当は欲しくない。けれどそれで、アンジェリカが生きることを選ぶのなら。
見つめて、アンジェリカ、と囁く。静かにサディアスを見返すアンジェリカは何も答えず、ただ、ゆっくりと目を伏せた。淡い金の睫毛に縁取られた碧眼がけぶり、サディアスは片眸の上にキスを落とす。握った手を放すと、代わりにその身体を抱き上げた。
硝子の中で、火が爆ぜる。
重さを失った寝台が錆びた音を立てるのをどこか遠く聞き、ふたりは小部屋を後にした。