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碧の独善  作者: 氷空けい
31/45

31. アンクワイエット


   .

   .

   .



 しばらく国を離れることになった、そう言ったら彼女は目を瞬いて、そうなの、と静かな相槌を打った。


「……どのくらい?」

「さあ。一年か二年か……あまり長くはないと思うんだが」


 凝らされる眸を見返し、小首を傾げて答える。そう、とやはり落ち着いた声で、彼女は頷いた。

 この冬に焚くのは最後だという暖炉の火が、消えないようにと音を立て、爆ぜていた。

 会話を途切れさせ、俯いた彼女を横目に、久方にカーテンの退けられた窓の外を見た。冬の凍てた白さが残る青空が広がっている。ちちち、と啼く鳥の囀りがどこからか聞こえ、ようやく訪れる春を想った。柔らかに滲む光に眸を細める。

 春になったら、気に入りの庭園へテーブルを出して、二人だけの茶会をしようとずっと約束をしていた。毎年の決まり事である。けれども、今年は。旅立つ前にしてやりたかったができそうにない。春の茶会だけではなく、最近は互いに時間を作るのが難しくなり、それまでひっそりと続けていた様々なことができなくなりつつあった。自分が外国へ出てしまえば、今のような、合間を縫った憩いの時間さえもう。きっと、こうして少しずつ、ずれていくのかもしれなかった。

 込み上げる嘆息を咽喉の奥で殺すと、向かいに座っている彼女へ視線を戻した。彼女は目を伏せ、両手でくるんだ茶器の中を見つめている。俯けられた金の睫毛、それが作る陰翳が、果敢なく、されど美しい。

 異母妹いもうとは、本当に綺麗になった。

 帰ってきたときには、日々彼女の許へ来る縁談のうちのどれかがまとまっているかもしれない。王族として生まれ持った義務と責任を擲つことはできないだろうけれど、愛のある、善い結婚をしてほしいと願っている。いつも。いつまでだってそうだろう。卓越しに手を伸ばす。輪郭をなぞり落ちる一房を除けて、指の背で、彼女の頬を撫ぜた。滑らかでさらりとした、少しの傷もない美しい肌だ。大切に、大切にしてきた。何よりも、――誰よりもだ。だから。

 ふと、彼女は顔を上げた。目を合わせ、小さく微笑う。

 ねえ兄様、と頬に触れているこちらの手を捕まえて、華奢な指を絡ませると、彼女は言った。


「昨日庭へ行ったらね、蕾が膨らんでいたの。きっともうすぐ花が咲くわ」


 何の花か、教えられずとも知っている。泣いてばかりの幼い彼女に、自分がいつかあげたものだ。庭師に頼み、時には自ら様子を窺って、一度も枯らすことなく育てていた。そうして一年、また一年と、春を数えるたびに見せに来る。今年も無事にその花が咲くのだと嬉しそうに、彼女は声を弾ませて。

 外でお茶会をするのは無理かもしれないけれど、花は、と告げる。


早咲きの花(フィリカ)は、届けにゆくから」

「……ああ」

「待っててね」


 小指を千切って。

 ぜったいよ、と彼女は。



   .

   .

   .



 ばさ、と音がした。それがカーテンが開けられた音だと気づいたのは、途端に、部屋が光で充ち満ちたからだった。

 カウチに深く腰掛け、両手で顔を覆って項垂れていたサディアスは、白く燃えるような光が目蓋を抜けて眸に射すのを感じ、鬱陶しげに首を擡げた。眩む陽射しに眉を顰める。目が痛む。この部屋が光で照らされるのを久しぶりに見た。恐らくは、あの夜以来のことだった。

 勝手に侵入し、カーテンを開け放ったのは誰かと怪訝な眼差しで見遣れば、バルコニーへと通じる玻璃を背にしている者がある。光に目が慣れていない上、逆光でよく見えないが、人影は男のようだった。瞬き、眸を凝らしていると、くす、と呼気が聞こえ、嫌に爽やかな声が朗々と響いた。


「おはようございます、兄上」


 それからお久しぶりです、と笑い、影は首を傾げたようだった。

 憶えのある声音にサディアスは軽く目を見開き、ややあって苦々しい表情をした。額に皺をたたんだまま、溜息を吐く。

 ウィリアム=メディオフ・オルブライト。窓辺に立ってサディアスを見ているのは、ヴェンネルヴィクにいるはずのないおのれの弟だった。網膜の上で弾けていた光の粒子が消え、馴染んだ視界に、その全貌が映る。そこにいたのはどうしてか黒髪の、もう少し若かった時分のサディアスによく似た青年である。あくまでも風貌だけの話だが。ウィリアムは疾うにおのれにはない清らかさで微笑むと、相変わらずひどい男ですね兄上は、と嘲りを込めて吐き捨てた。


「ウィリアム……」

「何です。本当のことでしょう」


 邪気のない笑みを浮かべた唇で、猛毒を塗り込めた声を吐く。相変わらずなのはウィリアムも同じだ。


「それに貴方はどうせ、これ以上ないくらいに悪辣な言葉で罵倒されたかったに違いないんですから。いいですよいくらでもしてあげますよ。それはもうたくさん用意してきましたからね、僕」


 さあ何から言ってほしいですか、と明るく言う、その口調が既に当てつけだろう。微かに苛立ちの気配が滲んでいる。サディアスはウィリアムを気怠く睨めつけ、どうして来た、と低く訊ねた。ウィリアムは咽喉を鳴らして笑う。


「クラリッサ様がお呼び下さったんですよ。――ね?」


 ウィリアムの視線がサディアスを通り越す。それを追って振り返ると、部屋の入口に青白い顔をした少女が立っていた。姫、と洩らしそうになった声をサディアスは呑み込む。顔色は悪いが、けれども彼女はひどく静かな眼差しをして、ただ凝然とサディアスを見ていた。その背後には渋い顔をした若い文官、否、姫の従兄であるカイルが控えている。姫とは反対に、カイルの眸にはありありと非難の色がある。

 サディアスは目を逸らすと、背を凭れてカウチに沈み込んだ。

 ふと、嗤いが零れる。

 足許にはいつ飲んだのかもわからない酒瓶やグラスがいくつも転がり、その殆どは乾いて垢を残している。割れているものもあった。踏み砕き、散らばった硝子が、射し込む陽射しでやけにきれいに光っている。それだけではない。衣服、本や書類、筆記具、何もかもが片づけられることなく適当に放り投げられた部屋は、汚いどころか醜くすらあり、惨憺たる有様だった。

 ――サディアス様。

 伏せて翳る視界に、読み耽った本や書類をあちこちに散らかすサディアスに対して、困ったように微笑う騎士の残影が過ぎった。膝をつき、床に落とした紙を拾う彼女の横顔。肩上で短く切り揃えられた金髪が揺れ、長い睫毛の影が頬に触れている。酒、と言うと、だめですよ、と呆れたふうで笑い、窘める。だめですよ、サディアス様。今、紅茶をお淹れしますから。耳朶に馴染んだ声は消えない。目の端で何度も窺った、あの、ひどく張り詰めた静謐も。

 そんなふうに、主従の日々を繰り返した。

 滑稽だと知りながら。

 彼女が望む振る舞いをする。二度と過たないように、平静を装って恐々と。時折嗤い出す、通り魔のような狂気には気づかないふりをした。甘やかさず突き放して、錆びた言葉をぶつけ、頬を打ち、細い咽喉を絞める。本当はいつも、いつだって、緩く微笑うあの眸に手を翳してしまいたかった。祈りさえ叫びたい衝動を堪え、そうして日々を繰り返す。――繰り返して、繰り返してきたはずだったのに。


(アンジェリカ)


 どうすればよかったのかと今もなお嘆く、おのれの愚かさに嫌気が差す。いつまでも続かないことはわかっていた。永遠なんてものはないのだとずっと知っていた。殺して差し上げればよろしいのです、レックスが言ったそれだけが真実なのかもしれなかった。サディアスは、病んだ網膜を覆う。目蓋の裡にはあの日の闇が凝り、冷たく、暗く澱んでいた。その最中で、莫迦な奴だ、と嘲笑う声が渦を巻いている。兄上、と詰るウィリアムのそれが被さって響く。


「本当に貴方は救いがたい愚か者です」


 言葉に次いでウィリアムの口から洩れたのは、嗤笑の吐息だったろうか。


「しかし本当に汚い部屋ですね。最後に人を入れたのはいつです。掃除をさせていないのは一目瞭然ですが、もしかしてカーテンを開けて光を浴びたのも久しぶりなんじゃないですか。公務だけはしっかりやっているあたりさすがだと思いましたが、義務と責任ばかりに立派すぎて、そういうところが最低ですよね、兄上は。尊敬します」


 大体、と彼はさらに嫌味を言い連ねる。


「何ですかこの酒瓶の量。凄い残骸。いつ見ても貴方の酒豪ぶりには感心しますよ、また浴びるように飲んだんでしょうねえ。ところでお聞きしたいんですが、酔えました? ――酔えないですよね、呆れるくらい強いですもんね。ああそういえば、女の気配がないじゃないですか。今回は連れ込まなかったんですか。僕はてっきり、またいつかのように手当たり次第に女を抱いて遊んでいるものだと思っていましたが」


 裏切られた子どもみたいな当てつけで、と。

 尖った声で謗り、それから唐突に、ウィリアムは叫んだ。


「本当に――莫迦ですか、貴方は!」


 さらには足を踏み鳴らす音がして、サディアスは目を開けた。背を浮かせて弟を見遣る。ウィリアムは拳を握り、肩を震わせ、身体中に憤怒を滾らせていた。


「拗ねるのもいい加減にして下さい! そうしてご自分を卑しめたって何にもならないじゃないですか!」


 サディアスは茫然とウィリアムを見返す。末弟ゆえか賢しく、感情表現さえ計算尽くの振る舞いをするウィリアムが、それこそ子どものように感情を剥き出しにしている。それどころか、どうかすると今にも泣き出してしまいそうだった。怒りを燃やしながら揺れる碧眼を、サディアスは呆気に取られて凝視する。


「どうしてアンジェリカが一番嫌がることをするんです。貴方が、貴方を蔑ろにするから、アンジェリカは傷ついて泣くんじゃないですか!」




「……幸せに、と」


 はらり、花が散るような果敢なさで。

 サディアスは呟いた。


「幸せにと、何度も言うから」


 憎いんだよ、と声を落とす。自分でもひどく拙く弱々しいと感じる声音だった。

 サディアスの口から零れた言葉に、眦を吊り上げて怒っていたウィリアムが目を瞬く。サディアスは弟を見つめたまま、眉を顰め、表情を歪めた。嗤えもせず、泣けもせず、ただ、癒えることのない悲しみと痛みだけが募っている。


「俺は、俺を許せない。それなのにアンジェリカは」


(幸せに)

(幸せになって)


 優しく、甘く囁く声がする。最後に触れられた場所が鈍く痺れている。ね、兄様、と頬を撫ぜたときの微笑い顔、目蓋の上へ落とされた口づけを思い出す。

 別れた日の記憶が甦り、違う、とサディアスは胸中で言い返した。俺は。俺はおまえに幸せになってほしかったんだよ、アンジェリカ。いつもそう願っていた。愛しさを紐解けばきりがない。目尻に触れた慰めの小さな手。名前を呼んだら、涙でぐしゃぐしゃにしながらあどけなく微笑った顔。腕いっぱいに摘みたての花を抱えて走ってくる姿。或いは、難しそうに眉を寄せて勉強する横顔や、苦手なワルツを共に踊るときのたどたどしい眼差しだとか。何もかもを大切にしてきた。にいさま、と呼ぶ声が聞こえる。アンジェリカ、と呼び掛けると笑う。アンジェリカ。アンジェリカ。幸せに。幸せになれ。誰よりもそう願っていたのに。

 ――どうして犠牲になろうとする。

 それが悲しく、悔しくて、サディアスはアンジェリカが憎くて堪らない。


「アンジェリカだって莫迦な女だろう。そう思わないか、ウィル」


 サディアスは吐き捨てる。

 その言葉を聞いてまた一段と険のある雰囲気になったウィリアムに、莫迦だよ、とそれでもサディアスは繰り返した。そうして首を廻らせ、扉口に立つヴェンネルヴィクの姫君と文官を見、貴女たちも聞いたんだろう、と確信を持って訊ねた。


「俺とアンジェリカの間に何があったのか」


 姫の瞳に微かに影が差すのを見て取る。サディアスはおのれの両方の手のひらを見下ろした。


「……違うんだ」


 喘ぎに似た、毀れた声で言った。

 何がです、とウィリアムが低く呻く。サディアスは目を伏せ、俺の所為なんだよ、とひそやかに口角を歪めた。――あの夜。自らの手で引き起こした惨劇。城へ帰還して聞いた、自分が不在の間一年半に渡る、父と異母妹の関係。虐げられたアンジェリカが決して、誰にも救いを請わなかったその理由。彼女は何も語らず、故に誰もが知らずに誤解している、恐らくサディアスしか気づいていない、本当の。

 恋を悼む父が不憫だったからだとか、王が国を成すからだとか、そんなふうに綺麗でも、高潔でも、真っ当でもない。くだらない理由だ。くだらないと、サディアスは思っている。


(兄様ったら、毎日お勉強とお仕事ばっかりね)

(早く父上に追いつきたいからな。できるだけ補佐もして差し上げたいし)

(兄様は本当に父様がお好きね?)


 ――尊敬しているんだよ、とサディアスが苦笑して答えたことを。

 アンジェリカは憶えていたのだ。

 莫迦だと思う。父に失望するくらい、何でもないことだったのに。何気ない会話まで大事にして。


「……兄上?」


 沈黙したサディアスに、ウィリアムが怪訝そうに声を掛ける。サディアスは胸の奥底で澱んでいる溜息を少し吐いて、もういいんだ、と項垂れた。足許で砕けた硝子、その破片が、きら、きらりと、光を浴びて痛ましげに銀を零すのを見つめる。


「やめようとアンジェリカが言ったんだ。だから、もういい」

「何を……」

「俺ももう、どうしてやればいいのかわからないから」


 彼女の白い咽喉の奥で凝ったままの悲鳴を知っている。網膜に灼けついた狂気も。皮膚にこびりついた感触や耳朶に絡む呼び声、頬を濡らした血の痕。あの細い指先は片恋の花(ルツィエ)を手折れない。嘘を吐き、張りついた微笑みで欺く彼女は、今もなお『鳥籠』に満ちた常闇に囚われているのだ。サディアスがどんなに抱きしめても、名前を呼んでも、他愛ない日々を繰り返しても、孤独は癒えず、何一つ忘れ去ることができないまま。

 アンジェリカは、愚かな罪ばかりを重ねていく。独りきりで。

 どうすればいいというのだろう。


「兄上! いい加減にして下さ――」




 ぱん、と。

 乾いた音がした。

 音源は間近だった。耳のすぐ横。頬を叩かれたのだと気づいたのは、いつの間にか眼前にいる少女が手を振り抜いた格好で、目に一杯の涙を浮かべているのを認めてからだった。華奢な肩が震えている。サディアスは瞠目したまま、姫を見返す。

 彼女は、窓から射す白い光を背負っていた。簡素に引っ詰めた亜麻色の髪が、光に輪郭を溶かして滲み、ひどく清らかに輝いている。


「……臆病者!」


 今まで聞いたこともない強い声で叫び、唇を噛みしめた姫はサディアスの前から踵を返した。ドレスを翻して部屋を出て行く。クラリッサ、と上擦った声で呼ばわり、カイルがその後を追っていく。サディアスは微動だにできなかった。息を吐くことさえ。非力な手で叩かれたので痛みは殆どなかったが、しかしそれでも頬はじんわりと痺れを帯びる。――熱い。

 それをサディアスが自覚したのとほぼ同時。静まり返った室内に、軽やかな笑い声が響く。

 ウィリアムが腹を抱えんばかりに笑っていた。


「やだなあ、姫、格好良すぎ。痛快。ミラに聞いていたより全然いい。好きだな、僕」


 くく、と咽喉を鳴らして独りごちたウィリアムは、目尻の涙を拭いながらサディアスを見る。


「――やられましたねえ、兄上?」


 皮肉る調子ではなく心底愉快そうに言われ、サディアスは眉を顰める。だが、可笑しいのは確かだった。

 臆病者か、と失笑する。


「……ああ」

「まさかクラリッサ様に叩かれるとは思っていなかったでしょう。ご気分は? 目は醒めましたか」


 笑い含みに訊ねてきたウィリアムは、眸を細める。先程までは窺えなかった親しさが、その眼差しの裡にある。抱いていた強い苛立ちが少し解けたのかもしれない。そしてそれはサディアスも同じだった。サディアスは微苦笑をはく。悪くない、と静かに答えた。



 本音は、姫の言った通りなのだった。臆病なだけだ。繋いだ手を離すことが恐ろしい。指を絡め、懇願の口づけをして、約束を交わすのに、握りしめていたはずのアンジェリカの手は、いつもこの手からすり抜けていく。もう何度もその繰り返しだった。失うことを憶えてしまった。それが苦痛で、嫌に恐ろしく、だからサディアスは諦めたふりをした。もういい、もういいのだ、と。それがアンジェリカの望みならば、と。

 莫迦ですね、とウィリアムは溜息を吐いた。


「兄上とアンジェリカが、今更、別れて生きてゆくなんてできるわけがないのに」


 僕は知っていますよ、ずっとふたりが羨ましかったから、ささめいて果敢なく微笑い、弟は碧眼を伏せた。見慣れない黒髪の下で、金の睫毛がかそけくけぶる。兄上、と躊躇いがちに唇が動く。ひどく乾いた声が零れた。罅割れた祈りのような響きだった。


「それでも。それでも、アンジェリカの傍にいてあげて下さい」


 お願いです、とウィリアムは請う。


「アンジェリカには兄上しかいないんです。兄上だってわかっているでしょう」

「……ウィル」

「ミラも、ニーナもノーマも、僕もみな、彼女が大切です。愛しています。だけれどそれは兄上の不在を埋めるものには決してならない。決して。僕らは一度、彼女を見捨てた。それが彼女の選択ならばと、父の罪を見ないふりをした。真実罪深く、許されざるべきは誰かというなら、兄上、それは僕らに他ならないんです。だから僕らではだめなんだ……」


 そんなことはないとサディアスが口にしかけた言葉に対し、ウィリアムは首を振るう。


「誰も、誰かの代わりにはなれない」


 アンジェリカが、父の愛したリーラではないように。

 血の繋がった兄弟としていくら似ていても、ウィリアムがサディアスではないように。

 サディアスはもう一度、おのれの手のひらを見下ろした。父の首を斬り落とした、罪に塗れた手だ。血で汚れている。けれどそれでもこの手で何度もあの白い頬を撫ぜ、そのたびに彼女が安堵の息を洩らすのを聞いた。手の中で、かなしそうに眸を細めるのを見た。肌や輪郭の感触が甦れば、否応なしに、抱きしめてやりたいと思う。同じ鼓動、癒着した心臓が、共に潰れてしまうくらいの強さで。アンジェリカ。

 ふと、これが最後の機会だろうという気がした。そんな胸中を見破ったように、ウィリアムは言う。


「今を逃したら、兄上は永遠にアンジェリカを失うかもしれません」


 サディアスはウィリアムを見返した。ウィリアムは表情を消している。


「既に貴方を呼ぶ声はない。彼女は誰も呼ばず、悲鳴すら、もう」

「……ウィル?」

「心を損なってしまったんです、アンジェリカは。あの男が――フェビアンが父上を真似るから!」


 堪えられないとばかりにウィリアムは声を荒げ、顔を覆う。サディアスは腰を浮かせた。眸に映る青空が濃い。迫るようだった。影を灼く陽射しは強さを増して、暴力的ですらあった。滑空する鳥たちが墜落する。そんな印象を受ける。

 床を踏みしめたら、足許で、ぱき、と硝子が砕ける音がした。


「ウィル。ウィリアム……おまえ、何の話をしている」


 ウィリアムは視線を上げてサディアスを見遣り、恐々とわらった。


「声をね、失ったんです」

「……なに」

「心因的な失声だそうですが。話せないんです、アンジェリカ。現在と過去の混濁もひどい。一日を憶えていないことも多くて……気が狂れるとか、そんな感じですらないんですよ。まるでもう、生きてゆく気がないみたいな」


 骸の中で響いているようだった。ウィリアムの縋る声は、ひどく虚ろに聞こえている。だから兄上。お願いですから。


「アンジェリカの傍に、いてあげて下さい……」



   .

   .

   .



 回廊の終わりで、踏み潰され、散り散りになった花びらを見つけた。春を告げる淡い黄色。風に吹かれて果敢なく千切れゆき、或いは白い回廊で痕になっているそれは、昨日、否、もっと以前から、異母妹が咲いたら届けると言っていた花だった。

 微かに嫌な予感がした。何かあったのだろうかと、足早に異母妹の部屋へ行くと、主室のソファに腰掛けた彼女はネグリジェ姿のままで、ぼんやりと俯いていた。傍らには侍女の片方がいて、彼女の手を握っている。アンジェリカ、と声を掛けると、弾かれたように顔を上げた。にいさま、と舌足らずの呼び声が返る。

 歩み寄り、目の前で膝をつく。ひどく憔悴している彼女の、細い肩を滑り落ちている金髪を掻き上げてやるときに、涙の痕に気づいた。見つめた碧眼、その目尻も赤い。どうした、と問い掛けると、けれど彼女は静かに苦笑した。とうさまを。父様を、怒らせてしまっただけなの。


「……叱られたのか?」

「少し。でも、何でもないの。心配しないで」


 微かに笑い、頬へ指を伸ばしてくる。ふと彼女は眉を顰め、ごめんなさい、と眸を伏せた。


「花、届けられなくて」


 いいよ、気にしなくていい、そう言っても、何故か彼女は何度も謝った。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。震えている指先を掴んで、口づけると、泣きそうな表情で微笑う。にいさま。にいさま。つたなく、幼い頃のように呼ばう。不意に、こちらの首へ腕を伸ばして抱きつくと、鼻先を埋めてきた。柔らかい髪が肌を擽る。アンジェリカ、と背を撫ぜると、さみしい、と囁く声が聞こえた。さみしい、寂しい、兄様、いなくならないで。外国へ行くことを告げてから一度も、彼女はそんなふうには言わなかった。やけに甘えたがるところが昔の異母妹のようだった。慰めに髪を梳くと、回された腕に力が籠もる。兄様。兄様。ねえ。


「早く帰ってきてね……」


 ああ、と頷く。

 ――頷いたはずだった。



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