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碧の独善  作者: 氷空けい
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03. 初恋


 この身に降り懸かった突然の結婚は、まるで天啓の訪れに似ていた。それは初めての恋だった。

 物心がついたときには、政略結婚こそ王室に生まれついた者の義務だと理解していた。自分自身の意思は関係なく、好意の有無も問題ではない。結婚はただの通過儀礼に過ぎず、適齢になれば、父王の命じるままに他国から婿を迎える。ヴェンネルヴィク王室の正統を継げる子が唯一自分だけであるがゆえの、それは盲目的な未来だった。

 事実、縁談とそれに続く成婚は事務的としか言いようがなかった。

 だから諦めていたのだ。きっと、お伽話のような恋をすることはないのだろうと。

 ――けれど。

 クラリッサは恋をした。

 白いヴェール越しに見つめた、その、とても美しい男の人に。


 王室の花であるアンフィーサが透かし模様として織られたヴェールは、とても丁寧なものだった。クラリッサが身に纏ったドレスとともに、神の祝福を受けるにふさわしい仕立てである。しかしその人は、繊細な意匠の装飾など一つも必要ではないように見えた。神が手掛けた美貌。溜息を洩らす一瞬さえもが惜しいくらいに、クラリッサは、目を奪われてしまった。

 太陽の光をそのまま溶かし込んだような金髪。目鼻立ちは寸分の狂いもなく左右の均衡が取れていて、とても端正だった。磨かれた大理石の肌、すらりとした輪郭線は、それこそ精巧に創られた彫刻のよう。そして何よりも、彼の瞳が本当に美しかった。

 絵本や絵画でしか見たことのない、『海』の色。

 光を受けてきらめくきれいな碧――

 その深みに、クラリッサはうっとりとした。隙なく整った顔立ちはともすれば冷たくもあったけれど、窓から射し込む白い光に触れると碧眼がふっと和らぎ、そのかそけき美妙に、この人は神に愛されたのだと思わずにはいられなかった。クラリッサは自分の中に静かな喜びが湧き上がってくるのを感じた。こそばゆい誇らしさもあった。

 初恋は、ほとんど一目惚れだった。

 出逢ったその日に伴侶となった大国クロンクビストの第二王子、サディアス=メディオフ・オルブライトに、クラリッサは恋をしたのだ。

 厳かな空気が充ち満ちた聖堂で永遠の誓いを口にしながら、クラリッサは幸福について考えた。この人と結ばれることがもしも運命であったのなら。そっとヴェールを上げられて、生まれて初めて触れた他人の唇は、とても柔らかで優しかった。涙が零れてしまいそうだった。

 キスの後、一瞬交わした視線が忘れられない。

 婚礼を済ませて、自室で侍女たちに初夜の準備をされながら、クラリッサは左手の薬指に光る銀の指輪を見下ろした。どんな装飾品よりも慎ましいそれは、けれどもこれ以上身を飾るのに美しいものはないと思えるほどだった。じっと見つめ、天に翳して、それからクラリッサは口許に指輪を引き寄せる。嬉しくて、愛おしかった。

 まあ、姫様ったら、と後ろで髪を結っていた侍女が楽しそうに言った。鏡越しに彼女を見返したクラリッサははにかみ、微笑む。

 これからの日々はわからないことだらけだ。緊張もしているし、微かな恐れもある。

 それでも、彼と一緒に歩いていけるのなら。


(きっと大丈夫……)



「……え?」


 クラリッサの口から、自然と頼りない声が洩れた。

 何を言われたのか理解が追いつかずに茫然としていると、サディアスは、抑揚のない口調でもう一度言った。


「俺は貴女を愛せない」


 それは果たして、『愛することができない』なのか、それとも『愛するつもりがない』ということなのか。

 クラリッサは寝台の端に浅く腰を下ろしていた。サディアスは主室と繋がる扉のところに立ち、入口から一歩も足を踏み入れようとしない。カーテンの合わせ目から細い月影が寝室へと伸びている。その白々とした光を境に、二人は互いの顔を注視した。

 心臓が嫌な脈打ち方をしている。何を、と言い掛けた唇はうまく動かせず、干涸らびきった呼吸音だけを吐いた。戦慄くこともできないまま、凝然と、クラリッサは自らの夫となったはずの男を見た。

 サディアスは、煌々と照る洋燈の灯りを背後にしており、クラリッサの位置からその表情は窺いづらかった。サディアスの側からはどうなのだろう。今、自分はどんな表情をしているのか、どんなふうに見えているのか。クラリッサは、膝の上に置いた両手で、今夜のために誂えた淡い蜂蜜色のネグリジェを固く握りしめる。

 鼻の奥がつんとした。涙が込み上げてきそうになるのを、眉を顰めて堪える。


「わ……」


 痺れているかのようにもどかしい咽喉をどうにか動かして、クラリッサは声を絞り出す。


「わたくし、サディアス様に何か、失礼を……」


 みっともないほど、それはか細かった。

 サディアスは何も言わない。

 十六歳の誕生日にもたらされた、全く予期しない縁談だった。西側諸国で最も力ある大国クロンクビストの第二王子を次期王婿(おうせい)候補として迎えてはくれないかという、クロンクビスト王直々の申し入れであったと父王からは聞いている。浮き立つ者たちもいる中で、父王は、クロンクビスト王の丁寧な説明と側近との冷静な協議の末、決めたのだと言っていた。

 政略結婚であることを父王は否定しなかった。けれど、父は、幸せになりなさいと祝福してくれた。愛は育ててゆくものだからと。

 お父様、とクラリッサは泣いて縋りたい気持ちになった。ネグリジェにはひどく皺が寄っている。


「……いや」


 不意に、サディアスが呟く。


「貴女は善き姫君だと思う」


 項垂れていたクラリッサは、弾かれたように顔を上げた。だから、と彼は静かに続ける。


「俺などにはもったいないよ、ヴェンネルヴィクの姫君」


 一瞬、仄かに宿った希望はすぐに萎んでしまった。

 ――『ヴェンネルヴィクの姫君』。

 ひゅ、と心を切り裂く音が聞こえた気がした。クラリッサは凍りつく。全身から血の気が引いてゆくのがわかった。その後に、白くなるほど握りしめた両手がぶるぶると震えだしたので、奥歯を噛みしめてどうにかそれを押し止めようとした。

 身体中のあちらこちらが冷たくなっているのに、目頭だけがひりつくくらいに熱い。


(泣いてしまう)


 それは嫌だと強く思った。哀れな姫だと思われたくない。


「く」


 矜恃が頽れないように、突きつけられた惨めさの中で、クラリッサは必死に言葉を探す。


「クラリッサとは、お呼び下さらないのですか……」


 政略結婚に愛はない。わかっている。わかっていたつもりだった。

 けれど、恋をしてしまった。

 光のあふれる聖堂で、初めてまみえたその瞬間に、この人が好きだと想ってしまった。


「わたくし、あ、あなたと、永遠の誓いを交わしました……あなたの、あなたの妻になるのに、どうして」


 父の祝福が嬉しかった。そっと触れたキスは淡く、涙が零れそうになった。誓いを承認する拍手、空を舞う花びら、遠く高鳴る鐘の音。侍女たちは微笑い、鏡越しに合わせた視線には喜びが満ちていた。今日一日でどれほどの幸せを感じたのだろう。

 それらが全て、夢のように消えてゆく。

 左の薬指に嵌めた銀の指輪が重く、指を千切ってしまいそう。悲しみを押し隠すことができない。


「サディアス様……っ」


 何か言って、請うように吐き出したそのとき、クラリッサの瞳から堪えきれなかった涙が一粒零れた。



「……独りにさせられない子どもがいるんだ」


 花びらを撫ぜる吐息のような声が聞こえた。

 月光の細かな粒子がきらめいている、その一筋の向こうから、サディアスはクラリッサを見つめている。

 ヴェール越しに見たあの美しい碧眼にうっすらと光が映っていて、クラリッサは息を詰めた。清冽で、きれいだった。とても。けれど、どこか脆いようにも見えた。月が水面に落ちるよう、ゆらゆらと揺れている。クラリッサの目が濡れているためなのだろうか。

 彼の後ろにある炯々とした洋燈の火が、金髪を朱く燃やしている。

 独りにはできない、とサディアスは繰り返した。


「放っておけない。あれにはもう、他の誰もいないから」

「サディアス様……?」


 クラリッサが声を掛けると、暗がりの中で彼は、小さく微笑した。


「貴女はきっと、狂おしいほどの孤独を抱きしめたことはないんだろう、ヴェンネルヴィクの姫君」


 細められた碧眼の奥にほんの少しだけ、クラリッサは初めて、サディアスの感情を見つけた気がした。

 手を伸ばして、慰めたくなるような――


「……俺が愛さなくても、貴女は幸せになれる」


 ぽろぽろと零れだした涙が、色をなくした手の甲で、次々に弾けてゆく。

 クラリッサは両手で顔を覆い、嗚咽を堪えて泣いた。



 幸せ、という言葉がこんなにも果敢ないものだと知らなかった。

 クラリッサが泣き出しても、サディアスは決して寝室に立ち入ろうとはしなかった。ただ、部屋の扉から去ることもしない。サディアスは黙ってクラリッサを見つめていた。優しい慰めの言葉も口にせず、冷たい拒否の態度も取らなかった。

 もっとひどく突き放してくれたなら。クラリッサは思う。諦められたかもしれない、嫌いになれたかもしれない、憎めたかもしれない。

 でももう、それらは全て無理だった。

 サディアスの眸が網膜に灼けてしまったみたいだ。きれいな碧眼。その中には、角度によってでしか見ることの叶わない繊細な光がある。それは凪いだ『海』の深みに溺れている。その光に手を伸ばしたいと、クラリッサは願わずにはいられなかった。

 誰かを愛して、慈しんで、恋しがっている。

 サディアスのあの眸が好きだ。


(……わたくしにも)


 指の隙間から、あふれた雫が落ちてゆく。掬いきれない幸せのようだった。




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