02. 忠誠という名の
純白のヴェールが上げられた。彼の顔が近づく。薄紅の小さな唇に、彼の唇が触れる。神の御許で、厳かな静謐に守られた口づけだった。死が二人を別つまで、いかなるときでもともに在るという、彼らの誓約の証である。
アンジェリカは息をひそめ、他の列席者と同様にその光景を見つめていた。
彼らの口づけは一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。古い聖堂に設えられた高窓の磨り硝子から、明るい光が降り注いでいる。その下で、彼と花嫁の少女は見つめ合う。目が眩むほど、美しい、神聖さだった。
祭壇に立つ司祭が聖書を手に再び語り始めるのを、アンジェリカはそぞろに聞いた。
──二人のキスを目にしても、特別な感慨は何も浮かびはしなかった。現実はひどく静かにアンジェリカに馴染む。予期していた『今』に絶望するほどアンジェリカは幼くなかったし、また、彼との関係を考えれば、それは夢にすらならないものだとわかっていた。だから、涙は零れない。込み上げてくる悲しみもない。
彼は──サディアス=メディオフ・オルブライトは、アンジェリカのあるじだ。剣によって叙任され、おのれが忠誠を誓ったただひとりのあるじ。この命が果てるそのときまで、傍らに仕えることを許された相手。
肩を並べて寄り添い立つサディアスと花嫁を見つめ、その真白い影を網膜に灼きつけて、アンジェリカは目蓋を下ろした。充たされている、と思う。自分は、彼の傍にいられる。たとえ隣には並べなくとも、死ぬまで彼の傍にいられる。それだけでいい。──それだけで、いい。
祝福の鐘声が、天高く鳴り響いた。
サディアス=メディオフ・オルブライト。イェイエル河に分断された大陸の西側、大国クロンクビストの第二王子。
サディアスは見目麗しい男だ。太陽のように光輝く金髪、それと同じ色の睫毛に縁取られた深みのある碧眼。すっと通った鼻梁に、柳眉、傷一つなく美しい陶器の肌。全てが絶妙に調和して造り上げられた怜悧な美貌に、溜息を吐かない女はいないだろう。
ただ、彼の唇はいつも頑なに結ばれていて、それは今度の婚礼においてですら相変わらずであった。
サディアスは、あまり笑わない。
半年前、彼の兄であるクロンクビスト王フェビアンが卒爾としてこの縁談を誂え、王命により婿入りが決められたときも。小国ヴェンネルヴィクの唯一の姫君であり、生涯の伴侶となる少女と初めて顔を合わせたときも。そうして、この善き日に成婚したそのときでさえも。サディアスが相好を崩すことはなく、しんと静かなままだった。
彼のそんな様子を、ヴェンネルヴィクの姫君はどう感じたのだろう。
身を清め、夜着へと着替えて、粗野にガウンを羽織って居間へと現れたあるじを見つめて、アンジェリカは独りごちた。
壁際に控えるアンジェリカの視線を無視して、サディアスは至極億劫そうな体でその前を通り過ぎると、カウチにどさりと身を沈めた。心底面倒臭いと言わんばかりの溜息を吐き、酒、と言い捨てる。
返事の代わりに、アンジェリカは呆れた目を向けた。
「……サディアス様、初夜ですよ」
「だから何だ」
「酔った状態でご夫婦の寝室へ向かわれると?」
酒にはほとんど呑まれないあるじではあるが。アンジェリカが釘を刺すと、サディアスはカウチの背越しにつまらなさそうに視線を遣る。
「悪いか」
「最悪ですね」
素っ気なく一蹴するアンジェリカに対し、サディアスは冷たく唇を歪める。
「愛していない女を抱くのに、俺が気を遣わねばならない理由が?」
その言い草ではまるで子どもの駄々だろう。アンジェリカは嘆息した。
「クロンクビストの王族が、それもいい歳をした大人が何を言うのです。クラリッサ様は御年十六でいらっしゃいますよ。ただでさえ突然の結婚ですのに、怖がらせるおつもりですか」
「俺に小言か、アンジェリカ。俺はあの姫君を愛するつもりなどない。むしろ、怖がって近づかなくなってくれた方がいい」
そうだろう、とサディアスはわざとらしく小首を傾げてみせた。アンジェリカはゆるりと微笑い、お戯れを、と返す。
「愛など、月日を重ねるごとに自然と育ってゆくものでしょう、サディアス様」
空々しい言葉だ、と思わなくもなかった。
だが、自分でも不思議に感じるほど、それは落ち着いた声音でもあった。
そんなアンジェリカに対し、しかし途端に、サディアスは忌まわしいものを見る目つきをした。秀麗な額に皺をたたみ、おまえがそれを言うのかと、低い呟きを洩らす。
アンジェリカは笑みを深めた。
「日々をともに過ごしてゆけば、愛情は湧きましょう。今にクラリッサ様を慈しみたくなりますよ、きっと」
きっと、サディアス様、と。
まるで祈りの響きを真似て、アンジェリカは言う。
──サディアスは、認めないだろう。ヴェンネルヴィクの姫君を愛する未来など。
けれど、彼と、彼の伴侶となった少女が穏やかに愛を育むそんな日々を、アンジェリカは簡単に思い浮かべることができた。暖かな陽射しの中で寄り添い、笑い合う二人と、そんな彼らを傍らで見守るおのれを想像する。それは、幸福な未来であるように思えた。
充たされている、とアンジェリカは心の中で囁く。あるじが、愛を与え、与えられて生涯の幸せを得る。さらに自分はそれを傍らで見守ることができる。──充たされている。
それだけでいい。
それ以外の何も、考えたくはない。
「──王太后と同じようなことを言う」
静かな怒りを滲ませ、しかしそれ以上は口にせず一度言葉を切ると、サディアスはカウチから立ち上がった。アンジェリカへと向き直り、彼女を睨み据える。
その眼差しは、凍みるような冷たさを孕んでいた。
「俺が何故、兄上の思いつきとしか考えられないこの縁談を断らなかったのか、まさか、おまえにはわからないとでも?」
立ち上ったあるじの勘気に、アンジェリカは笑みを消した。
「……だとしたら、何だと言うのです」
視線を搗ち合わせたアンジェリカが抑揚なく言い返すと、サディアスはくつりと咽喉を鳴らした。カウチを離れてアンジェリカへと近づいてくる。
「ああ、おまえは賢い女だ。──わかっているくせにその素振りか」
あるじが気怠げに引っ掛けたガウンの裾が揺れるのを、アンジェリカは目の端で捉えていた。──姿勢を正す。右手をおのれの腰元へと忍ばせて。
「仰っている意図を図りかねます」
サディアスはそれを鼻先で笑い、アンジェリカの目前で足を止めた。そうしてふと、彼は視線を落とした──かという、瞬間。
アンジェリカは、思いきり襟を掴まれて顔を引き寄せられた。
眸がぶつかる。微かに互いの鼻梁が触れている。息が重なり、唇までも──というその寸前で、ふたりの間に閃いた白銀の刃が、それを阻んでいた。
「……俺に剣を向けるか」
皮肉そうに口の端を上げたサディアスに、腰元の鞘から剣を抜いたアンジェリカは眉を寄せた。違います、と喘ぐように言う。
「あなたに切っ先を向けることなど、絶対にありません。わたしの剣は、あなたの名誉を守るためです、サディアス様」
刃が僅かに触れているのは、アンジェリカの首である。研磨されたこの剣は、サディアスの傍らで生きるためにアンジェリカが選んだものだ。
「わたしは、あなたの騎士です。それ以外の何者でもない。わたしはあなたのもの、あなたのためだけに生きている。わたしが、あなたに誓ったものは忠誠で、あなたがわたしに許したのも忠誠だけ。……もし、あなたがその誓いと許しを破るというのなら、わたしは」
互いの額が当たるほどの至近距離で、アンジェリカはサディアスの眸を覗き込んだ。深い色をした彼の碧眼には、アンジェリカの姿が映っている。
肩上で切り揃えられ、揺れて光を放っているのは、金の髪。
その下で男を眺め入るのは──碧の、双眸。
「わたしは、潔く死にましょう」
激情をひそませるサディアスの瞳、そこに映るおのれの色彩から、アンジェリカは決して目を背けようとはしなかった。──甘い夢なら見ない。逃げ場など、どこにもない。
サディアスは。
血の繋がった、異母兄なのだから。
「サディアス様」
アンジェリカは、微笑んだ。
──罪深い恋をしている。
「……おまえを兄上から引き離すには、俺がクロンクビストを離れるしかなかった」
しばしの沈黙の後、ぽつりと、サディアスが囁いた。呼吸の震えさえ聞こえそうなほどの、唇が重なる間際の距離で。
「俺を、ヴェンネルヴィクなどという力を持ちようのない小国へ追いやって、あの人はおまえを手許へ置こうとしていた。そんなことを受け容れられるはずがないだろう? たとえ国を離れようと、誰かと婚姻を結ぼうと、俺がおまえを手放したりするものか」
苦しげに眉を顰めたサディアスは、凝った息とともに吐き捨てる。
「ああ、そうだ。おまえは俺のもの。俺のために生きて、俺のために死ぬんだ、アンジェリカ」
はい、と。
柔らかな声で、迷いなく騎士は答える。
「あなたのために生きて、あなたのために死ねるなら、とても幸せだわ……」
それだけでいい。
他には何もいらない。
アンジェリカはきれいな笑みをはく。サディアスはそんな彼女を見下ろして、ややあって視線を逸らし、俯いた。それから不意に、彼は、握ったままだったアンジェリカの襟をより強く引き寄せた。刃が首を裂くことも恐れない、躊躇いのない動きだった。
アンジェリカが驚きに睫毛をはためかせる一瞬もなく。
サディアスの唇が、彼女の目蓋に触れる。
アンジェリカは、自らに覆い被さるサディアスを仰いだ。サディアスはアンジェリカの眸を見つめ返すと、ほんの小さく、落とすように笑った。
俺は、と言いさし、襟を握りしめていた手を解く。
「……俺は時々、おまえを殺してやりたくなるよ、アンジェリカ」
その後、改めて身支度を調えたサディアスは、宛がわれた自室を出て、新しい夫婦の寝室へと去って行った。アンジェリカはそのまま一人で居室に残されたが、悲しくはなかった。サディアスが姫君と結ばれ、幸福へ向かう、善き日だ。これでいいのだと独りごちる。あのひとが幸せになるならそれでいい。
一方で、主従として、アンジェリカはこれからもサディアスの傍にいられる。死ぬまであのひとの傍らに在ることが許されているのだから。
涙は零れない。込み上げてくる悲しみもない。
そう思いながら、アンジェリカはあるじのいなくなったがらんどうな部屋を眺めた。立ち尽くしたまま動けないのは、きっと、居慣れない場所のせいだろう。
ふと、アンジェリカは、サディアスがキスをした目蓋に触れた。ぬくもりの気配を指先でなぞり、そうして静かに、眸を伏せた。