19. だから神様の愛ではなく
悲鳴を上げることさえ、苦痛だった。
息ができない。身体を押さえつけられ、望みもしない熱が穿つ。意識を飛ばして逃避してしまいたいのに、手ひどく扱われて一瞬の微睡みさえ許されない。だからただ、濁ってゆく眸で揺れる天蓋を見つめた。降ってくる口づけは凍った雨のようだ。身体を撫ぜる手の温度は、或いは火傷を起こしてしそうなほど、アンジェリカには冷たく感じられた。だけれども、そんな痛みさえ遠く思う。首を這い、鎖骨をなぞり、身体の至るところを掠めてゆく冷たい手も、嗤笑し、いたぶるだけの言葉も、四肢の震えも、吐息の悦も、眦からあふれて敷布を濡らす涙も、全て。遠い。遠かった。いつか死んでしまった女の内側で意識だけが世界を眺めているみたいに。
行為に没頭できないまま、わざとらしい嬌声を洩らす。あなたは誰、と。耳許で声がする。
(リーラ)
(リーラ)
(リーラ)
は、と一瞬零した吐息を別の唇が塞ぐ。深く深く。心の傷を抉るように。
触れた素肌から腐り落ちてゆかないだろうかと、そんなことを考えた。聞き慣れない心音がうるさい。爪を立てて皮膚を掻く。
頭が割れるように痛かった。暗澹たる想いに心が崩壊してゆく。アンジェリカは、光の射さない世界に手のひらを翳した。僅かに涙が伝う指先に、灼けつくほどの恋しさを憶える。恋しい。恋しくて、憎い。繰り返す。繰り返して、想った。手のひら、指先、爪、そのどれもに何度も触れたキスは、優しくて、柔らかくて、溶けて消えてしまいそうだった。
(……アンジェリカ)
いつか、記憶からも果敢なく消えてしまうのかもしれない。
アンジェリカは瞬き、ひどく静かに涙を零した。苦しいばかりの劣情に犯されながら、何も言わずに目蓋を下ろす。
首に残るサディアスの手のぬくもりに、今はただ、叶わない夢を見たかった。
「アンジェリカ」
フェビアンが呼んでいる。けれど、アンジェリカは返事をしなかった。波打った敷布に白い裸体を埋めて、髪を撫でているフェビアンには背を向けたまま、固く目を閉じて沈黙を選ぶ。身体の節々に残る痛みと咽喉の渇きが煩わしく、気怠いばかりだった。
アンジェリカの空寝など気づいているだろうに、フェビアンは寝台に腰掛けたまま、それ以上は何も言わない。
寝台の上、乱雑に散らばった金髪を梳る指の動きはひどく繊細で、感触だけに身を委ねると、慈愛に満ちているようにも思える。――思えるだけだと、アンジェリカは知っていた。フェビアンのそれは父に似ている。とても。悲しいくらいに。
だが想いを馳せかけて、アンジェリカは止めた。どうでもいいことだった。
どうすれば救われるのかなんて、考えても仕方のないことだ。
幻想の銀。片恋の花。ルツィエは、ひとときの夢。
(違う。違うんだ、リーラ、リーラ、私は)
(おまえはどうして、銀と翡翠を持って生まれなかった)
(どうすればいい)
(どうすればいいんだ、どうすればよかった)
(そんな眸で、見ないでくれ)
(リーラ)
(リーラ)
(リーラ)
その名だけを囁く鳥を、身体の裡に飼っているようだ。延々と、永遠に、アンジェリカはその声に支配され続ける。記憶をたゆたい、やがて声と自我は境を失うのかもしれなかった。泣いた所為で腫れぼったい目蓋の下、眼窩が疼く。けれど涙は零れそうになかった。あなたは誰、と問い掛ける存在も、今はいない。
微かな呼気が、静まり返った部屋に滲んだ。アンジェリカ、とフェビアンが囁く。口許に笑みをはくさまが脳裏を過ぎった。
「何も言わないのかい?」
からかう口調だった。髪の一房を掬い上げられて、弄ばれる。
「ねえ」
ぬくもりが寄り添う気配がした。フェビアンが身を屈めたらしく、閉ざした視界でうっすらと影が差すのを感じた。次の瞬間、強い力で身体を反転させられ、小さく息を呑んだ咽喉を片手で押さえつけられる。アンジェリカは目を開けた。冷ややかに笑う碧眼とぶつかり、眉を顰めて喘いだ。
「苦しい?」
アンジェリカの上に馬乗りしたフェビアンは、残虐にそう訊いた。酷使されて力の入らない四肢を寝台に投げ出したまま、アンジェリカはフェビアンを見上げる。嗤い損ねて、頬が引き攣った。唇を震わせると、フェビアンはさもあどけなく、無邪気そうに小首を傾げる。細めた眸の奥には暗闇があった。
「愛しているよ、アンジェリカ」
フェビアンはアンジェリカの腫れた目蓋にキスを落とす。首を絞める手が離れて、頬についた涙の痕を舌が辿る。それから、剥き出しの肩に唇を寄せた。ちゅ、と吸いつかれて、堪えきれずに少しだけ身体が戦慄いた。その反応にフェビアンは満足そうに笑う。そしてようやく、アンジェリカから身体を離して、寝台を降りた。ぎしり、と微かな軋みの音が鳴る。
ゆっくり休んでいればいいさ、と立ち上がったフェビアンは言った。
「私は公務に出てくるよ。目的は果たしたが、序でに国交を深めておくのは悪くないからね」
アンジェリカは天蓋を見上げていた。窓から射し込む午後の陽光を浴びて、白い布が透けている。光の粒が踊っていて綺麗だった。
「今日の予定はヴェンネルヴィク側の要望で大方取り止めになったから、私は城下を見学しに行ってくる。今夜は戻らないかもしれないが、アンジェリカ、勝手に出歩いてはだめだからね?」
最初から軟禁する心積もりの癖に、と独りごちる。監視がいるに決まっている。レックスを連れて来たのもそのためだろう。レックスは、王への忠誠と女への同情なら、間違いなく前者を選ぶ男だ。
だが、どうでもいいと思った。自分の身などどうでもいいのだ、アンジェリカには。
諦念に思考を鎖そうとしたとき、ああ、とわざとらしくフェビアンは声を上げた。そういえば、と言葉を継ぐ。
「クラリッサ姫の部屋に侵入者がいたそうでね。サディアスが傷ついた姫を慰めているそうだよ。サディアスは一日の公務全てを中断して、今日はずっと姫と一緒にいることに決めたらしい。仲睦まじい夫婦じゃないか、アンジェリカ」
寄り添い合う二人の姿なら、ずっと思い描いてきた。アンジェリカは目を瞑る。
眼窩を疼かせる熱は消え、頬を濡らす涙は、もうなかった。
「アンジェリカ」
「……幸せならいい」
咽喉が渇いて、呟いた声は掠れた。頼りなく。敷布の上で素肌を晒したままで、今更、裸の身体が冷えていることに気づく。
「嫌なひと。……愛してなんていない癖に」
それには、笑い含みの声が返る。
「おまえはいつだってずるいよ、アンジェリカ」
熟れた果実を思わせるほど色づいた斜陽が、カーテン越しに部屋を侵す。
そんな頃合いになって、アンジェリカはようやく寝台から身を起こした。
思考は靄が掛かったようだった。億劫そうに睫毛を上下させ、ぼんやりと室内を見渡す。次いで自分の身体を見下ろして、白い肌に残されたいくつもの鬱血に僅かに柳眉を歪めた。しかしそれもほんの一瞬のことだった。視線を背けると、寝台から滑るように足を下ろす。
溜息の吐き方さえ忘れてしまったみたいだ。咽喉が渇いて呼吸ができない。無様さを自嘲することすら。
腰を屈めて、床に散らばった服を手にする。何もかも煩わしかったけれど、肌着を身に纏い、スラックスを穿いて、シャツを羽織った。釦を止める指が重い。首を傾けると、乱れた金髪が目の端に掛かった。無意識に掴む。落日の光が金色を、朱く、朱く、染めて――
甦る。
罪。
(……血、が)
嗄れた声で吐き出したのは悲鳴だったのかもしれない。か細すぎて罅割れるような声だった。
アンジェリカは寝台の傍に設えられた鏡台に、足を縺れさせながら駆け寄る。落陽を反射させ、眩く照る鏡面に、陰気な貌が映り込んだ。蒼白な美貌が強烈な朱に埋もれ、それはアンジェリカに罪の記憶を呼び起こす。赫。血潮。微笑みはひどく悲しそうだった。複数の跫音。遠ざかる。手を伸ばしても届かなくて。穢れを。穢れを洗い流しましょう。アンジェリカ様。もう何も怖いことはありませんよ。大丈夫ですから。ちがう。ちがうの。にいさま。兄様、兄様、兄様。
生まれてこなければよかった。
自分が生まれてこなければ、こんなことにはならなかったのに。
アンジェリカは鏡台の抽斗を開け、そこに櫛や髪飾り、髪留めに混じって、鋏が片づけてあるのを見つけた。衝動が身体を突き動かす。気づけば鋏を手にして、アンジェリカは、限界まで開いた刃を自らの首許に押しつける。
心地良い冷気が、皮膚を這った。