18. あの日の少女を
片手だけで絞めてしまえるほどの、細い首。
闇に慣れた視界にぼんやりと浮かび上がるその淡く白い肌に、横たわる華奢な体躯の傍らで、サディアスは手を伸べる。両の手のひらで包むように触れ、僅かに寝台から腰を上げると、膝をついて上半身を乗り出し、手のひらに体重を掛けた。室内は静まり返っている。おのれの鼓動の音さえ聞こえない。耳の奥が、微かに痛むような気がするだけだ。
伸びかけた爪が皮膚を掻く。
じわじわと、少しずつ、息詰まるように押さえつけ。
サディアスのその行為にも、仰向けで横たわったアンジェリカは目を醒まさず、苦しがりもしない。酸素を求めて喘ぐことすら。――起きる素振りを見せようとしなかった。或いは、このまま――
どこかから吹き込んだ風が、寝室のカーテンを微かに揺らした。朝陽は未だ昇らない。夜明け前の薄暗く寂寞とした部屋の中で、サディアスはか細く息を吐く。首を絞める手の力を緩めると、アンジェリカをじっと見つめて、頬の筋肉を強張らせた。苦笑しようとして失敗した自分に、目を伏せ、自嘲に眉を顰めた。
アンジェリカに対する感情を持て余している。
愛しく、恋しく。
そして。
(……憎いよ)
独りごちて嗤笑した。愛情と憎悪は交錯して、光と闇は溶解し続けている。
――本当は。
何が違うのだろうと思う。
おのれの裡に巣喰うそれと、ふたりの過去を支配する男の妄執は。
サディアスの中にも、間違いなく、執着はあるのだ。わかっている。殺意さえ孕み、慾は、身体の中に矛盾なく存在している。
いっそ気が狂れてしまえば楽だろうと、落胆すら感じて、サディアスはアンジェリカの首から両手を剥いだ。目蓋を固く閉ざし、沈黙を守る美しい白皙の貌をぼんやりと眺め、それから、サディアスは片手をアンジェリカの髪に伸ばした。絹によく似た柔らかな肌触りのそれを梳く。一束を掬い上げれば、指の隙間から砂塵のように零れ落ちた。綺麗だった。光の粒子が踊る、淡い金糸。暗がりの最中では、銀の煌めきをも帯びて――
孤独を想う。追憶のその向こう。
声を上げて泣くことも知らなかった幼い子どもの。
不意にサディアスは身を屈め、アンジェリカの前髪を少し除けると、その額に口づけを落とした。唇に触れる仄かな熱。生きている。殺してしまいたいと願う反面で、生きている事実に震えるほど安堵することを、アンジェリカは恐らく知らないだろう。髪を撫ぜ、サディアスはそっと額を合わせた。目を瞑る。アンジェリカ、と、唇だけでその名を囁いた。アンジェリカ。アンジェリカ、と。
しばらくの後、サディアスはアンジェリカの上から退いて、寝台の外へと足を置いた。朝は訪れていないけれども、着替えて、仕事を始めてしまおうと決めた。アンジェリカへそれ以上の一瞥を投げることもなく、サディアスは寝台から降りる。完全に立ち上がったとき、微かに、軋む音がした。
それは、静謐が罅割れるような音だった。
クロンクビストの一行が滞在して四日目。その日の午前中、太陽が真昼の位置に昇る少し前に、サディアスの許に一人の女官が駆け込んできた。
立場も礼儀も忘れてサディアスの執務室に飛び込んできたその女官は、呼吸も整えず、鼻息さえ荒いまま、肩を大きく震わせて口を開いた。何を言うかと思えば、ヴェンネルヴィクの姫君の部屋に何者かが侵入した、ということだった。
「……それで?」
サディアスは、眉を顰めて女官を見た。だからどうしたとは言わないが、委細がわからなければ対処のしようがない。怪訝な眼差しを隠そうともせずに説明を促せば、興奮の収まらないらしい女官は、冷静なサディアスにひどく憤慨した様子を見せた。詳細など構わないから姫様の許へお出で下さいませ、突然のことに大層傷心しておられるのですよ、と息巻き、つかつかと歩み寄って、今にもサディアスの腕を取って引き摺って行こうとする。サディアスは、あからさまに渋面を作った。だが、結局は、仕方なく椅子から腰を上げ、女官に従った。
姫が心配だった、とは、口が裂けても言える立場ではなかったけれども。
急ぐ女官の後ろを、通い慣れた廊下を普段より早足で歩き、姫の部屋へと向かった。大分目に馴染んだ空間に、しかし常時では有り得ないほどの雑踏を見つけ、サディアスは一度足を止める。姫の私室に通じる扉があるはずの場所の前に、顔見知りの衛兵や侍女はもちろんのこと、ヴェンネルヴィクの高官や騎士、或いは先日の園遊会に出席していた貴族まで、あらゆる階層の人集りができていた。
その中には、あの、カイル・キャヴェンディッシュの姿もある。
無意識に、サディアスは尚更表情を険しくした。
傍目に見ても重苦しい雰囲気で合議している人々を、サディアスは足を止めたまま、遠目に眺めた。すると前を歩いていた女官がそれに気づき、振り向いて、きつい視線を投げてくる。サディアス様、と癪に障る声で呼び掛けてきたが、いい加減堪えかねた。
「あれだけ人がいるのなら、俺は必要ないだろう」
無礼な女官を冷淡な眸で一瞥し、サディアスは低く唸る。
不穏な空気に、僅かに女官は怯んだらしかった。小さく肩を震わせ、唇を戦慄かせる。しかしあるじたる姫のためと心を奮い立たせたのか、サディアスを精一杯睨めつけると、サディアス様はご夫君でいらっしゃるでしょうに、と声を荒げた。
「サディアス様になさって頂きたいのは、姫様のお傍で、姫様のお心を慰めることです……貴方様にしかできないことです!」
至極面倒臭そうに、わざとらしくサディアスは溜息を洩らした。冷ややかに碧眼を眇め、女官を見遣る。
「……苛立たしいな」
「サディアス様!」
「黙れ。――姫の許には行ってやる。それでいいんだろう」
だが、と。サディアスはうっすら嗤った。
「おまえの処遇は一考する。憶えておけ」
女官はさっと顔色を変え、その場に立ち尽くした。サディアスは彼女を無視して歩き出す。人集りのすぐ傍を通り抜け、誰も入れるな、と部屋の前の衛兵に言い置いた。そのとき、一瞬カイルと視線を交えたが、気づかない素振りで姫の私室へと入っていく。サディアスが現れた瞬間に息を潜めたざわめきは、扉を閉めてしまうと、その空気さえ完全に消えた。
(俺が姫の心を慰める?)
名ばかりの夫の癖に。
心を安らがせるどころか、苦しませるだけなのではないかと、サディアスはそう独白した。
荒らされた、というのは、どうやら主室ではなかったらしい。扉を敲いてそこに踏み込むと、昼時の温暖な陽射しがサディアスを迎えた。
カーテン越しの柔らかな光に目を瞬き、サディアスは、部屋の中央、主室のソファに身を縮ませて座り込んでいる小さな影を見つけた。姫だった。日頃とは違い、亜麻色の髪は全く結われておらず、細い肩の線を辿って垂れている。姫は俯いて、ぼんやりと床を見つめていた。傍には一人、サディアスも見知った侍女がいて、憔悴した様子の姫の手を握っている。
――ひどく既視感を憶えた。
眩暈がするほど。
サディアスは、主室の入口で、扉を開けたまま立ち尽くした。誰だ、と思う。目の前にいるのは誰だ。
(……アンジェリカ)
把手を掴む指先が震えている。
いつの日のことだろう。
あれは――
ふと、姫の傍らの侍女が顔を上げた。侍女と目が合い、サディアスは我に返る。躊躇って踏み止まったままのサディアスに侍女は小首を傾げ、しかしさほど気にしたふうもなく、姫様、と落ち込んでいる少女に声を掛けた。サディアス様がいらっしゃいましたよ、とゆっくり微笑み、侍女は姫の手を離して立ち上がった。サディアスは扉を閉める。侍女が下がるのと入れ替わりに姫の傍らに近づき、ソファには腰掛けず、床に膝をついた。皺が寄るほど固くドレスを握りしめる手を見つめる。
ぱたん、と扉が閉められる音を耳にして、サディアスはようやく姫の表情を窺った。
「……姫」
涙の痕が頬に残っている。痛ましいと素直に思った。
潤んだ瞳は、サディアスを映すと、しかし途端に色合いを変えた。ごめんなさい、とぎこちなく笑う。
「ごめんなさい、サディアス様。ご心配をお掛けして、……お忙しいのに」
(ごめんなさい、兄様……)
何でもないの、そう言って、無理に笑ったのは。
あの日。
――花が潰えた日。
サディアスは姫を見つめた。――否、見ているけれども、見えていないのかもしれない。俯瞰しているもう一人の自分が囁く。目の前にいるのは誰だ。塞いだはずの傷口が開き、血が流れ出すような痛みを憶える。現実が記憶を呼び寄せている。
「謝らなくていい。……驚いただろう」
ここを訪れるまでの間、女官が一方的に捲し立てるのを聞いた。昨夕から一晩、姫が公務で城の外へと出ている間に、この私室は荒らされたのだと言っていた。今朝になって城に帰還してみれば、足の踏み場もないほど乱され、雑然としていたらしい。調度品の一部が破壊され、衣類も裂かれていたという。それから――明日の夜会のために新しく誂えたドレスの一着が紛失した、と。
悪質だな、とサディアスは内心で毒づいた。容赦のなさがあの人らしいと思う。どうする、と笑う声が聞こえるようだ。
サディアス様、と呼び掛けられて、サディアスは姫を見上げた。自然と厳しい顔つきになっていただろうことは否めない。不安そうに揺れる眼差しに微かに苦笑して、ヴェンネルヴィクは穏やかな国だから、と言った。
「慣れてないだろう、こういうことは。……貴女も」
クロンクビストではめずらしいことではない。部屋が荒らされるだけならまだいい方だと言えた。だから、誰もこの程度のことで今更慌てないし、それは裏を返せば、誰もが非情であるということだった。
「……ごめんなさい」
姫は項垂れる。伏せた瞳から、雫が零れた。
「姫、だから」
「いいえ! ……いいえ、サディアス様。だって、だってわたくしが」
強い否定の声を上げて、姫はサディアスを見返した。薄い膜の張った双眸がゆらゆらと歪な光を湛えている。部屋に射し込む陽光に反して、それはどこか薄暗い。
「わたくしが、カイル兄様に余計な心配を掛けなければよかったのです。もっと、もっと……毅然としていられたら」
こんなことには、と姫は顔を覆う。亜麻色の髪が滑り落ちる。
サディアスは戸惑った。姫、と舌先で呟いて、逡巡する。迷った末、手を伸ばすと少女の華奢な手首を掴んで、表情を隠してしまうその手をそっと剥いだ。
「……何を言っている?」
訊くと、泣き濡れた顔で、姫は小さく笑った。自嘲するように。
「……わたくしにだって、わかることはありますわ、サディアス様」
子どものわたくしにだって、と。
歪められた唇は、まるで自らの無垢を汚していくように。
「クロンクビストの方々をお呼びしてはならなかったのでしょう?」
サディアスは姫を見つめたまま黙り込んだ。何を言えばいいのかわからなくなる。――ただ、思い出すのは。
「不思議に思っていましたから。……サディアス様は、最初から、クロンクビストの方々の今回の来訪を、決して喜んでいるふうではありませんでした。カイル兄様に詰め寄ったときも、どうしてそんなに怒っていらっしゃるのかしらって。……いいえ、まるで、ひどく」
言い掛けて、姫は口を噤んだ。それから頭を振ると、やはり、笑う。
「実のお兄様にまで素っ気ないのですもの、サディアス様。……ですから、きっと報いなのですわ」
そうでしょう、と涙を浮かべて笑う仕草が、あまりに。
(わたしが悪いの)
(わたしが)
(わたしさえ、いなければ)
「……サ、ディア、ス、さま……」
驚きに掠れた声は腕の中から聞こえた。瞠目する姫の肩を強く抱いて、サディアスは亜麻色の髪に頬を押しつけた。
「――違うよ」
抱きしめた身体はいつかの少女ではない。折れそうなほど脆く弱かった、孤独を抱えたアンジェリカではない。
わかっている。わかっているけれど、もう。
二度と、失うのは。
「違う。おまえの所為じゃない、何も、何一つ」
誰に対して言い聞かせているのだろう。姫か、異母妹か、それとも自分自身か。
「そんなふうに笑うな……」
サディアス様、とひどく力ない声が心臓に響く。次いで、抱きしめた身体が小刻みに震え始め、途切れ途切れの嗚咽が耳朶に触れた。しゃくり上げる声がする。サディアスの背に細腕が回り、姫の両手は、躊躇いがちに上着を掴んだ。サディアスは一層、肩を抱く腕に力を籠める。
贖罪かもしれなかった。暖かな昼の陽射しを浴びながら、咽喉を引き攣らせている姫を抱きしめて思う。花の潰えた日。追悼しきれなかった恋が、悪夢へと転じた日。非力な自分。どうすればいいのかわからなかった。心配しないでと笑ったアンジェリカを前にして。父様を怒らせてしまっただけなの、そんな些細な嘘を。どうして。
だからせめて、と願う。慈愛や庇護欲ではなく、これは独り善がりだと知っている。
それでも、無垢を夢見る。
縋りつく指が爪を立て、生地を掻く。胸もとで涙が滲んでいくのを感じていた。
「傍にいてください……」
ごめんなさい、と姫は泣いた。