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碧の独善  作者: 氷空けい
17/45

17. 失墜する祈り


 花が踏み潰される果敢ない音が、耳許で聞こえたような気がした。

 リーラ、と呼ばわる声。嘔吐きたくなった。気持ちが悪い。――ふと影が降り立って、蹲った小柄を覆う。細腕いっぱいに抱えた花が散った。目前に立ち塞がった靴がそれを踏みつけるのを茫然と見つめ、そぞろに目線を動かすと、仰いだ先で狂気を孕んだ眸とぶつかる。碧。夜の海のような暗さの。リーラ、と声が降ってきた。唇を震わせることもできず、そもそも自分が呼吸をしているのかすらも。腕が伸びてきて、ひどくきつく、痛めつけるように抱きしめられる。リーラ。リーラ、リーラ、リーラ。見開いたままの目の端には、無惨な花々が見えた。

 ――花が。

 にいさまの。兄様の、花が。

 冷たい汗が背筋を滑り落ち、アンジェリカは、破られ、切り刻まれたドレスをぎゅうと掻き抱く。深く深く、肺の凝りを吐き出すように息をして、湧き上がった感情には蓋をした。記憶が錯綜して、過去と現実の区別がついていない自分を、どこか遠くに俯瞰する。微かにわらった。今更何を躊躇えというのだろう。

 背信を恐れるいとけなさなど疾うにない。祈りの言葉を紡ぐ唇は既に乾いて、咽喉は隠した本音で灼けたまま。あのひとを裏切るのだと思っても、それよりも遥かに強く願うことがある。自己犠牲と呼ぶにはあまりに薄汚い、それは独り善がりの。

 痛みには慣れている。だから平気だと思いたかった。だというのに、断罪が下る日を待ちわびてきたのに、どうして、眼窩は疼く。

 アンジェリカは薄紅のドレスを手放して、立ち上がった。おのれの強さを、決して信じてはいなかった。




「……まさか、いらっしゃるとは思わなかった」


 貴賓室を訪れたアンジェリカに、低い声でそう呟いたのは、アンジェリカと同じくクロンクビストの騎士制服を着用した男だった。精悍な顔つきの、年頃はまだ四十前後といったところだが、蜜蜂と剣、二つを繋ぐ蔓、そしてそれに四つの小花と一つの銀の大輪が描かれた右肩の階級章から、その若さからは想像のつかない地位に就いていることが知れる。アンジェリカは人形じみた無表情を作り、僅かに細い首を傾げた。苦痛の滲む男の黒眸をまるで嘲笑うかの如く淡々と。


「あんな嫌がらせをしておいて?」


 平坦な声で言うと、男の、前髪を上げて晒している額に皺が寄った。

 アンジェリカは緩慢に金糸の睫毛を上下させ、瞬く。男の不機嫌そうな面持ちが、アンジェリカには不思議だった。


「どうしてそんな顔をするの、レックス」


 アンジェリカ様、と男――レックスは咎めるように尚更渋い表情をする。


「貴女はおわかりになっていらっしゃるのか。ここへ来るのがどういうことか」


 アンジェリカは色の失せた唇を引き結び、その問い掛けには沈黙を選んだ。答える意味がなかった。

 レックスは苦々しげにアンジェリカを見つめる。その眼差しを受け止めて、いつもそうだ、とアンジェリカは内心で独りごちた。レックスはアンジェリカの為すことに常に否定的なのだった。王家を離籍され、剣を手に取り、騎士になることを決めたアンジェリカに最後まで反対したのは目前のこの男だ。貴女は守られていればよいのです、と幾度となく繰り返して諭し、それでもアンジェリカが意志を変えないことを知ると、葛藤の末、アンジェリカに剣を教え、騎士の心得を説いた。だが、自身の厳しい指導の甲斐あってアンジェリカが騎士に叙任されても、決して喜びはしなかった。恐らく、今に至ってもなお、レックスの考えは変わっていないのだろう。

 だけどそんなもの、とアンジェリカはひそやかに息を吐く。ただの綺麗事だ。

 貴賓室。西側諸国随一の大国クロンクビストの王が滞在する一室。その扉の前でたった一人、レックスは護衛をしている。身につけている肩章の、蔓に咲く花の数は五。四つの小花と一つの銀の大輪は、祖国における騎士階級の最上位を示した。騎士団長である。レックスはクロンクビスト王家騎士団の柱石で、つまり、王の股肱なのだった。だから、アンジェリカはレックスを嫌いではないけれど、信じることは難しかった。非難や諫言、同情、時折覗くほのかにあたたかい感情さえ。

 誰の慰めもいらない、欲しくなかった。心を与え、そして与えられたいのは、ただ――

 ――だめだ、とアンジェリカは視線を落とした。胸中を薙ぐ恐怖と不安を堪えて、目を瞑り、柳眉に力を入れる。心が折れてしまいそうだった。


「アンジェリカ」


 不意に鼓膜を衝いた声に、アンジェリカは小さく震えた。一瞬逡巡し、ひどく重たげに首を擡げる。顔を上げると、目の前では貴賓室の扉が開かれていて、アンジェリカから数歩の距離にフェビアンが立っていた。笑っている。愉快そうな碧眼を見て、アンジェリカの視界は一気に昏さを増した。

 ――気持ちが、悪い。

 眩暈を憶える。果たして自分が呼吸しているのかどうか。舌が乾き、唇は冷たい。

 身の裡からアンジェリカを叩く、心臓の音はまるで耳許で聞こえるようだ。

 無様にも膝が笑い、今にも頽れてしまいそうであるのを、必死に堪えて立っている。笑う碧眼を虚ろに見返して、アンジェリカは咽喉を鳴らした。


「……フェビアン陛下」


 心持ち掠れた声でアンジェリカが呟いたら、おや、とフェビアンはわざとらしく片眉を上げた。


「随分と他人行儀だ。兄様とは呼んでくれないのかい、アンジェリカ?」

「……わたしは、既に籍を抜かれていますので」


 答える声が震えないように努めるだけで、アンジェリカには精一杯だった。頬は強張り、無表情は貌に嵌めて外せなくなった仮面のようだ。

 ふうん、と洩らし、フェビアンは隙なく笑う。アンジェリカは噛んだ奥歯に力を入れた。向かい合ったフェビアンは、アンジェリカが彼に宛がわれた部屋を訪れることを確信していたのだと間違いなく思わせる、飾り気のない――とはいえ、一国の王にふさわしく上質な──黒緑ダークモスの部屋着だった。釦を二つほど外したシャツからは素肌が見え、アンジェリカには、それが堪らなく恐ろしく感じられた。


(……リーラ)


 指先が熱を失っていく。常闇に足が沈んでいくみたいだった。アンジェリカは孤独になる。


(リーラ。私の。私のリーラ)


 アンジェリカはゆっくりと碧眼を瞬いた。視界の端で、一歩身を退いたレックスが沈鬱そうに顔を伏せているのを見つける。

 頼りなく項垂れる男をぼんやりと眺め、ほら、と脳裏で囁き、わらう。焦燥の反面で、凍てつくように冷静な自分に、アンジェリカは気づいていた。悲哀と諦観と、畏怖の先にあるそれは虚無だった。ほら、やはりどんな綺麗事を並べ立てても、助けてはくれないのでしょ、と。嗤う。

 あなただけ、アンジェリカは祈るようにそう想う。

 だから。


「アンジェリカ」


 不意に伸びてきた手が貌に掛かる金髪の一房を掬い、その流れで、ぐいと細い顎を持ち上げる。骨張った手の冷たさに、アンジェリカは身体を硬直させた。身を屈めたフェビアンは、互いの吐息がぶつかるほどの至近距離でアンジェリカの顔を覗き込み、すうと目を細める。


「誰を想った?」


 無理矢理に視線を繋げられた先の碧眼は、笑っているのに、研磨された白刃の如く冷厳だった。アンジェリカの全てを薙ぐように。


「……フェ、ビアン、陛下」

「私が目前にいるというのに、他の誰を想った?」


 嫣然と、薄い唇が執着を紡ぐ。気狂いな。アンジェリカは息を詰め、微かに戦慄いた。


(――誰を見ている)

(誰とも話すな)

(誰にも逢うな)

(誰のことも考えるな、おまえは、私の)

(リーラ)

(リーラ)

(リーラ)

(リーラ。私の。私のリーラ)


 堰き止め、忘れようとしていたあらゆる過去が奔流し始めていた。反響する声が脳髄を痺れさせ、頭の天辺から指の先まで、アンジェリカの動きを封じてしまう。茫然と仰いだ碧眼は、フェビアンのものであって、フェビアンではなかった。喘ぐ。――目前にいるのは、誰。

 月のない夜空。風に揺れる銀の花。無垢な子どもから少女へと成長したばかりの小柄を、潰すばかりに抱き竦めた腕。城の奥。常闇。終わらない悪夢。罵倒し、蔑み、慟哭しては縋りついて。リーラ、と呼ばわる。ひどく悲しそうな声で、何度も繰り返して、華奢な体躯を。

 アンジェリカ、と。フェビアンは何もかも知ったふうで、ゆったりと微笑んだ。


「いい加減、主従ごっこはやめた方がいいな」


 顎を掴んでいた指が、頬を撫で、首筋を辿る。柔らかな手つき。爪を隠した愛撫。逃げられないのだと告げるように。


「私はおまえを迎えに来たんだよ、アンジェリカ。わざわざこんな辺境の小国までね。わかっているだろう?」


 アンジェリカは唇を空回らせ、国交は序でと仰るのですか、と声を引き絞った。抑揚のない問い掛けに、フェビアンは首を傾げる。


「随分とくだらないことを訊く。おまえは賢い子だと思っていたのだけれどね」

「……陛下」

「ヴェンネルヴィクは実に平和だ。そしてひどく生温いと思わないかい、アンジェリカ。人はみな優しく、城は暖かく、美しき花は曇りのない眼差しで愛でられている。幸せだ。傷つけることも、傷つけられることもなく、疑いようもなく幸福な場所だ。――真綿で首を絞められるようだろう?」


 手のひらが項を包み、指先が耳朶に触れて、整えられた爪がそこを引っ掻く。アンジェリカは微かに柳眉を歪め、フェビアンの碧眼から目を逸らそうとした。途端、再び顎を取られて、視線を強引に搗ち合わせられる。


「愚かだね、アンジェリカ。安らかなる死など許すとでも?」


 鼻先が触れるほどの距離でフェビアンが浮かべたのは、とても美しい微笑だった。美しく、そして、ひどく獰猛な。


「ねえ、――リーラ?」


 気づいたときには顎を掴む手を振り払い、アンジェリカは後退っていた。蹌踉めきながら足を引き、だけれどもすぐに両腕を取られ、逃亡を阻まれる。小さな悲鳴が零れた。腰を引き寄せられ、僅かな空間を残して身体が近づき、耳許にフェビアンの唇が触れる。冷たいだけの唇。それが紡ぐ言葉は悦を孕んでいた。愉快そうに笑う。


「――鳥籠に帰ろうじゃないか、麗しき小鳥」


 残忍な囁きに、アンジェリカは首を振った。いや、と声もなく呟き、身を捩って耳を塞ごうとする。


「なに、籍なら気にすることはないよ。方々に手は打ち、既に取り戻してある。おまえに騎士などふさわしくないからね」


 いらない、そんなもの。だが、自由を得て羽ばたこうとする鳥の如く足掻いても、強固な狩人の拘束は外れない。


「わかっていたのに、何故今更逃げようとする、アンジェリカ」

「ゆるし」

「許さないと言った。アンジェリカ、おまえは自ら私の許へ来たんだよ。おまえの答えなど最初から一つしかなく、それを利用されていると気づきながら、逃げる場所を断ってここへ来たのはおまえ自身だ。――ああ、それとも、ここで曝いてほしいのかい、アンジェリカ」


 愕然として、アンジェリカはフェビアンを見上げた。顔には絶望が広がっていたと思う。そんな表情を見て捕食者が舌なめずりをしないわけがなかったのに、もう感情を殺すことはできなかった。毀れてゆくばかりだった。心は。追憶で踏みにじられた花のように。


「や……」

「この手を振り切り、私から逃げ、そしてどこへ? どこへ帰る? ――サディアスの傍へ?」


 淡い色の金髪を揺らす。毛先が何度も頬にぶつかった。痛みなどあるはずもないのに、痛い。痛かった。フェビアンの声に支配される。誰も助けてくれない。誰もいない。アンジェリカの傍らには、もう。


「あれは決しておまえの手には入らないのに?」


 見開いた眸から、涙が零れた。


「傍にいるだけでいいと、アンジェリカ、おまえは何度繰り返して言い聞かせたんだい。永遠の不在を知りながら、いつか孤独になることに気づきながら。可哀想なアンジェリカ。全てと引き換えにサディアスを救って、その幸福を信じてなお、おまえは、本当は」


 アンジェリカの自由を奪うフェビアンの手に、力が籠もる。


「願ったのだろう、共に堕落することを」




 幸せになって。

 あなたの幸せが、わたしの幸せ。

 幼い頃から抱き続けてきた願いは、決して嘘偽りではない。アンジェリカは信じている。だけれども、声に出して、サディアスに何度もそう言い続けてきたのは、言い聞かせて、憶えていたかったからだ。失うことを憶えていたかった。共に在ることを許されるはずがないと知っていたから。

 はじまりに帰れるはずがないと、知っていたから。

 サディアスは優しい。痛みを分かち合おうとしてくれる。アンジェリカが背負った罪も罰も、悲しみも、全て。


(許されるはずがない)


 柔らかな陽射しの下。深緑と花の静謐。抱き上げる腕の暖かさ。慰めの指先。アンジェリカに光をくれ、愛を教えてくれた、はじまりの。

 アンジェリカは愛しているのだ。あの日を。子どもの頃のひそやかなる日々を。だから汚したくなかったし、汚してほしくなかった。誰にも、――誰にもだ。どんな傲慢だろう。サディアスには優しいままでいてほしかった。アンジェリカが愛した、あの日のままで。

 それが叶わないのなら、と。

 喪失と慟哭の果てに一度でも願った自分はあまりに浅ましく、罪深く、だからアンジェリカは。


「許さないでほしいんだろう、アンジェリカ」


 砕け散った心をさらに踏み砕き、フェビアンは続ける。


「慰めを疎み、同情を嫌う。無垢には戻れない。大丈夫、私は許さないよ、アンジェリカ。おまえの願い通りにね」


 陛下、と誰かがフェビアンを呼んだ。咎めたのかもしれない。しかしアンジェリカには遠い声だった。


「許さないから、おまえを代わりにしてあげるよ。私の傍に置き、サディアスの傍らなど二度と許すものか。もしも望むなら、おまえも、サディアスも、それを守ろうとする全てに対して容赦しない。私にはその権力がある。おまえは私のものだよ、」


 リーラ、と。

 それに怯える力さえ、もうアンジェリカにはなかった。羈束する腕の中で、力なく立ち尽くしている。フェビアンは身体を動かしてアンジェリカの表情を窺い、一瞬、つまらなさそうに眉を顰めた。だがすぐに、ああそうだ、と声を上げ、にこりと笑う。


「クラリッサ姫」


 随分と可愛らしいねえ、とフェビアンは嘯く。


「とても果敢なそうだった。ねえ、アンジェリカ、おまえは彼女が傷ついたとき、どう感じるの」

「……陛下、もう」

「私からの贈り物、姫のドレスを見てどう思った? ――嬉しかったのでは?」

「――陛下!」


 レックスの怒声が回廊に響き渡り、フェビアンはようやく口を閉ざす。控えたレックスを一瞥すると肩を竦め、身体を縮めて項垂れているアンジェリカの腕を放した。アンジェリカは膝から崩れ落ち、床に頽れる。

 白い頬を涙が伝い、顎を滑り、音もなく、天鵞絨の絨毯を濃く染めていく。

 フェビアンは膝を折ると、首を垂れたアンジェリカの頭を片腕で抱き込み、もう戻れないな、と囁いた。


「おまえはサディアスの許には戻れない。そうだろう? 想いを曝かれてそれでもなお願うほど、おまえは綺麗ではないから」




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