16. 千切られてゆく
アンジェリカは目を伏せた。落とした視線の先にある書簡にも、もう溜息さえ吐けずにいる。
(――姉上へ)
その書き出しで始まるこの私書を、今日に至るまで、何度なぞって読んだだろう。虚しい行為だとわかっているのに。
(――力不足で申し訳ありません)
サディアスがヴェンネルヴィク王から知らされるよりも早く、クロンクビスト王の遠来をアンジェリカに教えてくれた文面には、謝罪の言葉が添えられていた。ウィルの所為ではないわ、とアンジェリカは小さく首を振る。逃げ続けられると信じていたわけではなかった。叶うならと、永遠に等しい日々を願っていたけれども。
ヴェンネルヴィク国王が主催した夜会、その継ぎてとして両国の親睦を図るため、また国交を深めるため、クロンクビスト一同は五日間この地に滞在する公定となっている。今日は三日目だった。クロンクビスト王フェビアンは、自国の官僚を含めて昼まで会合を行った後、午後は中庭で、ヴェンネルヴィク王妃が催す園遊会に参加するのだと聞いた。クロンクビスト王妃ミシェーラやヴェンネルヴィクの名だたる貴族、それから、王太子のクラリッサ姫、それゆえに当然ながら姫の夫たるサディアスも出席するという。嫌そうに顔を顰めていたあるじを思い出せば、多少なりとも心が緩む気もしたが、それでもアンジェリカの憂鬱が完全に払拭されることはない。
脳裏を過ぎるのは、フェビアンの凍てつく碧眼だった。笑う声までも甦りそうだ。酷薄に唇を歪めて、アンジェリカを嗤笑する。
アンジェリカは項垂れた。
フェビアンは何を為しに来たのかと、裏を考えてしまうのは、ただの杞憂だろうか。
クロンクビストとヴェンネルヴィクの修好を目的とした会合や饗宴の開催自体は、同盟国であれば普通のことだ。しかし、多忙を極めるクロンクビスト王が、五日という長期間を他国で過ごすのは稀であって、そのことがアンジェリカの不安を煽っている。
ヴェンネルヴィクは田舎の小国だ。西側諸国随一の大国とされるクロンクビストにしてみれば、政治的にも商業的にも何に秀でるわけでもなく、王族同士の婚姻による同盟関係にどんな利益があるわけでもない。あったとしても微々たるものに違いなかった。そんな小国に何故、フェビアンは五日も滞在し、貴重な時間を費やすのか――
考えすぎだと、アンジェリカは自嘲を交えて胸中で呟く。自惚れているだけ、と。
だが一方で、心臓を破るようにして急く自分もいた。それはひどく強い感情だった。内側から叩いている。悪夢の訪れを告げるように。
報いを受けるのかもしれない、と。アンジェリカは独りごちる。
サディアスの政略結婚。そこにあったのは国の利害ではなく、全く関係のない個人的な思惑だけだった。フェビアンもサディアスも――アンジェリカさえ、胸に秘めていたのはおのれの願望だけだ。それぞれの我が儘を、クロンクビストはヴェンネルヴィクに――クラリッサに押しつけている。
それに、アンジェリカにはふたりよりもさらに罪深いのだという自覚があった。
――あのとき、やはり許されるべきではなかったのだ。
アンジェリカは目蓋を下ろした。迫り来る何かを受け止めるには、アンジェリカの心はあまりに脆すぎる。押し潰されてしまうかもしれない。だけれども、もう逃げることも儘ならない。
アンジェリカはサディアスに、五日間の完全蟄居を命じられた。フェビアンの手の届かないところにいろ、と。
でも本当は、きっとサディアスも予感しているはずだった。
ふたりの永遠が叶わない夢であることを、アンジェリカもサディアスも知っている。だからせめて傍にいさせてほしかった。鳥籠に鍵が掛けられて、終わりが来るそのときまで、サディアスの傍らに在ることを許されていたかった。
(リーラ)
打ち寄せる不安は、波のように音を失わない。ずっとそうだった。耳を塞いで聞こえないふりをしても、忘れたことは一度もない。
父様、とアンジェリカは呟いた。目蓋の裡に、ルツィエがひどく鮮明に浮かんでくる。新月の闇を照らす片恋の花。父の愛した月影の銀。ひとときの幻想。――永えの悪夢。
侵蝕する昔日に、アンジェリカは金糸の睫毛を動かした。覗く碧眼は翳りを濃くしている。
(――悲しいのなら、悲しいと言って下さい)
姉上、と。手紙の終わりに書かれていた言葉は、深淵に堕ちる心には優しかった。優しくて――痛い。
眼窩で疼く熱が膨れている。それがいつ破裂してしまうのかと不意に考えて、アンジェリカは静かに震えた。
「……蛇?」
茶器を扱っていたアンジェリカは、ふと後方を振り向いて問い返した。サディアスは無感動に肯定を示した。カウチに仰向けで横になり、会議で使われた資料を雑多に読みながら、大した興味もなさそうに話を続ける。
「一匹だけだが。どこからか中庭に忍び込んだらしい。園遊会の最中だったから貴族のご婦人方は大騒ぎで大変だった」
「……何事もなかったのですよね?」
柳眉を歪める。訊ねる声は無意識に低くなった。
サディアスは片眉を上げてアンジェリカを一瞥する。それから改めて視線を戻すと、斜め読みした資料の紙を一枚ずつ無造作にカウチの外へ投げた。
「兄上の近衛が即座に殺したさ」
そうですか、とアンジェリカはどうにか震えを堪えて息を吐いた。紅茶を茶器に注ぐ。かたかたと音がしているのはきっと気の所為だ。
淡く立つ湯気を透かして、アンジェリカは器の中の液体を見下ろした。紅茶は、中秋の、紅く色づいた葉の色をしている。澄んでいてきれいだった。だがそこに映り込んだ自分の眸を見て、アンジェリカはふっと目を逸らすと、茶器をカウチの前にある卓へと運んだ。床に膝を着くと、サディアスが手を伸ばせる位置にそれを置く。
サディアスは目線を上げた。酒は、と言うので、だめですよ、とアンジェリカは肩を竦めた。サディアスが散らかした紙を拾う。
――園遊会に蛇。
何事もなかったのだとサディアスは答えたが、釈然とせず、アンジェリカは内心で怪訝に思った。中庭の一角の、硝子張りの場所はクラリッサのお気に入りで、そのために中庭全体が専属の庭師団によって常に美しく整えられている。害虫の一匹も見つからないように完璧な配慮が成されている中庭で――蛇。
アンジェリカは庭師団を見知っていた。中庭は許可がなければ立ち入れないが、外園は自由に散策できる。時間が空いたとき、アンジェリカは必ずと言っていいほど外園に足を向けるため、だから庭師たちとも顔見知りになったのだ。庭師は誰もが仕事に実直で、とりわけ親方の老爺は、庭の見目麗しさだけではなく、植物の根から一葉の先に至るまで目敏く、本当に丹誠込めて手入れをする人物だった。だというのに、一体どこから蛇が――
クロンクビストとヴェンネルヴィク、両国の王族と貴族が顔を合わせるそのときに都合よく――?
「――アンジェリカ」
沈み込む思考に冷や水を浴びせられた。弾かれたように顔を上げると、いつの間に起き上がったのか、カウチに座ったサディアスがじっとこちらを覗き込んでいる。
「気にするな」
言い聞かせるような声音だった。
「……サディアス様」
「咬まれた者はいないし、咬まれていたとしても毒蛇ではなかった。被害はなく、何事もなかったのだから、過ぎたことを深く考えるのは徒労だろう。蛇の進入に関して悩むべきは庭師どもで、アンジェリカ、おまえではないよ」
でも、と思わずアンジェリカは声を上げた。しかし言いかけて、口を噤む。不安を見透かされているのだと気づき、俯いた。
サディアスの溜息が聞こえた。紙の束を乱暴に投げ捨てる音がして、次の瞬間には両腕で身体を包まれた。くしゃり、とアンジェリカが手にしていた資料の紙が微かな鳴き声を立てて潰れる。
「万が一、作為的なものがあったとしても、おまえには関係ない」
素っ気ないけれども、宥める口調だった。慰めるように髪を梳く手がある。
「アンジェリカ」
アンジェリカはサディアスの肩に額を押しつけた。目を瞑る。不意にとても泣きたくなった。
(……もっと。何度だって、名前を呼んで)
心の奥で小さく祈る。眩い太陽の光の粒が、追憶で踊った。深緑と花の静謐。涙を拭って笑い、あの日に慈しんでくれた名前を何度でも呼んでほしかった。サディアスだけだ。サディアスだけが愛してくれた。
だが、腕の中で柔らかな記憶が呼び起こされる最中にも、リーラ、と常闇から呼ばわる声がある。
は、とアンジェリカは喘いだ。呼吸が乱れる。脳髄を叩く慟哭と嘲笑。リーラ。私の。私のリーラ。平穏を奪い、優しさを汚して、闇が光を呑み込んでゆく。ひどく歪な恋情が、アンジェリカを塗り潰して、消し去ろうとする。リーラ。声は狂気と妄執だった。白金は銀に、碧は翡翠に。何故おまえは、と詰る。おまえさえいなければよかったのに。リーラ。私の。私のリーラ。だからおまえを代わりにしてあげるよ。意識が混濁する。それは誰が言ったのだろう――
冷淡な碧がアンジェリカを射抜く。父だろうか。それとも。
――フェビアンか。
「アンジェリカ。アンジェリカ、……落ち着け。大丈夫だから」
強い力で腰を引き寄せられる。片腕がしっかりとアンジェリカを抱き留めていた。ぐいと顔を上向けられると、真っ直ぐに自分を見下ろす碧眼とぶつかった。サディアスの眉は苦しげに顰められ、瞳の奥には悲しみがあった。アンジェリカは手を伸ばす。そんな表情をしないでほしかった。
サディアスの微笑う顔が、アンジェリカは好きだ。一番好きだった。いつからか見せてくれなくなってしまったけれど。指先で輪郭をなぞり、手のひらで頬を撫ぜると、その手首を掴まれて、より一層固く抱きしめられた。サディアスの柔らかな金髪が首筋を擽る。鼻先が耳朶を掠めて、熱を孕んだ吐息が、アンジェリカ、と囁いた。
「サディアスさま……」
「そうだ、俺だよ。アンジェリカ、おまえは俺のものだ。俺のことだけを考えていればいいんだ」
声が響いて、衝動に強張った身体が緩む。心臓の音が聞こえていた。安堵が心を満たしてゆく。
「俺を傷つければいい、アンジェリカ。おまえが傷つく必要はないんだよ」
サディアスを傷つけるだなんて、だから、そんなことができるわけもないのに。
アンジェリカはサディアスにもたれ掛かった。一定の鼓動を刻む心臓に耳を寄せて、あたたかな腕に微睡む。瞳を閉じた。少しだけ闇が遠ざかり、一瞬の安らぎを得る。いつまでも続かないのはわかっている。だから本当に一瞬だ。今だけのぬくもりだった。サディアスが永遠を誓ったのはアンジェリカではないから。それでも今はまだ、アンジェリカはサディアスのものであることを許されている。
ぬくもりに溺れながら、ああ、とアンジェリカは想った。
――この腕の中で。
(今すぐに死んでしまえればいいのに)
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アンジェリカは床に膝を着いて頽れていた。涙を零さずにいたのは、せめてもの矜恃だった。込み上げる嗚咽は押し殺す。
視線を落として、アンジェリカは手許のドレスを凝視した。花を象った繊細なレースを幾重にも合わせて、華やかに仕立てられていただろう薄紅のドレスは、きっとクラリッサのものだ。――明日の夜会で着用するはずだったものに違いない。
ヴェンネルヴィクの姫君に相応しく裁縫されたはずのドレスも、ここにあるのは、見るも無惨な代物だった。
踏みにじられた花のように。二度と風に揺れることもなく。
容赦なく千切られたそのドレスは、今朝、サディアスが公務へと出仕した直後に部屋へと届けられた荷の中にあった。切り刻まれたドレスの入っていた箱には、簡素な仕様の一枚のカードが添えられていた。アンジェリカはそのカードを握りしめる。そこには、乱れのない筆記体で宛名が書いてあった。
――親愛なる、アンジェリカ=イーズデイル・オルブライト、と。