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碧の独善  作者: 氷空けい
15/45

15. 追憶


   .

   .

   .


(アンジェリカ様)

(お母様にお別れをしましょう)

(陛下もお待ちですよ)

(アンジェリカ様)

(アンジェリカ様)

(アンジェリカ様)


 知らない。そんなこと知らない。

 母と言われても、母と別れるのだと告げられても、よくわからなかった。生まれてから一度も、母の腕に抱かれたこともなければ、名を呼ばれたこともない。記憶にあるのは、陛下の寵愛を受ける妃としての姿だけだ。遠いひとだった。侍女たちは口を揃えて、よく似ていらっしゃる、と笑うけれども。

 視界に入った髪を掴んだ。癖もなく真っ直ぐに伸びた金色。嫌いだ。大嫌いだった。

 母だという彼女はこの髪を見るとひどく忌まわしい表情をしたし、陛下はいつも責める言葉を口にした。何故、と。何故おまえは母のような銀の髪を持って生まれなかったのか、と。

 知らない。そんなこと。


(知らないもの)


 アンジェリカさまぁ、と遠くから侍女の声がした。弾かれたように声の聞こえた方向を見る。ニーナの声――違う、ノーマかもしれない。『お別れ』の準備から逃げ出したから探しに来たのだろう。自分だけの侍女であるあの双子は、どうしていつも放っておいてくれないのか。唇を噛みしめると、紺色のドレスを翻した。

 他の侍女が決して探していないことはわかっていた。部屋から飛び出したとき、背中に掛かるいくつかの溜息を聞いた。

 女官長の、放っておきなさい、という言葉も。

 ひとりになりたかった。何もかもから逃げ出したかった。どこへも行けないことは知っていても、どこにも居場所がないことも知っていた。


(本当に我が儘でいらっしゃるのですもの)

(眺めているだけならご兄弟の誰よりも愛らしいですけれど)

(まあ、あのリーラ様の御子ですものね)

(母親にも見捨てられて)

(陛下もご興味がなく)

(お可哀想なアンジェリカ様)

(『アンジェリカ』だなんて、本当に……)


 知らない。知らない。知らない。

 息を切らせて走る。耳を塞いで聞こえないふりをする。難しい言葉の意味はわからなくても、悪意に気づくことはできたから。

 誰も通らない道を選んで、城内から抜け出した。薄暗い回廊を抜けた瞬間、真っ青な空が目に飛び込む。高くて遠くて、透明で、美しい空だった。降り注ぐ光は白くて眩い。澱んだ空気ばかりを吸っていた肺に、ひどく清んだ大気が流れ込んだ。

 ぽろりと涙が零れた。

 湧き上がってきた感情に、どうすればいいのかわからなくなる。嗚咽が洩れて口を押さえた。その場に蹲る。泣いたらだめだと思った。だけれども、両目からはぼろぼろと涙が溢れて止まらない。小さな手の、指の隙間に、雫が溜まって光った。




「……どうした?」


 不意に話し掛けられて、びくりと肩を震わせる。聞いたことのない声だった。

 蹲り、手で口を覆ったまま、息を潜める。答えなければきっと立ち去るはずだった。呆れたふうで、可愛げのない子どもだと呟いて。いつもそうだったからだ。だから、近寄ってきた人の気配が遠ざかるのをじっと待った。その間も涙は止め処なく瞳から零れていく。

 けれど、予想に反して草が踏みしめられる音が耳に届き、見つめた地面に落ちる影が濃さを増す。気づいたときにはぐんと視界が高くなって、涙でたゆんだ景色に鮮やかな金色が滲んでいた。そうして、雫を弾かせて瞠った瞳を見返してくるのは碧だった。碧眼。微かに翡翠みどりの混じる自分とは違う、純粋な――

 声の主は、少年だった。

 柔らかそうな金髪が風に吹かれて揺れている。

 細い顎を滑った涙が、抱き上げた少年の頬に落ちた。弾ける。少年はふと眸を眇め、小柄な身体を支える腕の片方を動かして、親指の腹で目尻を拭った。少し乱暴な仕草だったけれど、不思議と怖くはなかった。口を押さえたままで、一度大きくしゃくり上げると、あたたかい手が背中を撫ぜてくれた。


「……だれ」


 呼吸の隙間で呟くと、サディアス、と素っ気ない声が返ってくる。


「おまえは?」


 言いたくなかった。だから口を噤んだ。沈黙を少年はどう受け取ったのかわからなかったが、しばらくしても答えなかったために彼は質問を変えてきた。僅かに小首を傾げてこちらの顔を覗き込むと、一人なのか、と訊いた。

 ひとりだと思う。いつも。ひとりきりだ。

 目を瞬くと、また涙が零れた。胸を締めつける感情の名前は知らない。誰も教えてくれなかった。

 やはり答えずにいると、少年は眉を寄せ、口の端を歪めた。笑ったのかもしれない。見慣れなかったからよくわからなかった。少年の華奢な指が、汗に濡れ、額に張りついた前髪を退ける。それが少しだけくすぐったくて、肩を竦ませた。


「俺も独りなんだ」


 少年はぽつりと言った。碧眼に拠りどころのない小さな影が映っている。


「同じだよ」


 駆けてゆく風の音に消えてしまいそうなほどの囁きだった。優しくて柔らかくて、けれど悲しい声だと思った。

 少年は視線を背けると、どことも知れないところを見遣った。その眼差しの先を追う。回廊から延びた石畳の道の向こうに、小さな城が見えた。離宮。深緑と花に埋もれている。包み込む空気はひどく閑かだ。風が通り抜け、葉や花が擦れ合う音ばかりが聞こえる。人の気配はなかった。

 そっと少年の顔を盗み見る。冷たい横顔に、少し躊躇ってから、恐る恐る手を伸ばした。

 少年がしてくれたように、指で、その目尻に触れる。

 伸ばした手に気づき、少年は振り向くと、取り澄ました表情をくしゃりと崩した。肌に触れた小さな指をやんわりと掴む。そうして碧眼を細め、ひどい顔だなと笑った。あたたかかった。向けられた眼差しも繋いだ手も零れた微笑みも、――寄せられた心も。

 光のように、思えた。


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