15. 追憶
.
.
.
(アンジェリカ様)
(お母様にお別れをしましょう)
(陛下もお待ちですよ)
(アンジェリカ様)
(アンジェリカ様)
(アンジェリカ様)
知らない。そんなこと知らない。
母と言われても、母と別れるのだと告げられても、よくわからなかった。生まれてから一度も、母の腕に抱かれたこともなければ、名を呼ばれたこともない。記憶にあるのは、陛下の寵愛を受ける妃としての姿だけだ。遠いひとだった。侍女たちは口を揃えて、よく似ていらっしゃる、と笑うけれども。
視界に入った髪を掴んだ。癖もなく真っ直ぐに伸びた金色。嫌いだ。大嫌いだった。
母だという彼女はこの髪を見るとひどく忌まわしい表情をしたし、陛下はいつも責める言葉を口にした。何故、と。何故おまえは母のような銀の髪を持って生まれなかったのか、と。
知らない。そんなこと。
(知らないもの)
アンジェリカさまぁ、と遠くから侍女の声がした。弾かれたように声の聞こえた方向を見る。ニーナの声――違う、ノーマかもしれない。『お別れ』の準備から逃げ出したから探しに来たのだろう。自分だけの侍女であるあの双子は、どうしていつも放っておいてくれないのか。唇を噛みしめると、紺色のドレスを翻した。
他の侍女が決して探していないことはわかっていた。部屋から飛び出したとき、背中に掛かるいくつかの溜息を聞いた。
女官長の、放っておきなさい、という言葉も。
ひとりになりたかった。何もかもから逃げ出したかった。どこへも行けないことは知っていても、どこにも居場所がないことも知っていた。
(本当に我が儘でいらっしゃるのですもの)
(眺めているだけならご兄弟の誰よりも愛らしいですけれど)
(まあ、あのリーラ様の御子ですものね)
(母親にも見捨てられて)
(陛下もご興味がなく)
(お可哀想なアンジェリカ様)
(『アンジェリカ』だなんて、本当に……)
知らない。知らない。知らない。
息を切らせて走る。耳を塞いで聞こえないふりをする。難しい言葉の意味はわからなくても、悪意に気づくことはできたから。
誰も通らない道を選んで、城内から抜け出した。薄暗い回廊を抜けた瞬間、真っ青な空が目に飛び込む。高くて遠くて、透明で、美しい空だった。降り注ぐ光は白くて眩い。澱んだ空気ばかりを吸っていた肺に、ひどく清んだ大気が流れ込んだ。
ぽろりと涙が零れた。
湧き上がってきた感情に、どうすればいいのかわからなくなる。嗚咽が洩れて口を押さえた。その場に蹲る。泣いたらだめだと思った。だけれども、両目からはぼろぼろと涙が溢れて止まらない。小さな手の、指の隙間に、雫が溜まって光った。
「……どうした?」
不意に話し掛けられて、びくりと肩を震わせる。聞いたことのない声だった。
蹲り、手で口を覆ったまま、息を潜める。答えなければきっと立ち去るはずだった。呆れたふうで、可愛げのない子どもだと呟いて。いつもそうだったからだ。だから、近寄ってきた人の気配が遠ざかるのをじっと待った。その間も涙は止め処なく瞳から零れていく。
けれど、予想に反して草が踏みしめられる音が耳に届き、見つめた地面に落ちる影が濃さを増す。気づいたときにはぐんと視界が高くなって、涙で弛んだ景色に鮮やかな金色が滲んでいた。そうして、雫を弾かせて瞠った瞳を見返してくるのは碧だった。碧眼。微かに翡翠の混じる自分とは違う、純粋な――
声の主は、少年だった。
柔らかそうな金髪が風に吹かれて揺れている。
細い顎を滑った涙が、抱き上げた少年の頬に落ちた。弾ける。少年はふと眸を眇め、小柄な身体を支える腕の片方を動かして、親指の腹で目尻を拭った。少し乱暴な仕草だったけれど、不思議と怖くはなかった。口を押さえたままで、一度大きくしゃくり上げると、あたたかい手が背中を撫ぜてくれた。
「……だれ」
呼吸の隙間で呟くと、サディアス、と素っ気ない声が返ってくる。
「おまえは?」
言いたくなかった。だから口を噤んだ。沈黙を少年はどう受け取ったのかわからなかったが、しばらくしても答えなかったために彼は質問を変えてきた。僅かに小首を傾げてこちらの顔を覗き込むと、一人なのか、と訊いた。
ひとりだと思う。いつも。ひとりきりだ。
目を瞬くと、また涙が零れた。胸を締めつける感情の名前は知らない。誰も教えてくれなかった。
やはり答えずにいると、少年は眉を寄せ、口の端を歪めた。笑ったのかもしれない。見慣れなかったからよくわからなかった。少年の華奢な指が、汗に濡れ、額に張りついた前髪を退ける。それが少しだけくすぐったくて、肩を竦ませた。
「俺も独りなんだ」
少年はぽつりと言った。碧眼に拠りどころのない小さな影が映っている。
「同じだよ」
駆けてゆく風の音に消えてしまいそうなほどの囁きだった。優しくて柔らかくて、けれど悲しい声だと思った。
少年は視線を背けると、どことも知れないところを見遣った。その眼差しの先を追う。回廊から延びた石畳の道の向こうに、小さな城が見えた。離宮。深緑と花に埋もれている。包み込む空気はひどく閑かだ。風が通り抜け、葉や花が擦れ合う音ばかりが聞こえる。人の気配はなかった。
そっと少年の顔を盗み見る。冷たい横顔に、少し躊躇ってから、恐る恐る手を伸ばした。
少年がしてくれたように、指で、その目尻に触れる。
伸ばした手に気づき、少年は振り向くと、取り澄ました表情をくしゃりと崩した。肌に触れた小さな指をやんわりと掴む。そうして碧眼を細め、ひどい顔だなと笑った。あたたかかった。向けられた眼差しも繋いだ手も零れた微笑みも、――寄せられた心も。
光のように、思えた。
.
.
.