14. 冷酷
(……あれは)
クラリッサが仕立屋と別の部屋に閉じ籠もり、ドレスの採寸をしている間に、カイルは彼女を見つけた。
クロンクビストの第二王子サディアスの、女騎士。アンジェリカ。
探したわけではなかった。採寸が済むまでの暇潰しに、窓に近寄って城外の風景を眺めていたら、偶然アンジェリカが視界に入ってきたのだ。
アンジェリカは一人で外園を歩いていた。あるじの王子は傍にいない。クラリッサたちと共に立ち聞きしたあの口論の後、アンジェリカはサディアスを追わなかったのだと思った。
無意識にカイルは息を潜めた。額に薄く皺をたたみながら、黙ってその姿を見下ろす。
遠目のため、アンジェリカの表情を窺い知ることはできなかったが――何故、何もない外園にいるのかと、少しだけ疑り深い気持ちを抱える。つい先日も、彼女と二人きりで話をしたクラリッサがその後ずっと泣いていたと侍女から聞いていた所為もあるだろう。
アンジェリカはとりわけ何をするでもなく、暫く生け籬の迷路を彷徨って、それからやや奥まった場所にある東屋に落ち着いた。城に背を向け、屋根の下にあるベンチに座ると、ひどく身を縮ませてそのまま動かなくなった。そのさまはまるで、途方に暮れた迷子のようでもあったし、他人を拒絶して孤独の殻に籠もるようでもあった。
カイルにはわからなかった。彼女が何を考えているのか。露ほどにも。
ただ、眼下の騎士はとても小さく思えた。
淡い金髪が風に攫われて揺れる。世界を隔てる彼女は、瞬きの隙間に消えてしまいそうだった。
(何が知りたいんだ、カイル・キャヴェンデッシュ? 下世話な噂の真相か? ――それとも)
不意にサディアスの声が甦ってきた。憤怒と嘲笑。あのとき、僅かに滲んだ感情は悲哀だったのだろうか。
そうですよ、とカイルは心の中で答える。知りたいのは隠匿された過去。二行しか書かれていなかった紙を埋める騎士の昔日。
(何もないさ)
(知ったところで抱えきれないのに、曝いてどうする)
(常闇と孤独だ。誰にも救えない。傷つけることはできても)
愚かなことをしたのだと。サディアスは言った。
耳の奥で残響する声に、カイルはさらに深く眉間に皺を寄せると、ふいと顔を背け、窓辺から離れた。
一手を打ったことを後悔はしていない。普段は怜悧な王子がああも感情を顕わにするということは、アンジェリカの素性が知られてはならないものだからに違いないだろう。明らかにしなければならないと、カイルは一種の使命感を抱いている。素性不明の女を、次期女王の――大事な従妹の近くに置いておくなど、許すべきではないからだ。
部屋の中央で立ち止まり、カイルは目蓋を下ろした。
網膜に灼けついた孤独な背を、暗闇に溶かす。迫り上がる感情は押し殺した。自分は何も見なかったのだと言い聞かせる。
夫であるサディアスを慕い、恋しがって、潰されそうなほどの不安を抱えているのはクラリッサだ。寂しいのもクラリッサ。守らなければならないのも、クラリッサ一人だ。
――誰もいない生け籬の迷路。彷徨った影。消えてしまいそうな金色は。
カイルには関係がない。
(それにわたし)
聞こえてきたのは、笑う声。それは、ただ一度だけ耳にした彼女の本音のような気がした。
(ルツィエが大嫌いですから)
馬蹄の音が高らかに地を蹴って近づいてくる。蜜蜂を模した紋章、紫の旗幟を靡かせた騎兵を先頭に、門を抜け、彼らは王城へやって来た。クロンクビスト王一行の遠来である。
両陛下、王女のクラリッサ、そしてその夫でクロンクビストの第二王子のサディアスが横に並んで立ち、城の玄関でヴェンネルヴィク王家は国賓を出迎えた。カイルは彼らの後方、宰相の傍らに立ち、クロンクビスト王とその妃が馬車から降り立つのを見ていた。
毛並みの美しい黒毛に牽かれた車から降りてきたクロンクビスト王は、後を続き降車する妃に手を貸し、それから二人揃ってヴェンネルヴィクの面々に歩み寄ってきた。
クロンクビスト王。
フェビアン=モーズレイ・オルブライト。
カイルはそれとなく彼を窺った。その容姿はやはり金と碧に彩られ、弟のサディアスに似ていたが、髪がやや長めで中性的な面立ちの所為か、フェビアンの方が柔和な印象を受けた。フェビアンは御年三十前後だったと記憶している。それでも、老年の自国王と並び立っても王としての気品には僅かな遜色もなかった。立ち居には貫禄さえあり、大国と小国の差を感じさせるほどだ。
国王陛下が進み出て、フェビアンと握手を交わした。
「フェビアンどの、ようこそ小国までお出で下さった。ご無事の到着、何よりです」
「今回はお招き頂き、感謝します。私ども一同、楽しみにして参りました」
「ああ、挨拶はまた後ほどと致しましょうぞ。長旅でお疲れだと思いますからな」
爽やかに言葉を交わし、陛下はにこやかに微笑んだ。それを合図に宰相が進み出て、こちらです、と一行に案内をする。
だがフェビアンはそれを片手を上げて遮ると、陛下から視線を移して、サディアスと顔を合わせた。
「久しいな、サディアス。息災だったか?」
久しぶりに兄と会ったというのに、サディアスは表情を崩さず、素っ気ないとも思えるふうで、ええ、と答えた。
「兄上もお元気そうで」
「はは、おまえが言うと厭味にしか聞こえないな」
軽やかな笑みを振りまき、フェビアンは一度周囲を見回す。義姉上もお変わりなく、とサディアスがクロンクビスト王妃に挨拶をしているとき、フェビアンの碧眼がクラリッサを捉えた。睫毛を瞬かせ、ああ、と口角を緩める。
「貴女がクラリッサ姫ですね」
口許に湛えた笑みは誰もが見惚れるものだった。蕩けさせる、とは彼の微笑のことを指すのかもしれない。
サディアスが笑うとこんなふうなのかとぼんやり思ったカイルの目前で、フェビアンは緊張に身を強張らせているクラリッサの手を取ると、少しだけ腰を折り、優雅な挙措でその甲に口づけた。そしてそのままの体勢で上目遣いにクラリッサを見て、初めまして、と柔らかに碧眼を細める。
クラリッサの頬が仄かに赤くなったのにカイルは気づいた。従妹のその初心さが可愛いのだけど、と内心で苦笑する。国賓の面前で感情に柔順なのは、同じ王族として、また国の官吏としては少々困る。
王妃は呆れた表情をしていた。サディアスは、兄上、と心なし棘のある口調で窘める。
「姫は純真なのです、誑かさないで頂きたい」
「サディアス様の仰る通りです。陛下は時々本当にお人が悪うございますよ」
細君からも責められて、わかったわかった、と笑い、フェビアンはクラリッサの手を離した。肩を竦めると、表情を改める。
「では改めて。クラリッサ姫。――私はクロンクビスト王、フェビアンと言う。これは妻のミシェーラ。サディアスとの突然の婚姻には色々と驚かれたでしょう、その節はこちらの事情でご迷惑をお掛けして申し訳なかった」
「あ……いえ、そんな」
「今更だが、成婚に祝福と万謝を」
微笑みと共に零れた誠実な言葉に、クラリッサもようやく余裕を得たらしい。フェビアンを見つめ、穏和な笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、フェビアン様」
うん、とフェビアンは頷く。それから彼は再びサディアスに視線を動かした。
小さく首を傾げると、そういえば、と呟きながら、やんわりと眸を眇める。
「サディアス、アンジェリカはどうした?」
突然の問いだった。
――否、カイルには突然の問いに思えた。
ただ、頭の隅ではやはりと考えている自分もいる。アンジェリカは一介の騎士ではないのだと。だから黙ってクロンクビストの兄弟を注視した。クラリッサは目を瞬き、訊ねたフェビアンを見て、それからサディアスを見遣っていた。カイルには困惑しているふうに見えた。
王妃ミシェーラは睫毛を下ろしている。頬に落ちた影が震えていた。
だがサディアスだけは様子を変えなかった。淡々とした眼差しで兄を見据え、具合が悪いんですよ、とさらりと答える。
「陛下がいらっしゃるのに出迎えないわけにはとは言っていましたが。先日から情緒不安定でしてね、そんな状態の騎士を傍に置いていても役には立ちませんし、寧ろお目障りかと思いまして。部屋にいるように命令しました」
「そう。……あんなに仕事熱心な子を軟禁しているのか、おまえは」
ふと眉を顰めて言ったフェビアンに、だから何です、とサディアスはつれなく言う。
「これから数日間は多数の兵士や騎士が城中に配置されますから、問題はありませんよ、兄上。――何か不都合でも?」
突き放すような言い方だった。
サディアスには時々こういうところがあるとカイルは思う。祖国から唯一連れてくるほどの女であるはずなのに、興味もないような素振りをする。睨みつけるなど可愛いもので、怒鳴りつけたり、置き去りにしたりすることもあった。信頼や執着の反面で、時折、カイルには理解できない冷徹さを覗かせるのだ。
孤独な背が脳裏を過ぎる。忘れたはずの寂寞が甦って、カイルの胸を疼かせた。
フェビアンは溜息を吐いた。
「アンジェリカが心配だな。本当にこんな男が主人でいいのか」
その呟きには無関心なふうで、さあ、とサディアスはフェビアンを促す。立ち話もいい加減にしましょう、と。
「義姉上、ご案内しますよ」
「あら、サディアス様が? ありがとうございます」
一方的に会話を切ったサディアスは王妃と親しげに遣り取りをし、クラリッサを伴って、城の中へと歩いていく。
フェビアンは仕方なさそうに小さく肩を竦めると、改めて陛下と一言二言交わした。フェビアンどのも、と陛下が言うと、宰相が、カイル様、と声を掛けてきた。フェビアンの眼差しが注がれる。カイルは静かに微笑んだ。
「お初にお目に掛かります、フェビアン様。文官のカイル・キャヴェンデッシュと申します。この度のご滞在のおもてなしをさせて頂く上で、統括責任者を拝命しております。御用命がございましたら、何なりとお申しつけ下さいませ」
「……ああ、君が。カイル・キャヴェンデッシュ」
一通りの口上を述べたとき、納得したような呟きが返ってきた。カイルはフェビアンを見つめた。
「君が今回の会合の提案をしてくれたと聞いている。弟たちの策謀には手を焼いていてね。正直助かったよ、ありがとう」
フェビアンが口許が象った笑みは柔らかかった。しかし、碧眼は。
「これで取り戻せる」
眼差しの奥に、知らない光を見た。
サディアスのものとは違う、もっと冷酷で、狂気じみた――
背筋に汗が滲むのを感じた。カイルは、フェビアンの碧に宿る何かから目が離せなくなる。向けられた笑みは親和的である気がするのに、ぞっとするほど酷薄にも思えた。伸ばした指先が凍りつく。何かを間違えたのだ、と。無意識が囁いた。
目前に立つのは王だ。
ヴェンネルヴィクとは意味の異なる、王だ。
ふっとフェビアンは微笑を零した。くすくすと笑う声がする。カイルは顔に強張った笑みを張りつかせながら立ち竦むしかない。
「君の気鬱なら知っているよ、カイル。大丈夫だ、すぐに取り除いてあげよう」
顔を寄せ、フェビアンはカイルの耳許でささめく。声が出なかった。
「美しい鳥は、籠の中で愛でるためにいるのだから」