13. 恋の影
夜会の開催――
クロンクビスト王を招いて――
サディアスは足早に廊下を歩きながらずっとそのことを考えていた。夜会の開催をヴェンネルヴィク王から初めて聞かされたのは、アンジェリカが姫を泣かせたという、あの日から一週間ほど経過した頃だった。
ヴェンネルヴィクの王城で、王室が目を掛けている人々を集めて夜会を行うのかと思えば、話はクロンクビスト王を招いて、とのことだった。婚礼の際、クロンクビストからは誰一人出席できなかった――事実は、しなかった、のであるが――ために、今後の国交を担っていく娘を披露することが叶わず、ヴェンネルヴィク王としてはそれが悔やまれてならないのだという話だった。
だから何だと思った。故国がこの小国に期待など最初からしていないことをサディアスは知っている。
無意味に近い親交だ。――否、サディアスが婿入りをさせられた背景を考慮してみたなら、無意味どころか、最悪だった。
クロンクビスト王に――兄に、再びアンジェリカを見えさせるなど。できるわけがない。
今はもうヴェンネルヴィクに所属している人間が国益を考えないのは背信行為だと承知していたが、それでもサディアスは言葉を費やして夜会を取り止めさせようとした。しかし時は既に遅く、クロンクビストへの招請は早々に行われていて、国家間で時日も取り決められてしまっていた。
一つの相談もなく、全く知らない間に十全の用意が成されている。故国との交渉を行うなら、サディアスを通すことが最も手っ取り早いのに、だ。実行の素早さを不審に思わないはずがなかった。
第一、時機もおかしい。何故今更そんなことを言う。
何か他に理由があるのだと、すぐに策謀を感じたのは、故国の政情の中枢を生きてきたためだろう。
サディアスから見て、ヴェンネルヴィクの現王は決して狡猾な人物ではない。王座に在るだけの飾りではないが、人の裏を掻き、打算的なことは不得手に思われた。上昇志向がなく、現状を緩やかに保つことに重点を置く、非常に物静かな老年の男なのである。国同士の深い繋がりを要求することも稀で、自国の貴族とは常につかず離れず、王妃共々、社交にもさほど興味を抱いていない。年齢を重ねてから誕生した一人娘を掌中の珠として盲愛しているのは周知の事実だが――
披露、という言葉にも違和感があった。
見せびらかすのを好まないから、次期女王でありながら、娘は深窓の姫君だったのではないのか。
だから、疑いを抱いたサディアスの脳裏にふと思い浮かんだのは、王の片腕である宰相と――姫の従兄であるカイルだった。何度か顔も合わせている。父王に負けず劣らず姫を溺愛しているのは、見ていればわかった。
そして、サディアスと姫が不仲だという噂を聞き、最も懐疑的なのがカイルだった。
カイルは王族の一員でありながら文官でもある。確か祭祀や式典の類を担当していたはずだ。
夜会の開催をヴェンネルヴィク王に持ち掛けたのはカイルではないか。目的は――アンジェリカ。噂を気に掛け、素性を調べた可能性がある。何もわからなかったに違いない。アンジェリカに関する殆ど全ては抹消されている。そしてクロンクビストの王族ではなく、敢えて王を招聘する理由に、思うところがあるのは明らかだ。
疑心が首を擡げる。だが、あくまでも仮定の話だった。ヴェンネルヴィクに自由に扱える手駒があまりに少ないサディアスには、真偽を確かめる術がない。
――ならば試せばいい。
そう考えていたときに、折良く、当のカイルと鉢合わせた。先頃から不安定で、強情な態度を続けるアンジェリカと口論になった直後のことだった。カイルは、姫やその侍従と共に廊下で立ち止まっていた。
「貴方だろう、陛下にあれを打診したのは」
「……あれ、とは?」
アンジェリカへの苛立ちもそのままに、凍てつく眼差しで睨みつけて訊ねれば、カイルの表情は僅かばかり強張った。瞳が揺らぐ。それを見逃すはずもなく、サディアスは口許を歪めた。言葉ばかり惚けても無駄だ。ヴェンネルヴィクの人間たちは、誰も彼もが謀に向いていない。感情を殺すのが下手なのだ。
幸せなことだと、サディアスは胸中で唾を吐く。
心が荒んだ。無知は罪だと今ほど思ったことはない。サディアスはカイルから目を背けると、足早にその場を去った。嫉妬や羨望、憤怒を超えて、ただ悲哀を抱く。――今更、おのれの生まれを嘆いても、兄との再会を憎んでも、仕方のないことだとはわかっている。
(……わかっているんだ)
執務を終えてサディアスが自室に戻ると、そこにアンジェリカの姿はなかった。主室も寝室も、その他の部屋にも、どこにもいない。
予期しなかったことにサディアスは眉を顰めた。
悪夢が襲い来る夜を除いて、主従関係を頑なに守ろうとするアンジェリカは、たとえサディアスが手酷く扱ったとしても必ず傍に在ろうとする。昼間の口論の後はさすがについて来なかったが、部屋に帰れば待っているだろうと思っていたのに。
サディアスは踵を返した。部屋を出て行く。思い当たるアンジェリカの居場所があったわけではなかったが。
――クロンクビストにいた頃のアンジェリカは、人を好まず、独りきりになれる場所に身を隠すことが多かった。ヴェンネルヴィクに来てからは一度として他人から逃れようとしたことはなかったけれども、幼少期から染みついた習慣が容易く消えるはずもない。
そう考えると見当はついた。恐らくアンジェリカは城内にはいないだろう。
中庭は王族や貴族が集うサロンに通じる場所で、夜が更けても洋燈の灯りが煌々と照っている。孤独になりたがるアンジェリカがいるとは思えなかった。対して、城壁と本城の間に広く造られた外園は、生け籬が迷路の如く連なり、静謐の支配する場所だ。
アンジェリカは外園にいるに違いなかった。
サディアスはふと廊下に設えられた窓に視線を向けた。完全に陽は落ちて、外には闇が満ちている。音もなく幾千の星が瞬いていた。その眩さに目を細め――サディアスは我に返った。舌打ちし、急いで身を翻す。
――最近のアンジェリカはひどく情緒不安定だとわかっていたはずだった。
傍目に見れば、何の代わり映えもなく普段通りに思えるが。騎士として仕事を遂行することに固執している上、夜は、投薬も効かず、サディアスが傍にいても眠れない。だが、ひどい顔色をしていると指摘しても平気だという一点張りで、決して休もうとしないのだ。
アンジェリカは環境に適応できないまま、負担だけが大きくなっているようだった。
その上、近々、兄が来訪するかもしれない。
月のない夜空を見上げて、アンジェリカは怯えているのだとようやく気づく。
(アンジェリカ)
外園に辿り着いて、サディアスは奥まったところにあると記憶している東屋を探した。窓を透かして届く城の灯りを頼りに、生け籬の間を歩いていく。夜風に吹かれて、草木が静かに音を立てていた。
いくつかの角を曲がると拓けた場所に出た。円く包み込むように籬が植えられ、その中心に闇に浮かび上がる白い東屋がある。
サディアスはアンジェリカを見つけた。
世界を拒絶するように、東屋のベンチに膝を抱えて蹲っている。サディアスは碧眼を眇めた。
柔らかな草を踏みしめて、気配を消して近づく。アンジェリカは俯いたままだ。東屋の階段を上る手前まで至って、サディアスは、その場所に備えられた円卓の上に零れる銀の輝きに目を瞬いた。美しく綻んだ一輪の花――
ルツィエ、と呟く。サディアスは小さく息を呑んでアンジェリカを見遣った。
吹き込んだ一陣の風が、淡い色をした金の髪を撫でていく。
「……アンジェリカ」
呼び掛けに、華奢な肩が震えた。
アンジェリカはふるりと首を振るうと、膝に埋めていた顔を上げた。ひどく緩慢な動作だった。
ゆっくりとサディアスを仰いだその眼差しは、心細そうに居竦まっていた姿とは掛け離れて、ただ静寂だけを湛えている。
サディアス様、と囁くと、アンジェリカはそっと微笑した。
遠くの灯りが新月の闇を幾許か薄くしている。それでも、宵の中、サディアスが見つめたアンジェリカの微笑みは今にも消えてしまいそうだった。隣に腰を下ろしたサディアスは、アンジェリカを心許なく感じ、手の甲でさらりとその頬を撫ぜた。
そのまま表情を隠す髪を掻き上げる。アンジェリカは擽ったそうに目を細めた。
触れた肌は水のようにひんやりとしていて、サディアスは思わず渋面になる。
「いつからここにいた……?」
今度は手のひらで細い輪郭をなぞる。アンジェリカは微苦笑を洩らした。
「さあ……はっきりとは憶えていません」
そう答え、アンジェリカは目を伏せた。頬を滑るサディアスの手を自分の手で上から覆うと、ぬくもりを欲しがるようにすり寄った。浅く息を吐く。金糸のように繊細な睫毛が震えていた。
サディアスはアンジェリカを抱き寄せる。
滑らかな髪に指を通し、おのれの肩口に額を押しつけ、頭のてっぺんに口づけを落とした。アンジェリカは抵抗しなかった。
サディアスはさらにアンジェリカの柔い体躯を掻き抱いた。どうせなら、この腕の中で潰してしまえれば――
「……あなたの心臓に産まれてきたかった」
ぽつりとアンジェリカは言った。サディアスの心臓の丁度真上に、指を這わせながら。
「アンジェリカ」
「そうしたら、いつだって、寂しくならずに済んだのに。……離れる恐怖に怯えなくてもよかったのに」
一瞬だけ、アンジェリカの視線が円卓のルツィエへと向かった。けれど眉をたわめるとすぐに逸らされる。サディアスの胸に顔を埋めてきた。
新月の花。一縷の隙もなく美しいルツィエ。銀の光を纏う一輪を眺めて、サディアスは瞳を翳らせた。――忌まわしい記憶が甦る。それは恋着した男の狂気だった。片恋の花。ルツィエ。決してひとつにはなれなかったふたりの。
呪縛と絶望の象徴。
それでも未だに、花びらの一枚すら千切れずにいる。
どうしてルツィエがここにあるのか、サディアスは訊けなかった。だからただ、めずらしく甘えてくるアンジェリカを抱きしめる腕に力を籠める。
「……アンジェリカ」
「あなたがいてくれればわたしはそれだけでいい。他には何もいらない……」
か細い声は頼りなく静謐に溶けていく。控え目にシャツを握る指先の熱をひどく恋しく想った。
永遠を約束できたならよかった。どんな形でもいいから、永遠に共に在りたかった。傷を舐め合い、独り善がりを繰り返し、歪な関係と蔑まれても構わなかった。幸福ではないことが不幸なのだと誰が言っただろう。このまま共に堕落してしまえばいい。サディアスはそう願うことがある。――それでも。アンジェリカがあまりに必死に、サディアスの幸福を願っていることを知っている。
サディアスは目蓋を下ろした。過ぎ去ってなお侵蝕を続ける昔日を憎悪している。だから、迫り来る明日が崩壊し、今はまだ腕の中にあるぬくもりを失わないことだけを祈る。祈るしかなかった。手立てを講じても、儘ならないこともあるとわかっていたから。
髪に頬を寄せ、息を吸う。漂う微かな花の匂いに、無垢に微笑んだ子どもを思い出した。