森の中
ミュラーとラルク、リュエルミラ領主とエルフォード領主代行が揃って行方不明という非常事態になっているが、少なくともミュラーの安否についてはローライネを始めとした皆が心配こそすれ、その生存については疑いを持つ者はいなかった。
それ故にミュラー不在のリュエルミラを領主の婚約者ローライネ、領主の側近フェイレス、行政所長のサミュエルが中心となってしっかりと守り抜くために皆が奮起したのである。
「大丈夫です。ミュラー様が直ぐに戻らないというには理由がある筈ですわ。今、ミュラー様が戻れない理由があるとすれば貴女の弟、ラルクさんのことに他ありませんわ。きっと、必ずミュラー様がラルクさんを連れて帰ってきますわ!」
未だに不安げなソフィアに胸を張って見せるローライネ。
そこまでされたならばソフィアも気持ちを切り替えなければならない。
「分かりました!父が病に伏し、弟が不在ならば私がエルフォード領主の代理をしなければなりません。リュエルミラの皆さんにばかりご負担を掛けるわけにはいきません」
ソフィアはエルフォード領兵の生き残りや家臣達を集め、リュエルミラに協力して避難民の保護に当たらせる。
姉として弟のラルクの身を案じる気持ちに変わりはないが、それよりも領主の一族として果たすべき責任があるのだ。
今は弟のことよりも着の身着のままで避難した民のことを第一に考えなければならない。
こうしてリュエルミラ、エルフォードの者達が一丸となる一方で、当のミュラーはエルフォード領の北部にある樹海の中にいた。
フェイレス達と分断された時、撤退する仲間達とは逆方向に退路を見いだしたミュラー。
騎乗の術が決して上手いわけではないミュラーだが、走竜はミュラーの意思と技量を遥かに上回る機敏さでヘドロスライムを撒き散らす古代スライムの目前を駆け抜けた。
主を守ろうと必死に走る走竜に加え、フェイレスが放ったジャック・オー・ランタンがミュラーの周囲を飛び回り、無数に降り注ぐヘドロスライムを炎で焼き払う。
そうして古代スライムが撒き散らすヘドロスライムの脅威を逃れたミュラーは進路の先にあった森へと駆け込んだ。
その森はエルフォード北部に広がる樹海だった。
この樹海も領地として含めればエルフォードは帝国の大貴族にも引けを取らない程の広大な領地を有することになるのだが、凶悪な魔物が生息し、人の手が及んでいないその森は、人が管理出来ない危険地帯として帝国領でありながら貴族領としての領有権を許されていない特殊な森だ。
「さて、ひとまずは危機を脱したが・・・。これは新たな危機に飛び込んだということか」
独り言、というよりはミュラーを守りながら周囲を漂っているジャック・オー・ランタンにでも向けたかのように呟くミュラーだが、言葉が通じているのか、いないのか、返ってくるのはケタケタと笑い声ばかり。
「ハァ・・・さて、どうしたものか」
ジャック・オー・ランタンとの意思疎通を諦めたミュラーの目の前に広がるのは単なる森とはかけ離れた異様な風景だった。
凶悪な魔物が生息していようとも、ミュラーにしてみれば警戒はしても危機とまでは感じることはない。
それはミュラーの驕りというものではなく、目的が違うということだ。
ミュラーはこの森に魔物の討伐に来たわけではないのだから、凶悪な魔物が生息していたとしても、わざわざ魔物に近づく必要はなく、逃げて隠れればいいだけで、ミュラー1人ならばそれほど難しいことではない。
しかし、今ミュラーの前に広がるのはヘドロに汚染された森の風景だった。
この広大な樹海にも古代スライムの脅威は広がっていたのである。
「ヘドロ溜まりはあるが、古代スライムが移動したような形跡はないな。となると、分裂体のスライムが樹海に入り込んだと見るべきか・・・」
ミュラーが見立てたとおり、森はヘドロに汚染されているとはいえ、古代スライムが動き回ったようなまとまった痕跡はなく、小さなヘドロ溜まりがあちこちに点在し、周囲の草木を腐らせている。
ふと見れば、点在するヘドロ溜まりの中にモゾモゾと動いているものがある。
生きた?ヘドロスライムだ。
「普通のスライムのように倒せるのか?」
剣を抜いて構えてみたミュラーだが、ふとバークリーが杖でヘドロをつつき回し、杖が侵蝕された時のことを思い出す。
ミュラーは漂っているジャック・オー・ランタンを見た。
「試しに焼いてみてくれないか?」
ヘドロスライムを指示しながら問いかけるミュラーに対し、1体のジャック・オー・ランタンが前に出た。
ケタケタと笑いながらヘドロスライムの周囲を2回程飛び回ったジャック・オー・ランタンは矢庭にカボチャの頭の口から激しい炎を吹き出した。
「あっ、言葉が通じた・・・」
吞気に呟いたミュラーだが、焼かれたヘドロスライムを見てみれば、ヘドロごときれいに焼き尽くされて跡形もなくなっている。
「この程度の大きさならば炎も有効か。しかし、あのデカいのを焼くとなると・・・そう簡単にはいかなそうだな」
ジャック・オー・ランタンの笑い声しか返事のない中、ミュラーは思案する。
更にもう1体のヘドロスライムを見つけたミュラーは今度は剣による物理攻撃を試してみることにした。
剣を抜いてヘドロスライムとの間合いを詰めるミュラー。
そうはいっても安易に斬り掛かるようなことはしない。
剣を脇に構えて腰を落とし、狙いを定めながら呼吸を整える。
「・・・フッ!」
神経を集中し、ヘドロスライムの中心目掛けて横凪に一気に斬り抜く。
一閃!
ミュラーの剣はヘドロスライムを両断した。
ヘドロに隠れた核を斬られたヘドロスライムはその形状を維持することが出来ずに崩れてヘドロ溜まりへと変わる。
「剣撃でも倒せるが・・・現実的ではないな」
たった今、ヘドロスライムを斬った剣を確認するミュラー。
刀身にはヘドロの滴すら付着していないが、これはミュラーが神経を集中して狙いを定めて剣を振り抜いたからだ。
並の腕の者がおいそれと真似出来るとは思えないし、ミュラー自身もヘドロスライム1体ごとに必殺の一撃を繰り出すわけにもいかない。
それこそ、失敗すれば愛用の剣が駄目になってしまう可能性があるのだ。
「さっさと森を抜けて迂回しながらリュエルミラに帰ろうと思ったが・・・。手ぶらで帰るよりも、もう少し調べてみた方がよさそうだな」
改めて周囲を見渡したミュラーは樹海の奥へと分け入っていった。