ローライネ・エストネイヤ
ローライネ・エストネイヤは父親のことが嫌いである。
エストネイヤ伯爵家の七女の立場ではあるが、母親はエストネイヤ伯爵の正妻ではなく3番目の側室であり、しかも平民出の側室であったことから伯爵家の家督の継承権を与えられず、母と2人、領内の外れにある屋敷で数名の使用人と共に生活していた。
とはいえ、貴族の娘であることに違いはなく、何不自由ない裕福な生活と十分な教育の機会が与えられたが、父親の愛情というものを受けた記憶はない。
特に、5年前に母が他界してからは年に1、2回顔を合わせるだけであり、その度に父親は自分のことを政策の道具としか見ていないことを感じていた。
いずれ他家へと嫁がされる運命にあったが、平民出の側室の娘であることから母親違いの姉や妹達よりもその価値が低く、姉や妹達が他の貴族や皇室に近い家へと嫁ぐ中、ローライネは政略結婚の機会すら与えられずに22歳になった。
早い者では14、5歳で嫁ぐこともある貴族の娘としては完全に行き遅れである。
このまま父親からも忘れ去られ、何も残せぬまま死んでゆくのではないか、と思っていた矢先に降って湧いたかのように縁談の話が舞い込んできた。
ある日突然父に呼ばれて本家の屋敷を訪れたローライネ。
本家には2人の姉と2人の妹、5人の弟がいるが、何れも正妻か、貴族出の側室の子供達であり、ローライネとは立場が違う。
2人の姉にしても、ローライネより年上であるが、大貴族の次男や三男と婚約しており、年下の婚約者が成人するのを待っているだけで、その将来は約束されている。
そんなわけで、姉や妹達はローライネのことをあからさまに見下しているが、ローライネ自身はそんなことは気にしない、ことにしていた。
エストネイヤ伯爵の目の前に5人の娘達が並ぶ。
伯爵はその娘達の端に立つローライネを見た。
「ローライネには帝国の西端、リュエルミラを治めるミュラー辺境伯の下に嫁いでもらう」
父の言葉に姉や妹達が憐れみを含めながらクスクスと笑う。
ローライネが嫁ぐことを予め知っていたのだろうが、その反応は理解できる。
リュエルミラのミュラー辺境伯といえば、平民出の軍人であり、軍隊では数多くの手柄を立てたが、その大半は負け戦の中での手柄で、決して栄光ある実績ではない。それでも数々の武功を立て、出世したミュラーは、それを疎まれた大貴族の策略によって軍を追われて内情不安定なリュエルミラを押し付けられたという噂は聞き及んでいるし、その策略に父が絡んでいたことも知っている。
つまり、辺境伯という貴族階級にあっても帝国の貴族社会では敵だらけで将来性も無いということだ。
姉妹達が面白半分に憐れむのも無理はない。
しかし、政敵として見ているミュラーの下にローライネを嫁がせようとする父の考えが分からない。
行き遅れの娘を厄介払いするにしても不自然過ぎる。
今回の縁談、というか縁談ですらないらしい。
聞けば、ミュラー辺境伯の承諾どころか、縁談の打診すらしていないようで、こちらから問答無用で押しかけて行くということだ。
それでもローライネに拒否権は無いし、拒否するつもりもない。
「お父様、私はお父様の決定に異論はありません。エストネイヤ伯爵家の娘として嫁げというならば、それに従います。それでも、この度のことはミュラー辺境伯に対して無礼極まりない行為です。当然ながらミュラー様の不興を買うことでしょう。もしも、私がミュラー様に受け入れられなかった場合は如何しますか?」
ローライネの言葉にエストネイヤ伯爵は冷たく言い放つ。
「ミュラー辺境伯に嫁いだ時点でお前はエストネイヤ家から籍を抜くし、仮に受け入れられなかった場合にもお前にはエストネイヤの家名は捨ててもらう。お前がエストネイヤの名を使えるのはミュラー殿に嫁ぐその時までだ。私はお前に何も期待していないし、お前もエストネイヤ家を頼ろうとするな。つまり、お前が帰るべき家は無い。ミュラー殿に見初められなければ何処かで働き口でも探せ」
「そうしますと、私はミュラー辺境伯に嫁いだとしても、エストネイヤ家のために為すべきことは無いと仰るのですか?」
「そのとおりだ。私が望むのはお前がミュラー殿に嫁ぎ、そこで勝手に幸せになることだけだ。リュエルミラと我が家との間を取り持つ必要はないし、ミュラー殿を害する必要もない」
あまりにも冷た過ぎる言い草だし、父の意図も全く分からない。
これでは政略結婚ですらない、本当に厄介払いなだけではないか。
実際に横で姉妹達が嘲笑していても父は咎めようとしない。
それでも、ローライネの気持ちは決まっていた。
少なくとも、このまま忘れ去られるよりはずっとマシな人生になることに一縷の望みを託して会ったことすらない10歳も年上のミュラー辺境伯の下に嫁ごうと決意する。
しかし、この時のローライネは自分を冷たく突き放す父の真の思惑には全く気付いていなかった。
そして、ローライネはリュエルミラにやってきて、ミュラーに輿入れを宣言してのけたのだ。
突然の宣言にミュラーは石化した。
「聞くところによればミュラー様は他の貴族の後ろ盾も付き合いもなく、社交界での嗜みもご存知ないとのこと。私もエストネイヤ伯爵家を出る立場ではありますが、貴族社会での常識や立ち振る舞いは身につけておりますの。ミュラー様の妻として必ずやお役に立てますわ」
高飛車な物言いのローライネ。
敢えて下手に出ず、取り繕うことなく、素の自分をひけらかすのはローライネにとっても大きな賭けだった。
ただ、惜しむらくは石化して椅子に同化しているミュラーの耳にローライネの言葉が届いていないことだ。
そんなおかしな空気の中で仕事ができるクリフトンは平静を取り戻し、ミュラーがローライネを受け入れても、そうでなくても対応できるようにあらゆる事態を想定し、対処法を検討し始めた。
マデリアとステアはメイドとしての分をわきまえて澄まし顔で控えている。
ただ、ミュラーに対するローライネの態度と物言いにマデリアが僅かに殺気立っているが、ローライネは気付いていない。
そして、フェイは無表情でことの成り行きを見守っていたが、いつまでも石化が解けないミュラーを見て深くため息をつくと持っていた杖を翻し、ミュラーの頭目掛けて打ち込んだ。
ゴンッ!
「グッ!」
謁見の間に響き渡る鈍い音と、ミュラーのくぐもった声に今度はローライネが凍りついた。
「主様!いい加減に正気を取り戻してください」
「・・・・あっ?あぁ・。一体何が?」
フェイの一撃と叱責で石化が解けたミュラーだが、どうしても状況が飲み込めない。
「しっかりなさってください。エストネイヤ伯爵家のご令嬢であるローライネ様が主様に嫁いできたということです」
フェイの説明に徐々に落ち着きを取り戻すミュラー。
「そうか・・・う~む、ダメだ、さっぱり分からん」
冷静になってみたが、やはり頭の中が混乱して理解できない。
「とにかく!場所を変えよう。私の執務室でお茶でも飲みながらもう一度詳しく聞こう」
普段は使わない謁見の間の堅苦しい雰囲気に馴染めないミュラーは仕切り直しを図った。