皇帝に泥水を啜らせた男
少年はラルク・エルフォードと名乗った。
当主である父が病に臥せているため、嫡男のラルクが父の名代として参加したのであり、エスコートしているのは姉のソフィア・エルフォードとのことだ。
(エルフォード子爵。確か、定型的な内容の挨拶状を受けとったな)
エルフォード子爵家について記憶を辿るが、挨拶状を貰った程度の記憶しかない。
「初めまして、エルフォード殿。領主着任の折には丁寧な祝状をいただきました。改めてお礼申し上げます」
とりあえず定型的な挨拶で誤魔化すミュラーだが、ラルクは逆に恐縮してしまう。
「そんな丁寧なお言葉はお止めください。当家は領地も少なく、力もありません。しかも、僕、私は父の名代でして、本来ならばミュラー様に声を掛けるのも恐れ多いことです」
声を掛けてきながらシュンとしてしまうラルクにミュラーは困惑する。
そもそもミュラーは子供の扱いなどまるで分からないのだ。
ミュラーが対応に困っているのを見かねたフェイが歩み出る。
「ラルク様、我が主のミュラーはご存じのとおり軍隊生活が長く、堅苦しい性格です。しかも、社交界での別の意味で堅苦しく、気の利いた会話などはまるで出来ません。・・・そうですね、お許しいただけるならば、やや乱暴ですが、軍隊式の言葉遣いで宜しいですか?」
軍人であるミュラーに憧れていたというラルクはフェイの提案を聞いてパッと表情を明るくした。
「はい!是非そのようにお願いします。僕のことはラルクとお呼びください!」
ラルクの緊張が解れたのを見たフェイはミュラーに目配せして再び背後に控える。
フェイの助け船によりミュラーの方も肩の力が抜けた。
「それではラルク、何時もの口調で話させてもらう。改めて自己紹介しよう、リュエルミラ辺境領主のミュラーだ。よろしく」
ミュラーの言葉にラルクは目を輝かせ、嬉しそうに背後の姉を振り返る。
ソフィアは優しい眼差しで頷いた。
聞けば、エルフォード子爵家の所領はリュエルミラの北東に隣接しているが、小規模な領都が1つに小さな村が点在しているだけらしい。
しかも、帝都からリュエルミラに向かう街道から外れているため、ミュラー自身もエルフォード領が隣接していることを知らなかった。
「僕、ミュラー様がリュエルミラ地方を治めると聞いて凄く嬉しかったんです。是非とも仲良くしてください!」
狙っているのか、それとも単に無邪気なだけなのか、シレッと友好関係を結ぼうとしてくるラルク。
ミュラーも大人だし、あえて敵を作るつもりもないのでニッコリと笑みを見せる。
「折角の機会だ、歳は離れているが、ラルクと私は友人ということでいいかな?」
ミュラーの言葉にラルクは飛び上がらんばかりに喜んだ。
「ありがとうございます。僕、ミュラー様に聞いてみたいことがあるんです!」
「なんだろう?私で答えられることならいいのだが?」
大人の余裕を見せるミュラー。
「はい、ミュラー様は皇帝陛下に泥水を啜らせた、との逸話がありますよね?これってどういう逸話なんですか?」
いきなりとんでもないことを質問されてミュラーは仰け反った。
そもそも「皇帝に泥水を啜らせた」という逸話は事実であるが、その詳細を知る者は殆どいないのだ。
再び困惑するミュラーに今度はソフィアが助け船を出した。
「不躾な質問で申し訳ありません。弟は軍人であるミュラー様に憧れていて、ミュラー様に関する数々の逸話を聞いてはミュラー様のような強い男になりたいと申しています。ただ、陛下に泥水を啜らせたという逸話だけはその詳細が分からず、先程は陛下ご自身に質問してしまいました」
ミュラーは耳を疑った。
「皇帝本人に聞いた?」
驚くミュラーだが、ラルクは瞳を輝かせたままであり、ソフィアは申し訳なさそうに頷いた。
「はい、私もまさか弟がそんな無礼を申し上げるとは思っていませんでした。陛下にご挨拶を、と思いましたら突然・・・」
ミュラーは頭を抱えた。
そもそも、その逸話は皇帝の不名誉な過去として、公式な記録から抹消されているもので「皇帝に泥水を啜らせた」という言葉だけが逸話として独り歩きしているのだが、誰もそれ以上のことには触れようとしないタブーなのだ。
「で、ラルクに質問された陛下は何と?」
「詳細はミュラー様本人に聞け。と申しておりました」
ミュラーは離れた場所で他の貴族と談笑する皇帝エドマンドを見た。
ミュラーの視線に気付いたエドマンドはばつが悪そうに視線を逸らし、その傍らで宰相のクラレンスがニヤニヤと笑っている。
つまり「後は任せた」ということらしい。
ミュラーは深くため息をついた。
「陛下がそう言うならば仕方ない。大して面白い話ではないぞ?」
周囲に人がいないことを確認したミュラーは自らの過去について口を開いた。
それは5年程前のことだ。
当時はまだ第2軍団に所属する中隊長だったミュラーは北方の連邦国との国境線を巡る戦いに参戦していた。
この戦いにはエドマンド皇帝も近衛騎士団と主力の第1軍団を率いて参戦しており、自ら先頭に立ち連邦国の国境線を突破して敵地深くまで侵攻したのだが、それ自体が連邦国の作戦であり、長く伸びきった戦列の側面を突かれ、グランデリカ軍は一気に崩されて大混乱に陥った。
この時のエドマンドは先頭よりもやや後方に位置していて、数騎の近衛騎士と共に敵中で孤立してしまう。
ミュラーの中隊は隊列の後方から右翼側面にかけての遊撃を担っていたのだが、友軍が崩される一方でミュラーの中隊は右翼の敵を突破してエドマンドが孤立していた最前線まで突出し、結果としてミュラー中隊はエドマンドに合流することになったのである。
敵を突破したものの、戦力は中隊規模でしかなく、味方が壊走する中でそれ以上の進軍が出来なくなったミュラー中隊は合流したエドマンド達と共に敵の追撃を掻い潜って退却しなければならなくなったのだが、その際にミュラーが選んだのは大軍の運用が出来ない深い森を抜ける経路だった。
あえて深い森の奥に分け入って敵の追撃を振り切り、食料も飲み水も尽きた中で兎や蛇等の小動物や野草で飢えを凌ぎ、泥水のように澱んだ川の水を煮沸して渇きに耐えながらの退却行は2週間にも及んだ。
そして、帝国内でも行方不明の皇帝の戦死が現実味を帯びてきた矢先にミュラー中隊とエドマンド皇帝は奇跡の生還を果たしたのである。
「これが顛末だ。結局は不名誉な負け戦の話だよ」
自虐的に笑うミュラーだが、ラルクの目の輝きは変わらない。
「水も食料も尽きて敵に追われながら2週間も!凄いです」
結果として皇帝に泥水を啜らせただけでなく、泥と埃まみれになりながらの逃避行なのだが、ラルクにとっては負け戦の話しではなく、困難な状況を乗り越えた冒険譚のように聞こえたようだ。
負け戦と、絶体絶命からの生還劇。
結末は同じで、受けとる側の気持ちの問題であり、ラルクも喜んでいるのでミュラーもそれ以上は何も言わなかった。