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託された思い

 ミュラーは心を落ち着けた。

 エストネイヤ伯爵は気持ちが昂ぶったままで勝てる相手ではない。

 風の無い湖の水面のように穏やかに、氷のように冷徹に、感情を殺し、自我を殺す。

 伯爵から視線を切り、視野を広く持ち、腰を低く構える。

 

「ふふっ、私を殺す覚悟ができたと見える。私の片思いだったが、ようやく気持ちが通じ合えたというわけだ」


 伯爵も刺突の構えのまま腰を落とす。

 伯爵は再び機先を制しようと踏み出したが、その先の先を取ったのはミュラーだ。

 ミュラーの左目を狙った刺突に対応すべく同じ呼吸で同時に踏み出したミュラーは剣をすくい上げるようにして伯爵の突きを去なすと剣を翻し、がら空きになった伯爵の胴体目掛けて横薙ぎに剣を振り抜く。

 互いに踏み出して一気に間合いを詰めていた上に剣の軌道を逸らされていた伯爵だが、驚異的な反射神経と瞬発力でミュラーの剣を飛び越えると、弾き上げられた剣をミュラー目掛けて振り下ろした。


「クッ!」


 咄嗟に身体を捻ったミュラーだが躱しきれず、伯爵の剣の切っ先がミュラーの左顔面を切り裂いた。

 ミュラーは鮮血を散らしながら剣の柄を伯爵の脇腹に叩き込む。

 胸甲に阻まれてダメージを与えることは適わずとも、伯爵の体勢を崩すことはできた。

 勢い余ってバランスを崩した伯爵が距離を取る。


「必殺を狙っての一閃だったが浅かったようだな」


 伯爵の言うとおり、ミュラーの傷は左の額から頬までを切り裂いたが、辛うじて左目までは失っていない。

 しかし、出血量も多く、瞼を切っているため暫くの間左目は使いものにならないだろう。


(・・・あまり時間を掛けられないな)


 ミュラーは敢えて右半身を引き、剣を右肩に担ぐように構える。

 軸足である筈の左足を前にじりじりと間合いを詰めた。


 伯爵は刺突の構えのままミュラーの動きを待つ。

 ミュラーの斬撃と自らの突きならば突きの方が速い。

 それはミュラーも承知のことだろうから、これまでの剣撃同様に仕掛けてくるのは突きを捌いての一撃だろう。

 

(分かっていれば対処は出来る。奴の想定を上回る突きを繰り出し、仮に迎撃されてもそれ以上の速さと柔軟性でもう一撃を繰り出す。若しくはこちらの突きのタイミングをずらせば虚を突くことも出来る。生かしたまま勝つことは出来ないだろうがな・・・)


 伯爵もまた勝負に出た。

 弾かれることを前提でミュラーの首を狙って剣を突き出した。

 一瞬遅れてミュラーが動く。


(遅いっ!)


 ミュラーが剣を振り下ろすよりも先にその首を貫ける。

 伯爵が勝利を確信したその刹那、ミュラーの鉈のような剣が伯爵の肩当てを叩き割り、その肩口深くに食い込んだ。

 伯爵の切っ先はミュラーの首を捉えていたが、急所を僅かに逸れて皮膚を切り裂いただけ。


 ミュラーの守りを捨てた渾身の一撃。

 左目が見えず距離感の狂ったミュラーは伯爵の間合いの内側に一気に飛び込むべく敢えて軸足を前に出し、普段よりも深く踏み込んだ。

 その際、一瞬で左から右に体勢と重心が移動したため伯爵の剣はミュラーの首を貫き損なったのである。

 一方で距離感の狂ったミュラーも自分の想像以上に間合いが詰まったため、斬れ味の鋭いものうちでなく剣の根元での打ち込みになったが、そのズレも含めての一撃だったため、ミュラーの剣は伯爵の肩当てから鎖骨を叩き割り、胸元まで食い込んだのだ。


「ぐっ!」


 ミュラーの剣に叩き伏せられるように膝をつく伯爵。

 

 勝敗は決した。

 しかし、ミュラーは伯爵の身体に剣を打ち込んだまま抜こうとしない。

 今剣を抜けば一気に大量出血して伯爵は絶命するだろう。

 もとより助かる見込みのない傷だが、ミュラーは剣に力を込めたまま伯爵を見下ろした。

 戦いを見届けた伯爵の息子も駆け寄ってくる。


「・・私の負けだ・・。約束通りエストネイヤ騎兵連隊は兵を退く。アストリア、連隊を率いて領に戻り、領の守りを固めろ。お前がいるから私は何も心配していない。後のことはお前に託す・・・エストネイヤ伯爵家を頼んだぞ。それから、エリーゼとサミーユ、イライザに伝えてくれ、私は先に行っているから後からゆっくりと来るように。お前達が来るまで私はエリスと楽しく過ごしているから急いでくるなよ、と」

「・・・分かりました、父上」

「・・よし、ならば行け。これ以上私の、父の不様な姿を見るな」


 所領を託され、伯爵の帰りを待つ妻と妾への思いと伯爵の言葉を受け取ったアストリアはミュラーに敬礼するとその場を離れた。


「他に何か言い残すことはありますか?ローライネに伝えることは?」


 ミュラーの言葉にエストネイヤ伯爵は笑みを浮かべる。


「・・・私は・・ローライネを見放した男だ・・。そんな娘に遺す言葉などありはしない・・・。ただ、そうだな・・・ミュラー、貴様には託す思いがある。ローライネを不幸にするな!・・これだけだ」


 徐々に伯爵の視線が定まらなくなり、もうミュラーの剣の支え無しでは姿勢を保つこともできない。


「・・・これで・・全て・・の思い通り・・・伯爵家と・・・ーライネ・だけは・・・・」


 意識も混濁してきて伯爵自身も何を言っているのか分からないようだ。


「ロ・・イネ・・幸せ・・りなさい」


 エストネイヤ伯爵は息子とミュラーに後を託して息を引き取った。


 リュエルミラが帝国に敗北しても後を託した息子の手腕とこれまでの帝国に対する伯爵家の功績があればエストネイヤ伯爵家が生き残る術はある。

 仮にリュエルミラが勝利してもミュラーの性格ならエストネイヤ領を無下にはしないだろうし、ミュラーと共に生きるならローライネの幸せは約束されたようなものだ。

 策士であるエストネイヤ伯爵は満足してその生涯の幕を閉じた。

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