猫を飼う女
弟とのふたり暮らしにも慣れ始めたとある夕暮れ。
そろそろ夕飯の準備でもしようかと考え出したそのとき、ティロの通信機に連絡が入った。
呼び出しのベルが鳴り響く通信機を持って、なぜかティロはトーニャに視線をやる。
「なんであたし見るのよ」
「止めないのか」
「好きにすればいいじゃない。あんたを逮捕する権限なんか、あたしには無いんだし」
「現行犯なら」
「弟売るようなマネなんかできるはずないでしょ。だからって、あんたがやってることをあたしは賛成も応援もしないからね」
叱ったつもりは無いけど、ティロの肩は小さく震えた。悪いことをしてる自覚はあるようなので少し安心した。
「それに、あたしが言ったぐらいで、あたしの言うことなんて、あんた一度だって無かったじゃない」
「なにか言ったこと、あったのかよ」
「言おうとする前にあんた家から逃げ出したでしょうが」
「逃げてなんか、ない」
「じゃあもうそういうことにしておいてよ。八年も前のことで口論なんかしたくないし」
「……んだよ」
「ほら、呼び出しはいいの?」
「わかってるよ!」
乱暴に踵を返し、乱暴にドアを開け、乱暴に出て行った。
「ほんっと、昔っから変わらないんだから」
あいつはいつもそうだ。
肝心な時に腰が引けて誰かに助けを求めて。
この八年間、あいつがどんな苦労をしてきたかは知りたくもないけど、根っこのところは成長できずにいたのだろう。ひょっとしたら向こうは妹だと思っている相手が目の前にいるから甘えてしまったのかも知れないけど。
「まあいいや。先に洗濯物取り込もっかな」
ゆっくりと席を立って、なぜかふらつく足をひっぱたいて歩き出す。
ドアを開けると夕日はもう半分以上沈んでいた。
いつもならその美しさに感嘆するのに、今日は。
溢れだそうとする気持ちを大きな鼻息で上書きし、でもまだ込み上げてくる。なので、つかつかとケヤキの木に歩みより、左手を幹に当て、頭を大きく幹から離し、
「ふんっ!」
おでこを思いっきり幹へ叩きつけた。
「~~~~~~っ!」
すごく痛い。涙もちょっとこぼれた。
同じ男のために流す涙は、一生に一回だけにしておきなさい。
おばあの言葉が脳裏を何度もよぎる。
いま流した涙は木にぶつけた痛み。
だから別カウント。
あいつのためになんか、二度と泣いてやるもんか。
気を取り直し、ここからでも見える物干し台に視線をやると、右後ろ、玄関に立つ人物から呼び止められた。
「すいません。バレンシェバッハ工房はこちらでしょうか」
おでこの痛みにうずくまりながら声の主を視線でさぐる。麦わら帽子と白のワンピースを上品に着こなした大人の女性だった。
なのになんだろう。いけ好かない。
たぶん客じゃないと直覚すると行動は早かった。
じんじん痛むおでこのことはひとまず忘れ、表情を鋭く切り替え、吐き捨てるように言った。
「誰? 金貸しのひとなら帰ってくださいね」
腕組みして荒い鼻息ひとつ。トーニャの臨戦態勢を、女性は穏やかに笑って受け流す。
「いえ、今日は依頼があって来ました」
ふうん、とあくまでも敵意も苛立ちも納めず、依頼人として対処することにした。
「ギアの修理? だったら見せて。最近増えて来たのよね。これってちゃんと使ってれば壊れないはずなんだけど」
「いえ、修理でもなくて」
「だったらあたしにできることは無いから。帰ってくれます? いま、お客さん以外の相手はしたくないんで」
「まあまあ。そんなに怖い顔しないでください。怖い顔は商機を逃しますよ?」
女性が浮かべた笑顔に、トーニャは全身に悪寒が走るのを感じた。
祖母の通夜が終わって、心もどうにか落ち着いて、見よう見まねで工房を動かし始めた八年前。
おばあさまの古い友人だよ、と偽りの笑顔を浮かべながら近付いてきたあいつら。
あいつらとこの女性の笑顔の毛色は真逆だが、だからこそ恐怖も増す。
この女が浮かべているのは、真に慈愛に満ちた笑み。
ああ、思い出した。家を乗っ取ろうとしていた連中とは別に、魔族を保護者にするなんてありえない、八歳のおんなのこがひとり暮らしなんてかわいそう、とか意味の分からない理屈を並べ立てる不細工なおばさんたちと、同じ系統の笑顔だ。
真意が分からない分だけ乗っ取ろうとしていた大人たちよりも、嫌悪感を強くつのらせていたあの女たちと。
「さっきも言いましたけど、仕事の依頼でなければ帰ってください」
だから敵意を隠すことを止めた。
またぞろあんな連中と関わりあいになるなんて、まっぴらごめんだから。
そのためにあのハンマーを作り、おばあの弟子だったミィシャに武術を習った。
普通の大人なら簡単に追い払えるぐらいには強くなって、訪ねてくる大人の数は減って、ひとり暮らしを満喫していたのに。
いまになって表れた、慈愛に満ちた悪意にトーニャの全身全霊が警戒している。
「わたしが用があるのはあなたですよ。トーニャ・バレンシェバッハさん」
ずい、と距離を詰められ、ティロと再会したときと同じようにケヤキの木に背中を押し当てられてしまう。
「あの。やめてもらえますか。こういうこと」
「怖がらないのね。好きよ。そういうの」
「もういいです。用があるなら早くいってください」
敵意むき出しでにらみ付けても、女性は穏やかな笑みを崩さずにトーニャの瞳を深く深く覗き込む。
とにかく離れないと、と思った時にはもう遅い。
「……かは……っ?」
呼吸が、できない。
光が、遠退いていく。
音が、収縮していく。
すべてがなくなっていく。
からだも、記憶も、自我も、技術も、心さえもが広がって薄まって溶けていく。
なのに、気持ちよかった。
すべての軛か(くびき)ら解き放たれたような、自分がどこまでも広がっていく感覚が、トーニャの中心と言わず末端と言わず波打ち、渦巻き、逆巻き、荒れ狂っている。
この気持ちよさに飲まれてはいけないと心が叫んでいるのに、からだはぴくりとも動いてくれない。
「大丈夫です。ほんの少し、借りるだけですから」
荒れ狂う気持ちよさの中で聞こえた柔らかな声音に、トーニャはなぜか、顔も知らないはずの母の面影を重ねた。
その行為は、気持ちよさの奔流に身を預けることと同義だと、心は最後まで警告し続けていた。
トーニャができたのは、ただひとつのことだけだった。
*
「……、…………?」
そこで、目が覚めた。場所は寝室のベッドの上。パジャマを着て、かすかに香る石鹸のにおいでお風呂にもちゃんと入ったらしい。
きっと夢だ。
木に思いっきり頭をぶつけた影響で、変な夢を見たんだ。
そうに決まっている。
大きく伸びをしてベッドを下りて、小さな化粧台に置かれた櫛を取って髪をとかして。
「いたっ」
櫛がおでこに当たる度に痛みが走る。前髪をあげて鏡を除きこんで具合を見る。
「うん、そんなに腫れてない」
軟膏はまだあったはずだからあとで塗っておこう。
首元になにか填まっているような感覚は、きっと頭をぶつけた後遺症だろう。へんな、黒い筋みたいになってるから、今日一日放っておいて変化がなかったら病院へ行こう。
それよりも、今日の朝ご飯だ。ティロがお腹いっぱい食べてくれるので、変なものは作れない。
でもあの食べっぷりを見ると、ろくなもの食べてなかったことは簡単に予想できる。
だったらせめてこの家に居る間ぐらいは美味しいものを食べさせておこう。
あたしはおねーちゃんなんだから。
決意も新たにトーニャは普段着に着替え、台所へ向かった。
寝室のドアを開けた直後、チャイムが鳴った。
きっとティロだ。
朝帰りとは関心しないが、帰ってきただけ誉めてやろう。
朝ご飯を腹一杯食わせてやれば、もう悪い連中とも付き合わなくなるだろうし。
いそいそと玄関に向かう。
今日もいい一日になりそうだ。
にへへ、と笑いながらドアを開けると、少し疲れた表情のティロがいた。