8年ぶりの・・・
「やあ。迷っているね」
音もなく、その魔族は姿を見せた。
「何しに来たのよ。元・自称保護者」
名はヌェバ。
すらりとした長身に白のタキシード。背中からは小さな羽が、後ろ腰からは細長い尻尾が伸びている。
「元でも自称でもないよ。ボクはキミたち姉弟のおばあ様から直接頼まれているし、この街での成人は十八だろう」
「あとたった二年じゃない。それより何の用? お茶なら自分で用意してよ」
「そう言うと思っていまお湯を沸かしているところだよ」
「じゃあそれ飲んだら帰ってよ」
「今日はやけに冷たいね。なにかあったのかい?」
「別に何もないわよ」
「そうかい」言ってそのまま茶の支度を始める。「ティロ君と再会できたそうだね。おめでとう」
「めでたいことなんかないわよ」
「ボクには喜ばしく、嬉しいことさ。祝わせてほしい」
うつむき、ぐずぐずなにかつぶやき、うめくように言う。
「ヌェバは知ってたの? ティロがああいうことしてるって」
「ボクは魔族だし、キミたちの保護者だよ」
「だったらなんで教えてくれなかったの」
「おや? 八年前キミは言ったじゃないか。生きてるならそれでいい、って」
「言ったけど!」
八つ当たりだと分かっていても怒鳴ってしまう。
「本当に心配だったなら、どんな手段を講じてでも会いに行くべきだったと、ボクはいまでも思う」
「お説教は止めて。あたしだって、自分のことで必死だったんだから」
「そうだね。いきることに必死になれないものは、いきることを放棄すべきだとボクも思う。そうでなければボクたち魔族は死んでしまうからね」
「あんたたちのことはどうでもいいわ。それより、」
なにを聞こうとしようとしたのか、それはこの次の瞬間にはもう霧散していた。
トントン、とどこか控えめなノックの音がふたりの耳を打った。
「はーい。いまでまーす」
今日は特に業者も予約客も入っていなかったはず。だとすれば飛び込みの客だろう。
そう思い、トーニャはドアへ向かう。
がちゃりと開けたドアの向こうには、
「……あ。おかえり」
ティロが立っていた。
「えっと……、うん。ご飯ならちょっと待ってね」
一瞬の驚きのあと、トーニャは自分でも信じられないほどに穏やかな振る舞いでティロを出迎えていた。
「なんだよ、それ」
ティロも同様に驚いて、しかしトーニャの自然な姿に視線をはずして憮然と答えた。
憮然とする弟に、トーニャは嘆息とも微笑ともつかない吐息をこぼし、続ける。
「ご飯じゃなかったら……あ、水道でも止められたの? こういうお金はちゃんと確保しておかないと、っておばあよく言ってたでしょ」
「ちげーよ」
「じゃあ何よ。まさか家賃も払えなくて……」
「そういうんじゃねえよ」
これ以上思いつかなかったのでじっとティロを見つめて返事を待つ。
一度は合わせた視線を外して、何言かぐずぐずと口の中で呟いて、頭を掻きむしったり、足裏で地面をぐりぐり擦ったりして、ようやくトーニャに視線を向け、
「お、お前を。トーニャ・バレンシェバッハを監視しにきた」
何を言われたのか分からない。
「ん? あんた何言ってるの?」
「言っただろ。お前を監視しに来たって」
「あ、うん。それはさっき聞いたから分かってる。だから、なんでよ。監視するなら、署長さんとかの方が」
「知るか。命令だ」
「あ、でも、あたしもう月光団とは関わらない、よ?」
「信用できるか」
「なによ。おねーちゃんの言うこと信用できないって言うの?」
「うるさい。お前は妹だ。とにかく命令があるまでこの家にいる」
「んー。まあ、ここはあんたの家でもあるから、それは別に構わないんだけどさ」急に笑みをこぼし、「こんなコムスメ警戒して弟放り投げてくるとか、あんたのボスってどれだけ小者な、」
胸ぐらを掴まれた、と気がついたつぎの瞬間には、門のすぐそばにあるケヤキの木に背中を押し付けられ、左手で襟元を締め付けられ、右目のすぐ前に小太刀の切っ先が突き付けられていた。
驚きはしたが、恐怖は感じなかった。
「あいつのことを、悪く言うな」
低く静かに。
じっと見つめる瞳の奥には、憤怒とほんの少しの殺意と、表に出すまいと堪える後悔があった。
「……うん。言いすぎた。ごめん」
自分の大切なものを侮辱されたら、誰だって感情ぐらい爆発する。
言った相手が身内なら尚更だ。
「……なら、いい」
す、と視線をはずすティロ。こういう意地っ張りなところは変わってないな。
「あのさ、離れてくれると、嬉しいんだけど」
言われてばっと距離を取り、少しもたつきながら小太刀を鞘にしまった。
ふふ、と笑うトーニャを睨み付け、ティロは言う。
「とっ、とにかく! しばらくこの家にいるからな!」
口調が戻ったことにトーニャも気を良くし、挑発的に腕を組んで胸をそらしながら応じる。
「いいわよ、別に。でもあんたのお茶碗もお箸もとっくに処分してるから自分でちゃんと用意してよ?」
「うるさいっ!」
「もー。どうせろくなの食べて無いんでしょ。あとさ、最初の日にも思ったけど、お風呂もろくに入って無いでしょ。おばあが見たらあんた、おしりペンペンじゃ済まないからね」
「黙ってろ!」
ずんずんと強い足取りで家へ向かうティロ。
そんな弟が見ていて微笑ましい。だからもう少しからかってやる。
「あとあんたの部屋、一応残してあるけど、出てった時のまんまだから、ちゃんと掃除してから使いなさいよ」
ばあんっ! とドアが壊れそうなほどに強く閉められる。
音に肩をすくめ、一度ケヤキの木を見上げてからトーニャは家に戻った。
ひと悶着あったのか、ヌェバもトーニャと視線を合わせると肩をすくめつつ湯気香り立つティカップを差し出してくれた。
しばらく、退屈しなさそうだ。
*
日常が始まった。
ティロとのふたり暮らしはぎこちなくとも大きなトラブルもなく、お互いどうにかやり過ごしている。
元々喧嘩や不仲が原因で出ていった訳でもないので、当然と言えば当然だろう。
ちなみにヌェバは、「じゃあボクは研究の続きがあるから、また後日来るよ」と言い残してそそくさと帰っていった。後日がいつになるか分からないが、いつものことなのでお互いすぐに忘れることにした。
そんな自称保護者のことはともかく。
ふたりだけの朝食は、たぶん初めてだろう。
今日のメニューはほかほかの白米と、豆腐の味噌汁と目玉焼きと山盛りのサラダ。作る相手がいる料理は楽しくて、普段よりも丁寧につくってしまった。
向かい合わせで食べているので、見る間に皿が空になっていくさまは何度見ても嬉しかった。
最初は緊張した。
食べてくれなかったら、それどころかテーブルごとひっくり返されたら、と内心の動揺をどこまで隠せていたかは分からないが、ティロは素直に箸を取ってくれた。たぶんにおばあの言いつけが影響しているのだろうけど、それでも嬉しかった。
食器や着替えなどに関しては、ティロが到着した日の夜に宅配便で送られてきた。配送伝票に書かれていたのは女の文字だった。隅におけない。ていうかずるい。あたしだってまだなのに。
「おかわりは?」
いま食べているので五杯目だが、一応訊いておく。
「いい」
「そ。今日はどうするの?」
「お前の監視だ」
「じゃあ買い物付き合って。あんたが食べる分の食材、全然足りないから。おばあ言ってたでしょ。働かざる者食うべからずって」
「……わかってる」
素直だ。
やっぱり男は胃袋掴んでおくと言うこと聞くんだな、と祖母やミィシャからの言葉を深く噛みしめていた。
「ごちそうさま。じゃ行くわよ」
「いいのか」
「食器ならちゃんと流しに浸けておいてよ?」
「そうじゃない」
「あ、顔洗って歯も磨いてからだよ?」
「そうじゃなくってだな」
何をさせようとしているのかがさっぱり分からず、いぶかしげにティロを睨む。
「ほかになにがあるって言うのよ」
「おまえがいいなら、いいけど」
なのにあっさり引き下がられて困惑してしまう。
「変なコね」
意味が分からない。
きっと訊いても答えてはくれないだろうから、そのままにしておく。ひょっとしたらどこかで答えが拾えるかも知れないから。