幻と妄想のはざまで
動きたくない。
外の世界がどうなったって構うものか。
独りで生きていけるなんて、嘘っぱちもいいところだ。
本当は誰かと一緒に暮らしたかった。
おばあとティロと三人で穏やかに暮らしていたかった。
誰かに裏切られるんじゃないかと怯えるぐらいなら独りで死んだ方がマシだ、なんて絶対に嘘だ。
嘘ばかりついていた自分なんて、誰からも相手にされなければいいんだ。
「やだ……。たすけて……、おばあ……」
ついにしゃがみ込んでしまった。
もう居ない相手に助けを求めるなんてどうかしてる。
でも、もうだめだ。
「……やだよ。ひとりは、やだよぉ……」
膝に額をぐりぐりと擦り付け、足を抱えてうずくまってしまう。
動きたくない。
動きたくない。
動きたくない。
動いてなんか……、
『ったくもう。いつまでもぐずってるんじゃないの』
耳朶を打つ、一番聞きたかった声に、しかしトーニャは顔を上げようともしない。
「だって」
『あたしはそんな弱虫にあんたを育てた覚えは無いわ、よ!』
乱暴に手首を掴まれ、乱暴に引っ張り上げられた。
「……なんでおばあがいるのよ」
魔素の研究施設などで見た幻とは違い、目の前に居る祖母は最晩年の姿だ。目元に小じわが目立ち、髪は見事な白髪。けれどピンと真っ直ぐ伸びた背筋と内から溢れ出してくる力強さは年齢を全く感じさせない。
祖母は手を離し、お腹のあたりでゆったりと腕を組んで少し呆れたようにトーニャを見つめた。
『あら、驚かないのね。せっかく出てきてやったのに』
「あたしの知ってるおばあなら、それぐらいやるもん」
『買いかぶりすぎよ』
「研究施設の幻で、あたしやティロにお説教してたじゃない」
『……そんなこともしたかしらね。覚えてないわ』
「それより、なんで出てきたの。おばあは八年前に死んだのに」
ぐい、と袖で目元を拭うトーニャ。
祖母はふふ、と緩やかな笑みを浮かべている。
『そうよ。死んだわ。でもね。大切な孫娘がぐずってるんだもん』
「ぐずってない」
『そうかしら?』
「ちょっと凹んでただけ」
『ならいいわ。それでこそバレンシェバッハの女』
トーニャの髪をぐしぐしとかき回し、すぐに止める。
「……もう。なんで、死んじゃったのよ。そんなに元気なら、もっと」
祖母は悲しそうに微笑み、ゆっくりと言う。
『あたしだってね、あと十年ぐらいは頑張るつもりだったんだけどね。こればっかりはどうにも出来なかった。……ごめんね。寂しい思いさせて』
「謝らないで、よ」
『うん』
だめだ。
もう視界が滲んでいる。
「あたし、おばあに見てもらいたいものとか、褒めてもらいたいこととか、いっぱいあるんだよ? なのに、おばあはもう居ないし、ティロだってどっか行っちゃうし、あたし、ずっとずっと寂しかったんだから!」
孫娘に怒鳴られ、祖母は困ったように笑う。
『うん。ごめん。でも、見てたから。ちゃんと。あんたがひとりでくじけず頑張ってきたことも、ひとりで悔し泣きしてたことも。ぜーんぶ』
ずるい。
祖母はいつも不意打ちばかりする。
「なんで、そんなこと、言うの……っ」
涙を拭うことなんてとっくの昔に諦めている。
「あたしは! ひとりぼっちなんてもうイヤなの! おばあとティロとでずっと一緒に暮らしたかったの! なのになんで、なんで死んじゃったりするの……っ!」
トーニャの駄々に、祖母は目を伏せる。
『あたしにだって、出来ないことはあるわよ』
「だったら、あたし!」
『だめよ。それだけは絶対にだめ。そうやって楽に見える方に手を伸ばすような弱い子にあたしは育てた覚えは無いけど?』
「あたしは、おばあみたいに強くなれそうにないよ。いまだっておばあが来なかったらいつまでもぐずぐずしてたし」
『大丈夫よ。あんたにはあたしの女としての生き方を叩き込んであるから。ティロには剣術ぐらいしか教えてやれなかったから、心残りがあるとしたらそれぐらいだけど』
「そういう言い方、ずるい、よ」
『ずるくないとね、大人なんてやってられないの。真っ直ぐでいられるのは子供の特権なんだから』
「でも、でもぉ……っ」
泣きじゃくるトーニャの髪をゆっくりと撫で、祖母は慈しみを込めて言う。
『大丈夫。あたしが居ないこれまでをあんたはちゃんと生きてこられたんじゃない。これからだって、きっと』
「……」
トーニャはもう祖母の顔も見られない。うつむき、時折大きく鼻をすするぐらい。
『じゃあ、あたしはもう行くね。本当にこれで最後だから。ちゃんと、あたしよりも長生きしてから、こっちに来るのよ。それまでずーっと、見ててあげるから』
ぎゅっ、と強く抱きしめ、耳元でささやくように。
『あんたはもう、ひとりじゃないから、ね』
ゆっくりとトーニャから手を離し、背を向けて歩き出す。
「待ってよ! あたしまだ話したいこともいっぱいあるの!」
祖母の後ろ姿がどんどん小さくなっていく。進んでいるはずなのにちっとも追いつけない。
どんなにどんなに手を伸ばしても、振り返ってもくれない。
「行かないで!」
『ごめん。でも代わりにそいつ置いていくから。あとはしっかり、元気でやりなさいよ』
声だけが耳元で聞こえた。
なんでなんで、と混乱しつつも追いすがることは忘れなかった。
「待ってよ!」
『だーめ。これで終わりだから……』
声も姿も赤黒い霧の中に消えていく。
「なんで、いつも……」
しゃがんでわんわん泣きたかった。
あんなことを言われたら、出来なかった。
そっと胸に手をやる。すっかり枯れていたはずの元気が、祖母の背筋のようにぴんと伸びて輝いている。
うん。もう大丈夫。
あたしはあのひとの孫娘なんだから。
抱きしめてもらった肌の柔らかさや、髪を撫でてもらったぬくもり。かけてもらった言葉の厳しさとその奥の優しさ。
幻だっていい。
妄想でもいい。
もう一度会えて、話ができた。
だから、ちゃんと、生きていこう。
ぱしん、と両手で自分の頬を叩いて前を見る。
遠くに人影。
ルーマかボスだ。
置いていくって言ってたのに、あんなに遠くに置いていくなんて、ちょっと意地悪だ。
でもいい。甘やかすことは絶対にしなかったあの人らしいし。
そんなことを考えながら走っていたら、すぐ目の前にボスが出た。
「ぅわ」
「そ、そんなに驚かないでください」
「ご、ごめん。でもいままでどこに居たのよ。呼んでも出てこないし」
「ここは、時空間の繋がりが不安定なんです。人々の思いが凝縮され、空間にまで影響を及ぼしています。なので、声だけじゃなくて強く思ってもらわないと、すぐに別の空間に流されてしまいます」
「そんなこと言われても、あたしあんたのことよく知らない……し」
ボスと目を合わせた瞬間、様々な映像がトーニャの脳裏にフラッシュバックする。
プリンセッサの中で月光団のマスクを被った時と同列の、しかしベクトルは真逆の感覚がトーニャを支配する。
あのときは世界が広がったけれど、今度は世界がトーニャに押し込まれてくる。
最初に感じるのは、やはり悪意。けれど、世界の広さを知り、祖母から勇気をもらったトーニャには、苦い水を飲まされている程度にしか感じない。
「うん。まだ大丈夫」
苦い水をたらふく飲まされて呑まされて、でも大半はすぐにトーニャの中から抜け落ちていって。残った欠片を集めて組み上げて、
そしてひとつの答えが降りてきた。
かつて研究所で見た幻。
母親は魔族に丸呑みされた。その魔族が、ボスだと。
「……そっか。あんただったのね」
「…………はい。助けようと、したんです」
トーニャは、うん、と頷くだけ。
「ですからこれが終わったら私を、」
「しないわよ。そんなこと」
これが、ボスが『あとで聞いてもらいたい話』なのだろう。
予想通り楽しい内容では無かった。だからはっきりさせておこう。
「あたしにとって母親とか父親とかっていう存在はね、『他の人にはいるけど、自分には縁の無い存在』なの。だからいまさらそんなこと言われても、大して気にしないから」
「でもそんなの」
ボスの憐憫に満ちた視線と声音に、思わずビンタしそうになったのは言うまでも無い。
「ほんっと、そういうのやめてくれる? あたしが不幸かどうかはあたしが決めるの。他人が勝手に推し量って同情してさ。同情するあんたたちは気持ちいいんだろうけど、引っかき回されるこっちはいい迷惑よ」
強く言ってすぐさま、にっ、と笑ってボスの頭をぐしゃぐしゃにかき回す。
「そっか。ティロの目的って……」
あいつがどうやってそこまで漕ぎ着けたか分からないが、ボスに近付いた目的はたぶん自分の想像通りで間違いないだろう。
そういえば。
「ティロは?」
どこに居るんだろう。