ヌェバの胸焼け
「月光団の解散宣言がボスの名の下、署やマスコミ各社に出されたんだ」
かいさんせんげん、と小さくつぶやいて、ようやくトーニャは署長の言葉を呑み込んだ。
「じゃあ、もう月光団は出ないってことですか?」
思ったことをそのまま口にして、やっぱりまだきちんと呑み込めていないと反省した。
署長もトーニャの自戒を感じたのか、丁寧に返した。
「宣言を信じるなら、だけどね。まだ当分は警戒が必要だよ」
「じゃあ、仮にこのまま月光団が出なかったら、誰も逮捕されないってことですか?」
おぼろげな記憶には、ムチを打ち鳴らして全体の指揮を執っていたミィシャの姿もある。ティロももちろんだが、身内が不運を被るのは気分のいいものではない。
「トーニャちゃんもそうだけど、団員のほとんどは催眠状態にあって、ボスと呼ばれる魔族に操られていた、というのが公式見解になる」
「じゃあ、誰も逮捕されない、ってことでいいんですよね」
そこが肝要だ。しつこいと思われようとも、確認をしておく。
こくりと頷いて、署長は説明する。
「いまのところ、この街でアーマー・ギアが使えなくなった者の報告は上がってきていない。つまり、だれも悪意に染まっていないと言うことだ。ギアは善や光の心でなければ動かない……おっと、釈迦に説法だったね」
やめてください、と謙遜し、辛そうにトーニャは返す。
「でもあたしは、署長さんの言葉で意識が戻りました。警察のガウディウムや施設を壊したのはあたしの意思です」
「でもトーニャちゃんのガウディウムは動いていた。そこに悪意が無い以上、現在の司法が裁くことは出来ないんだ」
それに、と一息置いて、
「被害にあった品のほとんどは不正規なルートで所持していたこともあって、被害届は出されていない。警護の要請があっても、当人たちは「どうしてあるのか分からない。けど盗まれるのはイヤだ」の一点張りだったからね」
「でも……」
「大丈夫。トーニャちゃんは操られていたひとたちを守っただけ。さっきも言ったけど、ガウディウムが起動している時点であれは善行なんだ。それでももし誰かに追求されたのなら、催眠状態にあった、と言い張ってしまえばいい」
「……」
「納得してほしい、とは言わない。けど、トーニャちゃんを逮捕した、なんて街のみんなに知られたら、私は街のみんなに会わせる顔が無いよ」
「……はい。おばあに感謝しないと」
祖母が亡くなった直後、様々な悪意を浴びせられたトーニャだが、同時に深い善意にも巡り会えた。それらはすべて祖母の人柄によるものだといまでも思っている。
「それがいい。私も今度お墓参りさせてもらってもいいかい?」
「もちろんです。きっとあたしも署長さんも怒られると思いますけど」
「違いない」
言って笑い合うふたり。
「けど、なんで魔族があんなことをしたんでしょうか」
「魔族は見た目に反して人懐っこくて研究熱心。それは六十年前からいままで、家畜化していた魔族以外、全員に共通していた。だから当時成立した魔族を取り締まる法律はすべて破棄された。私も含めて反対する者もいたが、微少意見として黙殺されたんだ。申し訳ない」
「そんな。署長さんが謝らないでください」
そうだ、となにかを思いつき、
「ヌェバを呼んでみます。あいつも魔族だし、ボスについてなにか知ってるはずです」
「それは助かるよ。ほかの魔族は研究に忙しい、と協力してくれなくてね」
うなずいて部屋をきょろきょろと見回し、一見何も無い空間へ向けて呼びかける。
「ヌェバ? どーせいるんでしょ? 出てきて」
きょとん、とする署長のすぐ後ろの空間が、陽炎でも起こったかのように揺らぎ、一瞬の後にぬるり、と黒い影が現れ出た。
「やあ。キミから呼び出しなんて初めてじゃないかい?」
「こんなことでもなければ顔だって見たくないわよ」
ふふ、と肩をすくめ、所長が座るソファの背もたれに両手を置いて、視線はトーニャに向けたままたしなめるように言う。
「さきほど、ボクたち魔族のことについて話していたようだけど、他種族の食事に関して外野がとやかく言うものじゃないよ。ボクたちはああいう方法でしか栄養を摂取できないんだからね」
いたずらが見つかった子供のように署長は肩を振るわせ、すまなそうに目を閉じる。
「うん、ごめん。知ってるのに」
「分かればいいさ」
少しほほえみ、言いにくそうに、けれど視線だけは外さずにトーニャは言う。
「……ねえ、ヌェバ」
「なんだい?」
「ティロやおばあからも精神エネルギー、食べた?」
「採っていない、とウソをいえばキミは安心するのかい? 残念だが、精神エネルギーはキミたちにとっての酸素のようなものさ。そばに居れば自然と摂取してしまう。悪いけどね」
「だから、すぐに居なくなるの?」
そういうことか、とヌェバは合点がいった。
だから今度は優しい口調で答える。
「特にトーニャのような若い人族はね、当人が思っているよりもずっと強い精神エネルギーを放出しているのさ。だから、長い間そばにいると胃もたれを起こしてしまう。でも見守っているから、」
「そこから先は、いいから」
「照れなくてもいいよ。本当にプライベートな時間までは覗いていないしね」
「……ばか」
さて、と手を叩いてヌェバは本題に戻した。
「月光団のボスについてだけど」
「うん」
「ボクにも正体は分からない。残念だけどね」
「魔族じゃないってこと?」
緩やかに首を振って、ヌェバはこう切り返した。
「ボクたち魔族は単体ではなく群体。だから記憶や経験も共有できる。キミたちがかつて電脳空間にさまざまな情報を置き、閲覧していたように、ね」
「それがどうしたの?」
「さきほど署長くんが言っていた、人を家畜化していた魔族を発見したのは、共有記憶にその情報が残っていたから。でも、月光団のような大がかりなことをやっておいて、共有記憶になんの痕跡も残っていないなんて、と言う意味さ」
「じゃあ、ボスは魔族じゃない、ってこと?」
「トーニャ、キミはどう感じた? この中でボスとおぼしき相手と直接言葉を交わしたのはキミだけなんだよ?」
質問に質問で返されてもトーニャは平然と彼の問いを考える。学校に行かなかった彼女に学問を教えたのはヌェバであり、その際にはよくこんな場面が繰り返されていたから。
「んー、見た目は、普通のひとだった。魔族のひとってヌェバしか知り合いいないけど、八年前にいっぱい来た善意のおばちゃんを、もっと、こう……得体の知れない感じにしたような? ひとだった」
「ふむ。それだけじゃ判別できないね……。他に特徴は?」
「んー、白いワンピース着てた、ってことぐらいかな。あとは……んー、よく思い出せない。ごめん」
記憶にある限り、あの女性の出で立ち自体は普通のものだった。
「仕方ない。トーニャ。キミの記憶、少し触れさせてもらってもいいかい?」
「……はい?」
「もちろん、キミがボスとおぼしき相手と出会った瞬間の記憶だけさ。他の記憶には一切触れないと約束する。ボクがその女性の姿を見れば、」
なにを言っているのかは分かるが、なんでそんなことを言っているのかが分からない。その混乱が極限に達し、トーニャは立ち上がって叫ぶ。
「なんでそうなるのよ!」
ヌェバは涼しい顔で続ける。
「捜査のためさ。ボスたちの足取りが掴めれば、ティロもこの家に、」
「ティロのことはあいつ本人に任せればいいでしょ! いくら保護者だからって、やっていいことと悪いことの線引きぐらいしてよ!」
その剣幕にヌェバは一度目を伏せ、もう一度トーニャの眼を見て言う。
「すまなかった。キミは人族だったね。つい忘れてしまうよ」
深く深く頭を下げられ、トーニャも怒りを収めるしかなかった。
「こ、こっちこそ、怒鳴ってごめん」
「いいさ。性急すぎたのはこっちだ」
あまりにも殊勝だったので、原因は別にあったのかも、とトーニャは問いかける。
「……ひょっとして怒ってるの? ボスを魔族だって決めつけるようなことを言ったから」
ヌェバは、ふふ、と笑って返す。
「ボクだって魔族を悪く言われれば怒るさ。でも、それとは別。ボクもトーニャやティロに悪行をさせている相手に興味があるのさ。もし会えたら文句のひとつも言ってやりたいからね。保護者としては」
「あ、……ありがと」
「キミがボクに礼を言うなんて、珍しいね」
「うるさいなぁ。お茶なら好きに飲んでいっていいから、胸焼け起こす前に帰って」
胸焼け? と小さく首をかしげ、すぐにうなずいて。
「じゃあボクはこれで失礼するよ。お茶はまた後日いただくとしよう」
ぬるり、とその場からかき消え、リビングにはトーニャと署長が残された。
「……あ、あ、あいつ! 胸焼けとかウソだったのね!」
だまされた。
でもそんなに悪い気はしない。
あいつなりの方便だったのだろうから。
突然の怒りにおろおろする署長に向き直り、
「大丈夫ですよ。今度来たら少しだけいいお茶っ葉を出して、胸焼け起こすまで飲ませてやりますから」
優しく微笑みかけた。
そのつもりだったのに、署長はしばらくの間目を合わせてくれなかった。