月光団として
「どこだろ、ここ」
次にトーニャが意識を取り戻したのは、十人ほどの黒猫が立ち並ぶどこかのかび臭い倉庫だった。
トタン屋根は端々に穴が開いており、梁は錆だらけ。照明も薄暗く、床に転がる木箱やら段ボールやらには遠目からでも分かるほど埃が積もっている。
念のため申し添えておけば、トーニャは衣服を着ている。ラインがくっきりと出る黒猫モチーフのボディスーツと、口だけが出た全頭マスク姿を衣服と呼ぶのならば、だが。
お世辞にも上品とは言えない格好をしておきながら、トーニャの眼はうつろだ。
全頭マスクの目のところにはやはり猫のそれを模した眼が描かれており、近くから覗けば、マスクを被る者の瞳の様子だけは分かるのだが、彼女の焦点はどこにも合わせられていない。寝ぼけているような、熱にうかされているようにはっきりとしていない。
なぜ、いつ、こんな衣服に身を包んでこんな場所にいるのか。それはいまのトーニャにはどうでもいいことだ。
ただあのひとの願いを叶えればいい。
自分はそのために選別され、利用されるだけの存在でいい。
おかしなことを思っていると自分でも思うし、なにか、とても重大な裏切りをしているような気もうっすらするけど、いまはどうでもいい。
いまはあのひとのために全力を尽くせばいい。
「さあて、子猫ちゃんたち? 今宵もオシゴトの始まりだよ!」
トーニャたちの前、この倉庫に元々あった木箱に乗った女性猫が、手に持ったムチを翻し、ばしぃん! と床に叩きつける。
その音でそれまでバラバラの方向を見ていた月光団員たちは、ムチの女性猫に向き直り、視線を向ける。
全頭マスクの奥襟からは、深紅の長髪が溢れるように流れ出し、しっぽは根本で二本に分かれ、それぞれふりふりと動いている。
幼い頃祖母から聞かされた猫又みたい、とトーニャはぼんやり思い、同時に、どことなくミィシャさんに似てるな、とも思った。ミィシャさんって誰だっけ、とも。
「今日のターゲットは……」
リーダーは今日のターゲットについて説明している。それは分かるが、それよりも気になったのは、リーダーの右後ろにいる女性だ。
白のワンピースを清楚に着こなし、ただじっと自分たちを見ている。
飼い主さんだ。
理屈もなくそう思った。
今夜はあのひとのために動けばいい。
だってあの人は飼い主だから。
ふわふわとする頭が自分の役割以外のことを考えなくさせている、のは分かる。たとえ知っていたとしても、自分がやることには何の影響も無いのでどうでもいい。
自らに与えられた役目、追ってくる警官たちから盗みを働く本隊を守ること。
それだけを果たす、一個の道具になろうと右手に握られたハンマーの束に視線をやり、よし、と気合いを入れる。胸元のアーマー・ギアが淡く輝く。
「さあ、狩りの時間よ!」
ムチが空を切り裂き、床を激しく叩く。
仕事の時間だ。
あたしの仕事ってこれだったっけ?
まあいいや。がんばろう。
*
世界が裏返ったのは、二十一世紀の前半。いまから六十年ほど前になる。
世界中に溢れている魔素は、見た目は赤く濡れた石でしかない。が、人の強い意志を感じると膨大なエネルギーを発する。
それ以前から正体不明の物質として魔素は世界各所で散見されていたが、現在世界に溢れている魔素とは質も出力も遙かに低かったため、科学者の大多数からもマスコミからも無視され続けてきた。
魔素研究開発機構。
魔素は人の思いをエネルギーに変換する。それを研究して新たなエネルギー源として組み込み、あらゆる機械の電源として生み出されたのがアーマー・ギア。
それを実用化し、全世界に普及したのは、魔素研究開発機構の所長でありバレンシェバッハ姉弟の祖母そのひとだ。
しかし組織は十五年前に起こった大事故で事実上の解体となり、現在はそのメンバーの何人かが集まり、前組織の建物や研究などを引き継ぐ形で設立、運用されている。
「……あれ、半分壊れてる」
施設に近づくにつれ、建物の惨状が明らかになってきた。
半分は外見も新しく手入れが行き届いているのに、もう半分は火災に巻き込まれたかのように黒焦げ、鉄骨はむき出しに、あるいは崩落している箇所さえある。
『そっちは関係ないよ。入るのは新しい方だからね』
ムチを持つリーダー猫が、先頭で戸惑うトーニャのマスクへ通信を入れる。
この猫マスクはそれ自体が通信機になっていて、頭頂部の猫耳は送受信用のアンテナにもなっている。
「あ、はい」
返事をすると猫耳がぴこぴこ動いてかわいい。
自分のは見えないのが少し残念だが、それはともかくとして潜入だ。
ここまで近づいても投光器ひとつ使われる気配が無い。
事前に予告状を出し、また警察や施設の内通者から施設に居るのは警官たちだけだと連絡を受けている。
「でも、なんで誰もいないの?」
『周囲に人族や魔族の反応は無いわ。けど警戒は怠らずに進みなさい』
またリーダー猫から通信が入った。リーダーが付けているマスクは特別製で、どんな微細な人の感情エネルギーもキャッチできるそうだ。
通路は薄暗いがマスクのお陰なのか、壁も床もくっきりと見える。ちらりと後ろを振り返れば団員たちも居る。安心して正面に視線をやると、白衣姿の女性が居た。
「え」
黒のストッキングに包まれた足はすらりと伸び、歩調はしなやかで繊細。小脇にバインダーを持つ腕も長く、しかし胸はさほど大きく無い。双眸は切れ長で鼻筋も口元も主張し過ぎないのに一度見たら目が離せなくなるほど。
颯爽と進める歩に合わせて揺れる黒の長髪は艶めき、誰もが感嘆の吐息を漏らすだろう。
「なんで」
そんなはずは無い。リーダーが大丈夫だと言ったのだ。
白衣の女性はこちらに気付いた様子もなく、ただ団員たちの横をするりと通り過ぎていった。
『どうしたの?』
「い、いえ、いま、白衣を着た女の人が通って、行きました……よ、ね?」
『何を言ってるの? ここにはわたしたち以外には誰もいないわよ』
目をこらして女性が通った場所に視線を走らせても、もう白衣の女性は居なかった。この通路は一本道で、ドアが開いた音もしなかったにも関わらず。
そうだ、音。あの女性、足音も衣擦れの音も呼吸の音さえも聞こえなかった。
だとしたらやっぱり幻なんだろう。
「す、すいません。見間違えたみたいです」
『そう。気をつけて』
ここは、魔素を研究している機関だから、魔素の濃度もきっと高いはず。
魔素は人の思いをエネルギーに変換する。それはつまり思いを内に蓄えるということ。思いとは記憶であり、記憶は映像として保存されている。
だとしたら研究の中で粒子化し、空気に溶け込んだ魔素たちが幻のひとつぐらい見せてもおかしくはない。魔素とはそういう物質だ。
そう結論づけてトーニャは前進する。
通路は長く、両脇にはいくつも研究室らしき看板が掲げられたドアがいくつも並んでいる。自分たちの足音はスーツの特殊加工によりほぼ完全に消されている。そのため先頭を歩くトーニャは時折振り返らないと団員がついてきているか、少し不安になる。
長く静まりかえった通路をひたすら歩き、やがて目的の部屋の前に到着した。
『ここよ。気をつけてね』
そこは、身長の倍はあろうかという巨大なドア。この奥は倉庫になっており、月光団が目指す刀ふた振りが眠っている。
世界で最初に魔素を活用した品のひとつであり、月光団が掴んだ情報によると研究の為と称してこれを打った刀鍛冶師から強引に引き取られたものでもあるらしい。
「……ふぅ」
鉄製の重いドアを前にして、トーニャは一度大きく深呼吸をしてバー状のノブに手をかける。鍵がかかっている様子も、閂を嵌められているようにも感じない。
本当に誰もいないのだろうか。
たとえ居たとしてもこのハンマーで相手をすればいい。
そう決めてドアを押し開く。
ぎぃぃ、と油の足りていない音色を奏でながらドアは開き、そして、
「そこまでだ月光団!」
数え切れないほどの警官たちが倉庫にひしめいていた。