蝦夷と日本 7
1991年は極東に混乱を振り撒く年となった。
冬から高句麗においては民主化デモや独立運動が活発化していたが、5月にソウル事件が起こると事態は急展開を見せた。
米国は高句麗の内政への不介入を宣言し、ソ連や蝦夷による民主化や独立運動への支援に対して再三の警告を行っていたが、残念ながら、米国が思った程にはソ連も蝦夷も深入りはしていなかった。単に独立運動家が自発的にソ連や蝦夷への要請を行っていたに過ぎない。
この、米国の不介入を弾圧容認と解した金日成はソウルに築かれたバリケードへと戦車を突入させ、2年前の天安門事件を再現する。
当然ながら、米国は金日成を非難し、対高句麗支援の全面停止、更には在米資産凍結、経済制裁へと僅か2週間で矢継ぎ早に次々と発表していく。
まるでついていけない金日成を他所に、後押しされたと解した独立運動家達は米軍の駐留するテグにおいて第二大韓民国臨時政府の樹立を宣言し、米国へと庇護を求めた。
だが、米国はそこまで本格的に介入する意志はなかった。彼らにとって重要だったのは自らが投資して築き上げた北部に広がる重工業地帯や資源権益だったのだから。
だが、外信により第二大韓民国臨時政府が暴露した金日成政権による人権弾圧や不正は、以前金日成自身が暴露した李承晩のソレと同じかより酷いものであった。そこには米国企業や政治家の名前まであったのだから、もはやどうしようもなかった。
米国ではこの暴露声明によってコリアンゲート事件と言われる政財界が大混乱に陥る混乱期を迎え、夏に中東で起きたクウェート侵攻がまるで耳に入らないほどだった。
そのクウェート侵攻への対応は、なんと、ソ連が英仏を促す形で行われ、蝦夷人民軍も英仏主導で編成された特別国連軍の一員として参加し、掃海作戦には蝦夷から資金援助を受けた日本も参加していた。
日本の参加は日米防衛条約の指揮権が問題になるとする議論も起きたが、特別国連軍は一義的には国連が指揮権を持つので、日本以外では問題にされなかった。
世界はこうして高句麗問題への不介入を行動で示すことになった。日本や蝦夷にとって、日婢を謝罪し、対日差別を否定した当人が更に奴隷使役を続けていた事態に、怒りを通り越して呆れを感じていた。
クウェート侵攻問題の解決として行われたイラク攻撃は米国を除く西側諸国と中東諸国、東側主要国が一同に介して行われた唯一の軍事行動となった。
当時イラク軍が装備していたのはフランスや蝦夷の輸出した戦闘機や戦車であり、特別国連軍は最終的には勝利したものの、蝦夷製電子機器を備えた防空システムや戦車に苦戦し、4298人もの戦死者を出すこととなった。ただ、蝦夷にとっては予想通りに被弾時に誘爆しやすいT72の欠陥を見て、自らの独自開発戦車への自信を深める事になった。
イラク軍の作戦や陣地構築が稚拙で、自国製兵器システムの突破方法が判っていたからなんとかなったが、蝦夷をして、自国製兵器の優秀性を改めて認識し、西側諸国は自分達と同等の技術を有する蝦夷を警戒しながらも認める事に繋がっていた。
さて、世界から半ば無視された高句麗情勢だが、クウェート奪還が成った6月12日には南北分裂は回避不可能なまでに深刻化していた。金日成が武力解決に乗り出さなかったのは、対米関係に配慮しての事だった。
そして、金日成も独立運動家達に攻撃されたままでは終わらなかった。
国家主席である彼であれば、独立運動家の弱味を握るのは容易い。しかも、それが彼らの自爆であるとすれば、効果はてきめんである。
6月18日、金日成は声明を出し、日本の企業や政治家と結託して奴隷輸入を行っていた組織を公表した。まさに、今現在、米国へ庇護を求める独立運動家リーダーその人が主犯格であった。
高句麗においては既に工場のオートメーション化が進み、北部では昔のような奴隷使役は鉱山や一部建設現場に限られていた。しかし、それに対して南部の農業や軽工業では人手に頼る作業も多く、経費削減や利益追求目的で奴隷使役が未だ日常的だった。
結果、南北対立は南部の非人道性が浮き彫りとなり、世界世論の支持を失った主要メンバー兼人道犯罪容疑者の拘束を以て鎮静化へと向かった。
それを知った日本はさすがに激昂した。が、ようやく世界へと復帰した喜びがまさり、反高句麗感情から忘れられていた国粋主義的な対朝鮮観も蘇ったが、それと同時に50年前に日本を席巻した反陸軍というブレーキによって何か行動に移すまでには至らなかった。
そんな12月、ソ連では事実上のクーデターが発生し、瞬く間にソ連という国まで崩壊してしまった。
こうして極東に大きな力の空白が生まれ、米国がラスト・フロンティアへの関心を失った時機を見定めた金日成は大きな賭けに出た。
いわゆる第二次満州事変である。
1992年4月6日、高句麗軍は突如として遼河油田の中華側を占領し、更に西と北へと軍を進める。
この事態は国連へと提議されたが、当事国の中華が西側から経済制裁を受け、特別国連軍受け入れの様な直接介入を拒否した事から何も決められないまま、5月3日には旧満州領域が高句麗の占領下に置かれた。
ここにいたり米国はラスト・フロンティアの完全なる終焉を認め、長期化していたコリアンゲート事件への最終解決を図る。これによって親高句麗派と呼ばれる政治家や財界人の引退が相次ぎ、急速に極東への関心が失われて行くのだが、それもつかの間の話だった。
それはある意味で必然であり、ある意味で偶然だった。
高句麗による満州侵攻は政治経済だけでなく、軍事にも影響している。
さすがに侵略を理由に制裁を加えている国に、その国の安全保障のための軍駐留などありえない。政治判断で米国高句麗相互防衛条約は破棄され、駐留米軍の即時撤退も決まった。
では、代替となる駐留先はあるのか?となると、フィリピンからの引き揚げも決まった事から移動で事が済む話ではなくなり、唯一米軍基地が存在する日本へと目が向けられた。
1993年当時の日本は平壌五輪が開かれた1964年の高句麗と比較しても発展しているとは言えず、とりあえず主要都市間を結ぶ鉄道や国道こそ米国資本により整備されているが、地方へ目を向けると50年前とさほど交通事情が変わらない状態が散見された。すぐ隣の高句麗や蝦夷の発展を見れば、タイムスリップしたような感さえ窺える。
だが、それは失われたラスト・フロンティアの代替品になるという期待感も湧いてくるモノであり、米軍の移転先として以上の支援が行われる事となった。




