蝦夷と日本 6
日本、そして蝦夷の現在を語るには2カ国の話だけでは足りない。
現在の状況は高句麗国との関係無しに語ることは出来ないのだから。
その高句麗国については建国の経緯は触れだが、その後の歴史にも触れる必要がある。
高句麗国はその建国から1960年まで李承晩が大統領として君臨していた。
その彼が大統領選挙で不正を行ったとして国内で騒乱がおこり、4月には中央政界で大統領退陣を求める政治行動へと発展していく。これを四月革命と呼ぶ場合もある。
この政変を指揮、主導したのが金日成であり、彼は李承晩を政権から引き摺り下ろすとすぐさま大統領制を廃止して議院内閣制へと移行する。
しかし、それは金日成が自らのカリスマを十全に発揮するための舞台装置に過ぎなかった。
彼は所属政党である労働者党による議会掌握を言葉巧みに推し進め、12月に行われた臨時総選挙において議席の8割を獲得するに至った。
普通に考えて、これが不正でなくて何であろうか?
しかし、その様な批判はどこからも出ることなく、議院内閣制の外へ設置された国家主席の椅子へを腰を下ろす事となった。
その過程で李承晩の罪状の数々が白日の下に晒され、世界に衝撃を与えた。それは高句麗各地での反対勢力弾圧であり、日婢に代表される非人道的な強制労働であった。
この様な事態が噴出したことにより、高句麗各地では李承晩ら前政権への糾弾が相次ぎ、この様な中で総選挙が行われたのだから、労働者党以外の候補が立候補することが珍しい事態となったが、普通はそんな混乱を利用した選挙などは行わないのが常識だろう。
そして、金日成による「高句麗浄化」は更に続く。
当時、軍や官界にも日本支配時代に日本で学んだ者たちが多数在籍していたのだが、1961年4月にはクーデター計画が発覚し、クーデター計画に参画したとして多数の将校や高級官僚が逮捕される大疑獄事件へと発展していく。
普通の感覚ならば、日本は日婢報道によって高句麗嫌悪が蔓延しているはずが、この事件によって親高句麗へと急転換する事になった。
金日成政権はクーデターに連座した高級官僚や財界人が日本や蝦夷の政治家や企業と結託して日本から奴隷輸出を行っていた「事実」を公表したからだった。
金日成はこの発表に際して高句麗のこれまでの行いを謝罪し、日本に対し、「過去の事は忘れない。しかし、これからの高句麗人は日本を許し、差別しない」と表明したからである。
それが事実であったかどうかは、我々の知る通りである。彼の表明によってより大規模化した移民事業は結果としてより酷い奴隷輸出と化してしまったのだから。
さて、その金日成の出生に関して当時は白頭市産まれで高句麗王家の末裔と宣伝された。つまり、国家主席とは国王の別称であった。
こうして憲法と議院内閣制の上に君臨するカリスマによる事実上の専制政治が始まるのだが、ラスト・フロンティアの夢に浮かれた米国はその実態を見ることなく、彼のカリスマを頼りにさらなる経済支援に邁進していった。
そして、繁栄を謳歌する高句麗は中華が黒竜江省に発見した油田を横目に過去の資源探査記録を精査し、国境地帯である遼河に油田の可能性があることを突き止めた。
折しも中ソ対立が決定的となった時期であり、金日成はその機微を逃さず中華へと接近し、米中の橋渡し役を演じる事になる。
1972年の米中国交樹立はこうして成し遂げられ、それと同時に中高資源協定によって大慶油田並びに共同開発となった遼河油田の優先的利用が実現した。
こうして高句麗の経済的飛躍は留まるところを知らない状況となった。
これは高句麗の仲介によって中華への米国資本の流入も呼び込み、米国はロスト·フロンティアへの再進出にも成功し、ベトナム戦争による疲弊すら忘れて中高投資を積極的に推し進めていた。
当然、そのような状況はソ連にとって面白い筈もなく、ソ高国境付近での様々な活動が活発化し、金日成に批判的な高句麗人から様々な情報取得が行われている。
その中で技術情報は蝦夷へと流されたが、政治情報はモクスワへと届けられた。
その情報の中には李承晩時代より酷い日婢の扱いや各地の地域対立も含まれていた。
当の金日成は白頭山の寵児を僭称しており、資源地帯や重化学工業が集中する北部を重視し、農業や軽工業主体の南部を軽視していた。それはまるで李氏朝鮮時代の北部差別への報復とも映るものであり、後に高韓別種論の遠因ともなっている。
こうして、1989年までは米中高の蜜月時代であった。
しかし、1989年に中華の首都北京で起こった天安門事件で終焉を迎える。
レーガン政権による対ソ蝦対策として行われた中高投資がこの事件でストップし、更には当時、世界を席巻する勢いだった高句麗への警戒感や限度を越える対高貿易赤字が重なり、更には冷戦終結による高句麗支援の政治的動機の消失から、いわゆるプラザクラッシュと言われる高句麗経済の失速が始まった。
この経済の失速は南北対立を先鋭化させ、専制君主となっていた金日成への批判として火の手が上がる。
当時、未だ高句麗における日婢の惨状が正しく伝わっていない日本では、反金日成を掲げ、韓民族自立を掲げた南部への不信感を募らせていた。
高句麗の発展は対米航路に当る日本にも恩恵があり、半ば飢餓輸出に近い形で高句麗への輸出を行い、どうにか経済を回していた事が、彼らによって妨害されたらからだった。




