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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
蝦夷と日本
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蝦夷と日本

 2023年現在、極東では熱戦が行われている。


 ソ連崩壊に伴い、極東の兵器廠と言われた蝦夷社会主義人民共和国がソ連のくびきを離れ、西側世界へと販路拡大を行ったからである。


 冷戦中はソ連の指導の下での重工業政策に邁進し、豊富な蝦夷炭田の石炭により、室蘭コンビナートや石狩工業区では沢山の製鉄、重化学工業設備が休みなく稼働していた。

 その恩恵を受ける蝦夷人民はソ連が羨むような裕福な生活で知られ、東北地方においては、日本から壁を越えて蝦夷へ行こうとする蝦夷ユキが問題化していた。


 しかし、そんな蝦夷の繁栄もペレストロイカによるソ連の改革政策の中で陰りを見せ、従ソ路線への不満や不信が募り、日本や米国へと接近する動きが活発化していく。


 1980年代からはそれまで繁栄を謳歌していた高句麗の失速や米ソの緊張緩和に反比例して中ソとの対立が先鋭化、レーガン政権による高句麗重視政策がそこに輪をかけ、西側世界で唯一の内乱の様相を呈し、その反動からアジアの落第生とまで蔑まれた日本が飛躍をはじめていた。

 西側の成功者であった高句麗の凋落は蝦夷にとってはチャンスだった。


 そして、冷戦崩壊によって呪縛から開放された蝦夷はそれまでにも増して、世界へと、そして日本へと進出していく。


 誰もが知る通り、蝦夷は第二次世界大戦によって日本から分離独立した国家であり、日本語話者であったので、日本進出には何の障害もなかった。多くの日本人が憧れる蝦夷の進出を歓迎した。


 さて、まずはそんな蝦夷社会主義人民共和国誕生から見ていこう。


 1945年8月18日、15日のポツダム停戦によって太平洋から銃声が消えて3日後、能代や石狩へとソ連軍が進駐を開始した。

 ソ連は日ソ中立条約を守り、戦中は一切戦火を交えなかったのだが、停戦後にその態度を急変させ、東北と北海道へと進駐をはじめ、これに慌てた米国が制止した時には、秋田、青森、岩手への進駐を終えていた。


 当然、そうなるともはや撤兵を求める訳にもいかない。


 この時、米国はソ連の約束破りをなじったが、ソ連側は何食わぬ顔で日満交換論を展開し、米国もその利点を拒否しきれずに受け入れる事となった。


 その結果、日本領朝鮮、並びに満州国を得た米国は、大韓民国臨時政府を朝鮮に入れ、彼らの言うがままに最大版図として満州国南部をもその領域として認める事になった。

 後に公開された史料によれば、米国はポーツマス条約で逃した南満州鉄道利権を得る事を条件に、李承晩らの提案を承諾していた。

 そして、広大な領域の正当性を示すために国号を大韓民国から高句麗国へと変え、中華民国による批判に対抗している。


 こうして米国は戦後に新たなラスト・フロンティアを獲得し、多大な援助を惜しまず行うことで、アジアの先進国、高句麗国の発展に寄与していく。


 そのあおりを受ける形で日本はGHQによって非武装化が徹底され、1947年には日本国憲法によって完全非武装宣言が行われ、日本の脅威に怯える中華民国、高句麗国、オセアニアを安堵させている。


 当時、日本のことを「アジアのアイスランド」と称する事が国内外で一般化していった。


 だが、その様な状況はソ連にとって何の利益にもならず、ましてや満州国が中華民国ではなく、訳のわからない新興国に掠め取られたことは衝撃であった。


 当時、ソ連の支援する中華共産党が華北で躍進しており、中華民国が満州国を得ても、少し待てばシンパの手に渡り、結果としてソ連の利益になる腹積もりだったからだ。

 しかし、事はそう動かなかった。


 それを見たソ連は北海道と東北のソ連編入を思い留まり奇策を打つ。日本にはかなりのソ連シンパが居たので、そうした連中を呼び込んで満州国失陥の穴埋めを行う事にしたのだった。


 こうして、排工貴農運動が荒れ狂い、産業界への風当たりが強い日本に対し、その避難先となる希望の地、蝦夷社会主義人民共和国を建国したのだった。

 蝦夷の初代総帥は降伏した最高位の日本軍人である樋口が就任した。

 これにはソ連中央でも賛否が分かれる問題だったが、とにかく米国がすべての日本資産を呑み込む前に動く必要があり、ソ連の寛容さや日本への好意を前面に押し出して宣伝していた。


 それが受けたかどうかは分からないが、当時の日本では町の鉄工所や村の野鍛冶程度の「産業」しか認めない風潮が蔓延していた。とにかく技術者や鉱工業は戦争を招く元凶だと否定され、排斥対象であった。街を離れて山野で農作業に勤しむことが幸せであり、平和への近道だと持て囃されていた。

 今から思えばあまりにも極端で短絡的な発想だが、それだけ現状を受け入れる事が出来ていなかったとも言える。

 そんな状況から多くの企業家や技術者、はては官僚に政治家までもが、藁をもつかむ思いで蝦夷へと渡っていくことになった。

 それこそは共産革命の姿に思える光景であったが、その日本の姿を指して、ソ連が共産革命だと認識することは無かった。


 1950年頃までに数十万の人々が北を目指した。そして、蝦夷へと逃避した政治家や軍人、官僚らが政治の中枢を占める様になると、ソ連が作り出した蝦夷社会主義人民共和国は変質していくことになった。

 


 


 

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