鳥人から始める飛行機開発史 3
さて、もはや語りつくされている二宮忠八について語る前に、一度横道にそれてみたいと思う。
鳥魂祭りにおいて最も重要な人物は誰であったか?
多くの人にとってそれは実際に橋から飛んで見せた幸吉だと答えるだろう。もちろん、その滑空機を不動のものにした通賢も忘れてはならない。
ただ、この二人だけで、果たして世界初の継続的な飛行機開発は実現したのであろうか?
答えは否。
日本には他にも空を飛んだ、あるいは飛ぼうとしたという人物は居る。
その一人が、琉球の「飛び安里」と呼ばれる幸吉と同年代頃に飛んだとされる人物である。しかし、安里家において継続して飛行機が製作されたという記録はない。確かに、安里周祥は空を飛んだのかもしれない。しかし、彼がその後も飛び続け、後進へとその技術を伝え、飛行機開発を継続したという話は伝わっていない。
もう一人が茨城県つくばを代表する「からくり伊賀」こと、飯塚伊賀七である。
彼はヨーロッパでの気球の飛行や岡山における鳥魂祭りの話を聞き、自らも飛行機を作ろうと考え、実際に谷田部藩へと「飛行願い」まで提出している。からくり人形や和時計の制作などの実績を持つ彼ならば、実際に飛行機が作れたかもしれないと言われているが、残念ならが許可は下りなかった。それどころか「人心を惑わす」という理由で捕縛され、藩へと献上したからくり人形も壊されたという話も伝えられている。
この伊賀七の顛末こそが、当時の日本の平均的な成り行きでは無かっただろうか。
ところが、岡山城下の京橋から飛んだ幸吉は、あろうことか藩主自ら詰問に出向いてその行為を肯定され、あまつさえ研究の継続まで後援されているのである。
どう考えてもおかしいのは幸吉ではない。「飛び安里」や「からくり伊賀」のように他にも飛ぼうとした、あるいは飛んだとされる人物は居るが、それを藩主や国王らから後援され、以後も研究を続けたという事例は存在していない。歴史上大きく取り上げられないだけで、江戸時代には鳥魂祭りの話を聞きつけて飛ぼうとした事例は他にもあっただろうことは想像に難くない。
しかし、その様な行為の多くが天狗や妖怪騒動であったり、騒乱騒ぎであったりとして罪に問われて刑罰を科せられ、二度と飛ぶことが出来なくなっているのであろう事例は、伝承のなかにそれらしいものが散見されるという。
なぜ、岡山藩藩主池田治政は幸吉に共感したのであろうか?
彼が鳥魂祭りを創始したという一例を何の疑いも無く受け入れ、空への夢に無邪気に賛同したと終わらせるのは思考停止と言えないだろうか。
確かに少数意見ではあるが、彼が逆行転生者であったとすれば、その謎が簡単に氷解してしまうと主張する者も存在している。
その主張への反論として、ならばなぜ、藩主であった治政はより的確な情報や技術を与え、より近代的なグライダーを完成させなかったのかという意見も確かに存在している。
しかし、そうした意見は大きなことを見落としている。
転生を題材とした小説や映画における主人公はエンジニアであったり、チートと呼ばれる転生特典によって異世界ないしは過去世界を改変していくことが出来ている。もし、我々が幸運にも過去や異世界へと転生できたとして、あのような活躍が転生特典無しに可能なのであろうか?
もし、池田治政が転生者であったとして、だからと言って幸吉の拙い滑空機を的確に改善し、現代のグライダーのように飛ばす事など、彼が航空機の知識を有していなければ難しい。少なくとも、航空機に関する専門知識を有するラジコン飛行機愛好家でもなければ、的確な助言や改善には程遠いのではないだろうか。
我々が知る「転生」とは、あくまでチートを得た主人公の物語に過ぎない。もし私が、貴方が、転生できたとしても、物語の主人公のような立ち回りは果たして可能だろうか?
その点、池田治政を転生者だと主張する人物の指摘は的確である。
彼が転生者である根拠と指摘しているのが、一般的な現代の書籍や映画等で知り得る技術を用いてハンググライダーを再現している点であるという。
ただ、本格的な知識や技術を要するトビウオ型滑空機の方は、通賢による研究を待たなければ飛べる形に仕上げられなかった点も、その証明だとしている。
現代の我々は疑問に思えば書籍やインターネットを用いて調べることが出来る。
しかし、実際に転生者がいたとすれば、彼はフィクション世界のように現代の書籍やネット上のサイトを調べると言った事は出来ない。転生したその時点で自分が習得している知識、あるいは記憶しか活用することはできない。
そうなると、一般人が分かる飛行機に関する知識と言えば、翼は上反角をつけると安定するだとか、翼の断面は前方を厚く、後方へとなだらかに薄くなると言った、子供の図鑑から一般書籍にまで共通して載っている「一般的な知識」までではないだろうか。
幸吉の滑空機で実現されているものがまさに、こうした「一般的な知識」の範囲に収まるものだった。それを超える発展は、通賢の参画以後の事となる。
そして、幸吉が藩主治政の後援を得て鳥人庵での研究を行う際に寄せられた治政からの疑問や提案というのが、まさに「一般的な知識」に集中している事が、幸吉の遺した書物から読み取れる。
これは現代人からしてみれば、何の疑問もない疑問や提案なのだが、では、18世紀末の人物が我々の「常識」を共有する人物であったかというと、とてもそうは思えない。のだが、我々は自分の常識で答えを出そうとしているので、「治政がこう思うのは当然だ」と、問題視せずに流してしまっているとも指摘されている。
とはいえ、この時代の日本では多くの人が空を飛ぼうとしていたという言い伝えがあり、本当に治政の疑問が異質であったのか、それとも一般的なモノであったのか、簡単に判断が付く様な資料は存在していない。敢えて言えば、そう思いたければどちらとも解釈できるものが大半だともいわれているのだから。




