狩人たちが海狼狩りの得物とした兵器群
初夢なんだから多少歴史いじっても許されるよね!の外伝になります。
主人公が知らず知らずに周りに漏らしたのは、カイゼンやレーダーだけではなかった。
彼が不用意に漏らした情報から生れたて兵器、それは・・・
海上護衛総隊と言えば北方艦隊と並ぶ海上自衛隊の母体となった組織である。
戦後日本の安全保障政策は主として対ソ連防衛とそれに伴う太平洋での対潜作戦、シーレーン警護となった。
対ソ連防衛の主力は北方艦隊とその後身がになったが、対潜作戦やシーレーン警護を担ったのは、戦中、縁の下を支えた海上護衛総隊の後身達であった。
その海上護衛総隊とは如何なる組織であったか、今でもあまり語られることはない。
日本においては今も昔もきらびやかな第一線部隊が注目されている。
海上護衛総隊とは、1941年夏に発足した組織である。その構想は1930年頃から存在しており、平時においては漁業監視や海難救難を目的に漸次整備が始められてり、1938年頃から性能差が顕著になった旧式駆逐艦の転用や海防艦の建造が始められていた。
旧式駆逐艦は魚雷発射管を一基に減じられ、備砲も艦首の一番砲を撤去し、後部は十一年式高角砲に換装されている。そして、一番砲を撤去したあとには対潜臼砲が装備され、艦底には最新のソナーを、艦橋上には対水上電探を装備し、駆逐艦籍から外れ、新設された護衛艦となり、艦名も駆逐艦名から変更され、草の名前が付けられている。
海防艦には長八センチ高角砲を単装化したものと対潜臼砲が装備された。艦名は島の名前が付けられている。
このとき装備された対潜臼砲は、第一次世界大戦において、地中海派遣された士官が考案したとされている。彼は地中海派遣の経験から輸送船団の護衛の重要性に気付き、特に対潜作戦のあり方を研究していたとされる。
当時、対潜水艦作戦と言えば発見した潜水艦の直上まで急行して爆雷を投下するのが普通だった。時代と共に投擲する装置も考案されていたが、精々数十メートル投擲する程度で戦法に大きな違いはなかった。
しかし、レーダーの開発や航空機の活用が模索され始めるとより早くより遠くで捕捉でき、その分遠距離で攻撃可能となってきた。そこで彼が考案したのが迫撃砲の要領で爆雷を投射する装置だった。
この対潜臼砲は1937年に九七式対潜臼砲として制式化された。
構造は15センチ臼砲を6基、扇状に並べた形をしており、6基は同一の砲座に据え付けられて、旋回、俯仰する事が出来た。構造は戦後、ボフォース社が開発した対潜ロケットの参考にされており、海上自衛隊でもこのボフォース製の対潜ロケットが採用されているのはよく知られている。
この装備により対潜作戦の幅がひろがり、制海権を失う1944年秋まで船団護衛や護衛艦の一部は艦隊に随伴して活躍している。
航空機による哨戒は目視によって行われるものとされていたが、1930年代当時、磁気探知によって潜水艦が探知出来るのではないかと考えられ、1938年にKMX磁気探知機が開発され、これを搭載する専用の対潜哨戒機が要求されることになった。
当初は飛行艇が有力視されたが、対水上電探の装備も追加されたことでその整備の問題から陸上機が要求されている。ただ、対水上電探については後の二式飛行艇が問題なく運用したことから、あまりに神経質過ぎたのではないかという意見が多い。
閑話休題
この哨戒機計画には多くの応募があったが、開発期間の短縮が重視され、九六式陸攻の改造案が採用された。
こうして開発されたのが、一式陸上哨戒機である。
九六式陸攻からの改造ではあるが、それはかなり本格的なもので、爆弾倉を設け、昇降式銃塔を応用した探照灯も装備されている。このため、作戦状態では、爆弾を機外に吊り下げる九六式陸攻よりも優速で長時間飛行も可能だった。一式陸上哨戒機をそのまま陸攻に出来ないかという話もあったが、爆弾倉は対潜爆雷を前提にしており、魚雷を収容する事は出来なかったため実現していない。
後継機として更に長時間飛行が可能な陸上哨戒機「東海」が開発されているが、制式化が1944年では既に活躍の場は失われていた。ただ、少数が北方艦隊の航空部隊として認められ、金星4発で12時間飛行可能な性能は千島列島哨戒に重宝された。戦後、東海をベースにエンジンをターポプロップにしたP1哨戒機が無事故記録を樹立したのは有名である。
P1の後継には米国製機材を搭載するために機体を再設計したP2があり、こちらは今でも主力哨戒機として活躍している。残念なことに期待された旅客機型は殆ど売れず、自衛隊が購入したYS11も昨年退役している。
なお、二式飛行艇も戦後、後継機にあたるPS1哨戒飛行艇が開発され、今でも救難飛行艇としてその改良型が活躍中である。
初夢なんだから多少歴史いじっても許されるよね!で指摘された旗風の問題についてもこちらで回収させていただきました。