鳥人から始める飛行機開発史 2
1805年頃に始まった鳥魂祭りは5年もすれば周辺へと話が伝わっていた。
久米通賢は香川県東部に生まれ、少年期は船のかじ取りであった父について大阪へ赴くことも多かったという。幼少期から聡明であったことから、暦学者に師事して暦や数学を学んでいる。
そして、ちょうどこの頃、高松藩測量方として地図作成に従事しており、伊能忠敬の讃岐測量にも随伴していた。
彼は多芸であり、この頃には船舶の設計や日本初のフリントロック銃の開発なども行っている。
そんな彼が海の向こうで人が空を飛んでいると聞いて大人しくしている筈がない。
はじめは与太話程度であったが、実際に飛んでいるという確証を得た彼は当然のように八浜を訪れている。
この頃すでに幸吉は50を超えており、自ら飛ぶことが難しくなってきていた。その為、飛ばしているのは多くの場合、師弟であったが、時折自身も飛び、尚且つ、すでに還暦を越えた治政(すでに剃髪し、一心斎と名乗っていた)も訪れている状態であった。
これを見た通賢は一心斎でも乗れる滑空機が出来ないかと考える様になる。
そして、一心斎の提案もあり、トビウオをモデルとした全く新しい滑空機を模索していくこととなった。
これまで幸吉が飛ばしていた滑空機は、現代でいえばハンググライダーに近い構造の物であった。
もちろん、その方が当時としてはコントロールがしやすく、鳥をモデルとするなら着想がしやすいというのもあっただろう。
しかし、自分の足で飛ぶ必要がある事、児島湾といういくら穏やかとは言え、水面へと着水する必要がある事から、事故の危険性が常に付きまとっていた。
その為、ハンググライダー状の滑空機でありながら、翼から体を上方へと持ち上げることが出来る構造で、後にリリエンタールが製作していたグライダーと類似点が多く存在していた。
とはいえ、これではすでに老境の一心斎が飛ぶのは難しく、幸吉さえもそろそろ危険性が高くなっていた。
しかし、当時一心斎や幸吉が自分達でもより安全に飛べる様にと試作していたトビウオ型グライダーは操縦系統が貧弱で安定性も悪かったことから、一度も上手く飛んだことが無かった。
とてもではないが、一心斎を乗せて飛べるようなシロモノでは無かった。
そこで、通賢はそのトビウオ型グライダーを飛べるものにする研究を請け負い、それまで体系化されているとまでは言い難かった幸吉の航空理論を研究し、数式を導き出して本格的な理論や数式として体系化させることに成功している。
しかし、そこに至るまでの道程は簡単なモノではなく、小型の模型を用いた実験を繰り返し、一心斎の発案による風洞実験設備なども用いた実験結果と幸吉の記録を数値化する地道な作業を要する事となった。
その様な研究が功を奏し、1815年には一応の成果として舟形胴体を持つ、まさにトビウオの様な滑空機を完成させ、この年の鳥魂祭りにて成功裏に飛行を行っている。
もちろん、それに前後するように一心斎も操縦訓練を受け、その年に飛行を行っている。一心斎66歳の夏の事であった。
この飛行が当時の最高齢飛行記録であるのは言うまでもない。もちろん、これを最後に飛ばないなどと言う事はなく、彼も積極的に開発に参加し、1818年にも飛んだという話が残されているが、祭りや実験の記録などではなく言い伝えにすぎないので本当の事かどうかは分かっていない。
ただ、トビウオ型によって最も多く飛行したのは一心斎ともいわれ、地面効果によってより長く飛ぶことを発見したのが一心斎だという話は、幸吉の記録からも見て取れる。
このトビウオ型はその後も発展し、通賢も長くその開発に参画する事となった。
その中で、当初はトビウオをそのままモデルにしたものから様々な形状が試行錯誤され、最終的には複葉型と単葉型の今も飛んでいるグライダーに近いものへと収斂されていくこととなった。
そうして製作機数が増えて来ると、鳥魂祭りに参加する村々の手へも飛行艇が渡っていき、ただの奇祭から飛行大会へと様相を変化させていく事にも繋がった。
ただ、その中にはトビウオを参考にした四枚羽根型など、今からすれば少々不思議なものも存在している。
この4枚羽根型については今でも論争の的になっており、トビウオを模した四枚羽根滑空機ではなく、トンボをモデルとしたオーニソプター(羽ばたき機)ではなかったかともいわれている。
しかし、その頃には老齢の幸吉は一線を引いており、実際に制作された鳥人庵の記録、幸吉個人の記録、さらには通賢の記録の間に時折齟齬が見られるため、オーニソプター計画や実際の製作は行われたのかもしれないが、一部で言われているような、羽ばたき機として世界で初めての実用機を意図して製造していたと言った明確な記録も、根拠も存在していない。
ただ、四枚羽根型での飛行記録は残されており、実際に飛ばしていた事だけは確かであるものの、その飛行が滑空によるものか羽ばたきによるものかといった明確な記録、記述がなく、滑空と羽ばたきに関して明確に区分して研究や実験が行われていた訳では無いというのが最近の見方の主流となっている。
1841年に通賢が亡くなると、高齢の幸吉だけでは研究の飛躍的な進展は難しく、師弟や氏子の村人によってトビウオ型と鳥型による更なる飛行時間伸長なり、良好な操縦性の獲得へと機体の改良や研究の重点が移っていくこととなった。
その後の大きな飛躍は明治を迎え、二宮忠八が興味を持つまで待たなければならなかった。




