村田騒動記 5
南部が村田銃工業に入社した1925年。それまでは、まだ大人しくしていた村田が本性をむき出しにしだすようになる。
村田は1921年2月ごろから極端な難聴となり、会話もままならないこともしばしばであったが、何とか彼を中心に銃器開発が行われていた。
すでに対英輸出の頃から無茶振りだったとという見方もあるが、南部を招いてからはそれが極度に悪化していく。
陸軍が計画し、村田銃工業へと発注が行われた新型銃器開発に関しては、八年式軽機関銃や十年式機関短銃の改良に加え、三八式に代わる歩兵銃も項目に入っていた。
日本軍が運用する三十一年式実包は威力は申し分ないのだが、如何せん、反動が強く銃の制御を難しくさせていた。
一度ならず有坂成章が試作した小口径実包の採用という話はあったのだが、比較するたびに威力過小で不採用となって来た。
第一次大戦後、装甲車両が戦場を徘徊する事が想定されるようになるとその傾向は顕著で、小口径実包では装甲車両に対処できない事が明白となっていた。
しかし、各国で開発が進む自動小銃開発の流れに乗り遅れないようにするには、日本も自動小銃を開発する必要に迫られていたのだが、三十一年式実包では、ボルトアクション以上に扱いが難しくなってしまった。
村田が八年式軽機関銃に採用したサブレッサーは火炎制御だけでなくマズルブレーキ機能も備えられ、一定の効果を持つ物ではあったが、その程度でフルサイズライフル弾の反動を制御することは不可能だった。
村田自動銃をはじめ、造兵廠や他の企業も自動小銃の試作を行っていたが、誰もその制御に成功していなかった。
反動を抑制するには野砲がそうしているように駐退機を設ける方法もあるが、小銃にそんな機構を組み込む事など、重量とコストを引き上げるだけでなく、工作技術の点でも無理難題であった。
ならば、簡単に反動を抑制するには重量のある銃器とすることが手っ取り早かったが、だからと言って歩兵が全員、軽機関銃の様な重量物を抱えて行動できるのかと言うと、それも現実的とは思えなかった。
当然のことながら、一つの結論へと答えは収斂していく。「低反動の実包であれば制御は可能である」と。
だが、その答えを実現してくれそうな小口径実包は、装甲車両に対して威力過小と断じていたのではなかったか?
30ウィンチェスター弾と言う選択もあったが、いずれにしろ、その採用は陸軍の銃器を総替えする大事業であり、軍が首を縦に振る事はない。
そう、完全に八方塞がりだった。
そんな中で、話しが聞こえないのを良い事に、誰の話も聞かずにただ我が道を行く村田の姿があった。
そんな村田であったが、ウィンチェスターとの交渉は出来た様だ。
彼は第一次世界大戦で銃器の部品がほぼほぼ切削加工によって作り出されることに疑問を持っていた。世の中にはプレス加工と言うものが存在しており、銃器の部品もプレス加工によって作れたなら、より量産性が高くなるとの思いが芽生えていた。
だからと言って、当時の日本ではそれを研究するだけの基盤すらない状況だったので、彼はそのアイデアをウィンチェスターを通して実現しようとした。
手始めに彼は十年式機関短銃をプレス加工により最適化した設計へと変更し、まずはウィンチェスター社で試作を行い、ムラタガンM1928として実現させている。
この技術を村田銃工業でも導入し、さらに加工精度や耐久性を持たした部材開発を積極的に推進した。
そして、三年式重機関銃に代わる機関銃として、一部にプレス加工材を用いる試作品を完成させている。
その傍ら、自動小銃に最適な銃弾開発も行い、小口径実包をベースに、30ウィンチェスター弾の利点も取り入れた6.5×42村田弾を完成させている。
この弾を用いれば、三十一年式実包はおろか、30ウィンチェスター弾よりも反動を制御できるようになった。
もちろん、射程に関しては三十一年式には及ばないが、歩兵の実質的な交戦距離である500m以内に限れば、30ウィンチェスター弾から高速弾としての性格を引き継いでいるので、大きく劣る事は無かった。
そして、この新型弾薬を用いた機関騎銃の設計を行い、25発弾倉を備えた、今でいうアサルトライフルを完成させている。
彼はこれをあくまで機関騎銃、つまりサブマシンガンの一種としているが、同時に軽機関銃型も設計しており、言行が一致していない。
村田はこの軽機関銃型の設計を最後に、肝臓病が悪化し、1931年2月に亡くなっている。
村田の死去に前後して、試作重機関銃が陸軍において試験に供され、翌年、九二式重機関銃として晴れて採用されている。
この頃、米国でも自動小銃開発が行われ、レミントン製7ミリ弾と30ウィンチェスター弾が開発の筆頭に挙げられていた。
しかし、当時大量の備蓄があった現行弾薬を用いることが選択され、これら弾薬は陸軍制式弾として日の目を見ることは無かった。
日本でもその状況は似たようなものだった。現行弾薬に不満はあるが、財政面から新型弾薬へ一新する事には抵抗があり、新型村田弾がいくら優秀で自動小銃に適していると言っても、「はい、そうですか」と、首を縦には振れなかった。
しかも、村田の遺作でもある機関騎銃は徹底して木製部材を排し、金属とベークライトを使用する銃であった事も、陸軍を及び腰にしていた。
この点に関して南部は、四四式騎銃をベースとした自動銃として陸軍に受け入れやすい外観を整え、試験を続け、日中戦争で予算の制約がなくなった1939年には、とうとう九九式自動歩兵銃として採用され、新型村田弾も九九式実包として同時に採用されている。
そのころ、海の対岸においても新型村田弾は米陸軍にM1カービン用弾薬、264ウィンチェスター弾として採用されている。
太平洋戦争において九九式自動歩兵銃は主に南方戦線に投入され、1943年頃からは木材不足から村田機関騎銃時代の形態へと回帰した乙型へと移行している。ただし、連射機能は兵站の面から廃止され、単発のみへと変更を加えられた。さらに、弾倉は10発固定弾倉となり、ストリッパークリップによる装填であった。
だが、それを見た米軍は驚くことになる。
自分たちが自衛用として使う軽小銃を主力とし、しかも、M1ガーランドと互角に撃ち合っていたのだ。
この事は戦後にも多大な影響を与える。
ドイツのStG44に衝撃を受けた米英では、そのスタイルを取り入れた小銃を指向する動きもあったが、米国ではその銃弾として、264ウィンチェスターと276レミントン、さらに英国が開発していた280ブリテッシュのいずれを採用するか、西側に属した国々を巻き込む大論争が巻き起こされることになる。
そこにウィンチェスターが持ち込んだ銃は、村田機関騎銃をブローニングが改良した遺作であった。
射程の面で再考の余地があったStG44を凌駕する将来型小銃の姿に、誰もが目を見張った。唯一、EM-1と言う我が道を行く英国を除いては。
敗戦後の混乱の最中、日本のまったくあずかり知らないところで、九九式実包は世界の嵐の中心にあった。
最終的に、米国がすべてをひっくり返して30ウィンチェスター弾の採用を表明した事で幕切れとなったが、米軍制式ライフルを勝ち取ったのは、その30ウィンチェスター仕様のマシンカービン・ムラタである。
こうして、戦後発足した自衛隊は、強制的に村田機関騎銃を装備する事となり、戦前以上に村田銃に縛られることとなってしまった。
何といっても、新型村田弾を開発した村田経芳自身、妥協案として30ウィンチェスター弾を用いた各種銃器を設計しており、戦後再開された村田銃工業(現・村田精機)はその設計を引き摺り出して自衛隊用の銃器開発を行っているほどだ。
ここまで来ると、村田経芳が転生者だったという話も、多少は信じて良いのかもしれない。
大魔王「ムラタガンは殺戮マシーン。キル·ジャップ!!」
win幹部「閣下。ムラタは我社の商標です」
大魔王「日本っぽいからキル·ジャップ!!」
戦後、新弾薬会議
海兵隊「我々は陸軍の提案に反対である!」
陸軍「ほら、マリーンはタイプ九九に苦戦したから、264を毛嫌している」
海兵隊「陸軍の誹謗中傷は遺憾である!」
win幹部「では、これなど」
海兵隊「半世紀前の弾だと?しかも、誰だ、このムラタニングというのは」
win幹部「私も良く知りませんが、我社のベストセラーを開発した人物とのはなしです」
海兵隊「そのような人物が無名とは、世の中とは分からないものだな。じゃあ、その弾ならば」
陸軍「海兵隊がそう言うなら」
海兵隊「我々は陸軍···」
陸軍、win幹部「「あんたの意見だろ!」」
赤い星「この弾薬は我々の血と汗の結晶である!このような盗作行為には断固、抗議する!!」
村田「せやけど、先出しやから遡及法での訴えはノーカン」
ジョン「ムラタニングのせいで私の人生まで狂ってしまった。八つ当たりではないが、カラシニコフ?ストーナー?私が全てを奪ってやった!」
村田「え?ブローニング·ハイパワーがウィンチェスターから発売されたのって、俺のせい!?」
・あとがき
30ウィンチェスター弾。ほぼ7.62×39のパクリな弾を西側が採用した事で、東西陣営ともにほぼ同様の兵器体系を持つことになった世界。
しかし、もちろんの事、米国、英系、独系、仏と、機関銃用フルサイズ弾の規格が違う問題が後を引くことになるのはご愛敬。
そんな世界では、ストーナー63はちょっとムリポ?
戦後の話は、各自、ご想像ください。




