史上最強のT34
架空戦記創作大会2020夏 お題2です。
T34中戦車と言えば誰もが知る東側のベストセラーである。その生産数は戦後のライセンス生産も含めると6万両をこえるという。
そして、現在なお戦場で運用されているとの目撃談があるほどである。その多くは60年ほど前に製造された姿のまま運用されており、中にはごく最近、ロシアへと返還された稼動車両などもある。
しかし、中には大きく姿を変えた車両もあり、日本人にとってなじみ深いのは樺太共和国のT34だろう。
樺太のT34を語る前に、樺太共和国の生い立ちをまず見ていく必要があるだろう。
樺太共和国の建国は1954年のこと。
1945年8月当時、北方の防衛を担当した小野田慎吾中将は南樺太へ7月から部隊の移動を開始し、ソ連の侵攻に備えていた節が伺える。
当時、ドイツ駐在武官からヤルタ密約の情報が届いていたこともあり、その様な対処となったのだと思われる。
8月9日、満州においてソ連軍の侵攻が開始されると、樺太においては日本軍が北樺太への侵攻を開始する状況となった。
未だ作戦開始に至っていない北樺太のソ連軍を奇襲する形で始まったこの戦闘ではソ連軍は有効な防御陣地を構築する暇なく後退するしかなく、8月14日には島内ソ連軍は完全に包囲される状況となっていた。15日に日本でのポツダム宣言受諾を受けて、樺太においても停戦交渉が持たれたが、ソ連側では戦闘継続命令が発せられてり、停戦交渉は実現せず18日には一部の抵抗をのこして降伏する事態となった。
ソ連側はこの事態を看過できず、増援部隊を送ろうとしたのだが、推定で3万以内と見積もっていた日本軍が8万に上る状況から逐次投入による各個撃破にあうばかりで一向に成果が出なかった。
戦線拡大を目指した千島での戦いにおいてさえ撃退される始末で、樺太、千島でのソ連軍の劣勢は明らかとなる。
日本では8月18日には戦闘停止命令を出すのだが、小野田中将はそれを黙殺し9月2日まで自衛戦闘として戦闘を継続している。
9月2日に正式に降伏文章に調印した時点で一応の戦闘は終了するのだが、樺太の扱いはここからが問題だった。
この時点で小野田中将をはじめとした継戦派と目される一派が北海道と樺太において対ソ戦継続を主張し、一切命令に従わない状況となっていた。
当時ソ連は当初、北海道の占領を目指していたのだが、それが無理と分かると朝鮮半島への南下を優先するようになっていた。
その為、9月2日に至るも朝鮮半島におけるソ連軍の南下は止まらず、慌てた米国が南部に米軍を上陸させたことで12日に至ってようやく米ソ間での交渉が行われるに至る。
しかし、そこからが問題だった。
樺太、千島の問題が米ソ間で話し合われることになるのだが、その時点でソ連は朝鮮半島の実に三分の二を有した状況であり、満州地域を中華民国へ返還する事も渋っている状況だった。
1947年まで交渉が行われた結果、朝鮮半島は38度線を境とし、ソ連側はそれ以南を米側へ譲り、ソ連に大連の領有を認めるという決定がなされ、何とか決着を見る。
樺太についてもすでに武力による奪回の時期ではないとしたが、今更北半分をソ連に返還する状況でもなくなっていた。ソ連もすでに樺太に居る半ば独立した状態の日本軍へと交渉を持ち掛け、樺太を独立国とすることでソ連への取り込みを図って行く事になった。
こうして何とか大枠が固まった後に朝鮮戦争が勃発し樺太への注目も集まるが、樺太では何ら大きな動きを見せずソ連寄りの姿勢を示したことで、小野田慎吾を首班とし、樺太、千島を領土とする樺太共和国が朝鮮戦争後に成立することになった。
当時、日本政府は形ばかりの批判を行ったが、自身の統制を逃れた勢力であるため大きなことも言えず、戦後、軍の解体によって大きくその発言力も低下してしまっていた。なにより、米国は樺太や千島の帰属を明確にすることなく、継戦派が大人しく北海道から退いたことで妥協していた。
こうして成立した樺太共和国は面積8万7千㎢の面積を持つ国となったが、人口はその時点で55万人、しかし、大きな産業がある訳でもなく、非常に貧しい国だった。
冷戦中は中立政策によってソ連と日本の間の等距離政策を基本とした。
樺太の軍事力はその経済力が非常に小さい事もあって建国後はその多くが解体され、日本軍時代は8万であったものが1955年には2万人へと縮小されている。
さらに、装備も経済力が小さい事から旧日本軍の物をやりくりし維持する状況であり、あまりの老朽化から60年代になってソ連からの武器購入を行い、この時に60両のT34を受け取っている。他の国であればすでにT55だっただろうが、ソ連も樺太への警戒感から衛星国への供与とは大きな落差を設けている。
その後、日本の協力で開発が進んだ奥端油田、ガス田、オホーツク海の漁業の発展もあり経済は上向くのだが、ソ連の介在もあり軍の近代化に反映されることは無かった。
冷戦崩壊によって樺太ではソ連の脅威は薄まり、日本との統合の話が持ち上がるのだが、日樺双方ともに歴史的なわだかまりが存在する事から交渉の席に着くところまで至らず、ただ経済協力のみが深化するにとどまっている。
冷戦後の経済深化は日本からの投資も呼び込んで真岡や大泊の港湾開発や工業進出なども本格化し、財政にも余裕だ出た事から旧式化著しい軍の近代化も模索されるようになる。
この頃、日本との統合こそ全く進んでいなかったが、同じ日本語を話す国という事もあって武器輸出をしていなかった中で唯一、輸出が認められることになり、あぶくま型護衛艦の改良型やT4練習機が輸出されることになった。この時、ロシアが日本に対して警戒感を表明しているが、日本側がそれを重く受け止めることは無かった。
しかし、海空軍の近代化は順調に進んだが、陸軍はそうはいかなかった。海軍が導入したのはあぶくま型から対潜ミサイルや対艦ミサイルを撤去し、76ミリ砲と短SAMを装備した哨戒コルベットであったし、空軍のT4は改造によって監視装置こそ搭載できるもののミサイルを装備しないという軽武装であり、日本もロシアに配慮しているという意識があった。
しかし、陸軍の近代化とは一線級の戦車や装甲車の輸出という事であり、武器輸出に抵抗がある日本、樺太を極度に警戒するロシアともに越えられない一線であった。
その為、陸軍は戦車についてはT34の近代化で凌ぐという方針を実施することとなった。
こうして誕生したのが現役であるとともにT34史上最強のT34‐85MKと通称される樺太陸軍のT34である。
その車体側面にはサイドスカートが装着され、正面には箱形の中空ないしは複合材の追加装甲が、側面には雑具入れを兼ねた中空装甲が、後部は大型消音器が設置され赤外線放射低減や中空装甲も兼ねた箱形になっている。当然、貧弱だった冷却器の交換も行われ能力も向上されてている。
砲塔も原型が分からないほど様変わりし、防盾には楔型の追加装甲が付きその上に暗視装置が置かれている。側面も追加装甲と収納を兼ねたラックが付属し、後部は大きく切開されて大型バスルへと変更され、電子機器が搭載されている。一見してこれをT34と判別できるかと言われると難しいものがある。
こうした改良を行った54両のT34MKは2020年現在も現役であり、海空軍の近代化がひと段落したことで陸軍の近代化へと話が移り、10式戦車の導入が検討されている段階だが、ロシアからの強い警戒感からその実現は今のところ不透明な情勢と言われている。