鋼鉄の守護神5
日本戦車が飛躍的に成長を遂げたきっかけである「ノモンハンのバケモノ」のその後については、ロシアにもそれらしいモノが無いので良く分かっていないが、日本側に残る資料から推測すると、主砲はKV85であろうと思われるが、車両としてはT44やIS3の方がシルエットが似ている。
そして不思議な事に、ソ連においてエバキュエータ―が装備された戦車はT54からである。
この装備に関してロシア側資料では、満州で鹵獲した四式中戦車や五式重戦車を参考にしたとされているが、日本側ではノモンハンで鹵獲した85ミリ砲にすでに備えられていたのだから不思議と言うしかない。
そして、日本戦車を参考にした戦車として開発されたT65はさらに不思議な事が多い。
ソ連戦車としては異例な事に、低姿勢なシルエットを捨てている。
四式中戦車や五式重戦車では日本なりの「低姿勢」を目指して開発されたが、T44ほどの積極性はなく、砲弾配置もその多くを砲塔後部に配置するものだった。
これは日本戦車がとかく車内が狭く、大型砲弾の取り扱いに不向きであった事。バスケットという概念が未だなく、装填作業に際しての砲弾取り出しの簡便化から採用されていた。
当然、低姿勢という観点からは忌避すべきものであったが、日本戦車では他に配置場所がなかった。
なぜかこの配置をソ連戦車では珍しく採用しているのがT65なのだが、本命として開発されていたT64の保険的な車両ではなく、T62の性能向上策として空間装甲や複合装甲を採用するために採用されている。
これはのちにチョールヌイ・オリョールという次世代試作戦車にもつながる戦車となったが、この時代のソ連では重視されず、自動装填装置もない事から、ソ連戦車としては少数の2000両程度が配備されたに過ぎない。
その外観は近代化改修された61式戦車改に似ており、61式の改修がT65を参考にしたと言われるほどだった。性能に関しても、日本戦車の2サイクルディーゼルを参考に開発したV型10気筒1300馬力エンジンが搭載されており、45トンにもなる車体を軽々と走らせる性能を有している。これは61式戦車よりも高性能で、液冷化によって1500馬力を得た86式戦車のエンジンに匹敵する。
本来であればマニアにしか知られることがないT65が有名である理由は61式戦車に似ているだけではなく、日本との因縁浅からぬものがあるからだ。
1993年4月29日、戦後ずっと米軍政下に置かれていた千島・南樺太が冷戦終結に伴って日本へと返還された。
1991年から返還の動きは水面下で行われており、もともと日本語がそのまま使われていたことから何の混乱もなく返還を迎え、5月17日には撤退する米軍に替わって自衛隊部隊が南樺太の地を踏むことになった。
順調に日本への返還が行われ、冷戦終結もあって日露関係も好転の様相を見せていた。初のロシア大統領訪日も決まっており、モスクワ宣言以来の雪解けムードにあったのだが、10月にはそれが急転直下最悪の事態を迎えることになった。
10月3日、ロシア議会では大統領と議事堂ビルを占拠する反大統領派の緊張は最高潮に達し、翌日には議会制圧が実行に移され死傷者を出す大事件となった。
しかし、日本ではその報道は当日には行われていない。
大統領の訪日自体、反大統領派の批判を呼んでおり、1945年に千島・南樺太への米軍進駐をきっかけに起きたルーズベルト密約暴露事件以来くすぶる対日強硬論に傾倒した反大統領派軍人が南樺太で暴発。戦後初の戦闘となった樺太事件が発生していたのだった。
10月3日深夜に突如として始まったロシア軍の砲撃に対し、自衛隊は全く対応が採れていなかった。
10月4日明け方になっても総理官邸では事態の問い合わせをロシア大使館に行う様な醜態ぶりで、まさに来栖事件がそのまま現実化したような状態が樺太で発生する事態となった。
南樺太ではロシアに配慮して最新の86式戦車ではなく61式戦車改が配備されており、官邸が未だ対応策を示せずに居る10月4日未明段階から「正当防衛」という名目で出撃していった。
ロシアにとって北樺太は米軍との最前線ではあったが、冷戦崩壊以後は大きな戦力が配置されている訳でも無く、今や旧式化したT65が配備されている状況であった。
兵力が多い訳でも無い北樺太のロシア軍は奇襲によってなんとかを作戦を開始したが、4日昼前には出動した自衛隊による迎撃を受け、気屯において61式改とT65による戦車戦が生起する事になった。
61式戦車改は小型化を意図したSTB試作車で得た知見による改良や86式戦車の機器などを装備しており、開発当時のままであったT65とは性能が雲泥の差であった。
48年前同様に戦車戦は日本側優位で推移し、兵員数で劣るロシア軍はそれ以上南下することなく、議会制圧の報を受けたロシア軍は5日未明には日本側へ使者を出し、停戦が実現する事となった。
反大統領派派勢力は敗北したが、樺太事件によって日露関係は融和ムードから対決ムードへと一転、大統領の訪日と平和条約交渉を潰す事には成功している。
この事件において日本側には民間人約200人、自衛隊にも46人の犠牲者が出ており、戦後初の戦死発生に国会は大いに荒れ、総理辞職、解散総選挙という事態が発生する事になったのは記憶に新しい。
こうして再び南樺太にはソ連/ロシア軍を撃退した鋼鉄の守護神が誕生する事になり、今では気屯の樺太事件慰霊碑を守る様に北へ砲を指向する61式戦車と富士に残されていた五式重戦戦車がレストアされてゲートガードとして展示されている。




