える・しぃ・えす! 2
さて、奄美型掃討艦が1934年3月に竣工し、6月に姉妹艦である屋久と共に第三艦隊へ編入され、中国方面での活動を開始した。
当時、中華民国は上海事変において日本軍艦を撃沈する大戦果を挙げた魚雷艇を高く評価し、更に14隻の発注をドイツに行う傍ら、より安価で使いやすい武装ボートの調達にも乗り出し、1933年半ばごろからは海賊行為が頻繁に行われるようになった。
中華民国は一部魚雷艇や武装ボートが私的に運用されている実態を半ば放置し、場合によっては奨励する様な声明を出す場合もあるほどだった。
その状況が日本海軍を掃討艦整備へと走らせることになっていたのだが、中華民国にとってはまるで関係のない事であった。
この頃、すでに中華民国が運用する魚雷艇とドイツが運用するSボートには大きな違いがあった。
中華民国は魚雷艇としての運用はあまり重視しておらず、魚雷攻撃は最後の手段、ないしは切り札といった扱いであった。
もちろん、魚雷が高価で繊細な兵器であるという事も関係しており、常には5.2センチ砲と2センチ機関砲を主とした砲艦としての運用が行われていた。
ただ、魚雷艇という特性上、非常に高速であることもあって、揚子江での運用には持て余し気味で、もっぱら海上における運用が行われ、それが海賊行為へと繋がっていたのである。
この海賊行為が日本軍には上海沖海戦のトラウマを引きずらせ、掃討艦の大量投入を呼び込むことになる。
従来の第三艦隊は揚子江で運用する河川砲艦を中心に、比較的旧式の艦艇で編成されていた。
もちろん、戦闘になればすぐさま日本から有力な艦隊がやって来るので、平時の任務はそれら旧式、低速な艦艇であっても問題がある訳ではなかったが、中華民国による海賊行為の頻発がその状況を変えていった。
1935年には6隻の掃討艦が中国方面で活動し、海賊行為への対処も行っていた。
この時すでに8番艦までの建造が進められており、当初計画のうち最終4隻についてはこれまでの運用実績や他の要因から大型化も検討され、検討の結果、新規に計画していた海防艦計画の要求を盛り込み、北方海域での運用を考慮した艦として新たに設計、建造する事が決まった。
任務がこれまでと違い、主に北方海域での哨戒と漁業権益保護となるため、厳寒や荒波に対応するため居住性や航洋性を向上させることも踏まえて6斤速射砲を3門へ減らしている。
そうした重量増加によって基準排水量840tへと拡大したが、機関出力を強化することで速力は36ノットに向上する結果となっていた。
本来であれば、この国後型掃討艦を持って建造を終えるはずであったのだが、旧式駆逐艦の後継や条約制限下で一時計画された二等駆逐艦にかわる哨戒や警備に使いやすい掃討艦の更なる建造が望まれるようになる。
そのような要望を受け、新たに設計されたのが沙弥型掃討艦である。
沙弥型は大型化しながらも厳しいコスト削減要求を実現するため、それまでの日本では考えられない直線や平面を基調とした設計が採用され、従来の日本海軍艦艇とは趣を異にする外観に仕上がっている。
それは外観だけに留まらず、徹底して量産性を重視した事でブロック工法による建造を前提にした初の艦艇となったのは有名だ。
その最大の特徴は水線長と全長がほぼ同じという不思議な造形となっている事が挙げられる。
当時すでに造波抵抗を軽減するためのバルバスバウは知られていたが、高速性発揮を重視したステップバウはまだ知られていなかった。
沙弥型では最新技術であるこのステップバウや艦尾をスッパリ切り落としたような角型艦尾を採用した事で国後型より幅を広げ、排水量もさらに増えて940tにまで増加したにもかかわらず、速力35ノットを発揮する事に成功している。
このステップバウは戦後、小型高速艇へと普及したが、大型船舶での採用事例は少ない。
角型艦尾の抵抗問題は戦後も長らく議論があり、21世紀を迎える頃まで結論が出なかった難問だったが、今ではこの形状の採用が抵抗減少に貢献したと結論されている。
この沙弥型を設計したのは藤本の愛弟子と言われた小野田真介であり、藤本が陽炎型駆逐艦に取り入れた電探用マストも採用され、艦隊運用ではなく、主に哨戒、警備で使用するため、電探の利用価値があるとして日本初のレーダー搭載艦となり、武装もそれまでの平射砲から十一年式12センチ高角砲へと変更されたことも相まって、性能が大きく向上した。
九六式57ミリ速射砲の装備も沙弥型が最初で、単装砲である1番主砲の後に設けた階段状の構造上に1門。後部主砲は連装1基とし、その背後に背負い式で1門を搭載することで57ミリ砲は2門しか搭載しないが、ほぼ全周射界を得ている。更に魚雷を積まない関係から九六式25ミリ機銃を煙突周辺の左右舷に連装各2基を搭載し、水中探信儀や対潜迫撃砲も備える充実した武装内容となっていた。
21世紀現在の目で沙弥型掃討艦を見ると、その整った外観、考えられた兵装配置は現代の艦艇に通じるものがあるが、80年代までは軍艦というよりクルーザーやプレジャーボート風の外観という否定的な評価が一般的であった。閑話休題
掃討艦は構想当初は単に魚雷艇の掃討を目的とする艦種であったが、沙弥型では海防艦計画を呑み込み、開戦後はより量産性に優れた設計へ変更を行い、61センチ3連装魚雷発射管を備えた松型駆逐艦へと発展しているほどだ。
松型ではステップバウを省略して速力低下を招いているが、それでも二等駆逐艦として十分な性能であった事は歴史が証明している。
そんな沙弥型掃討艦が1937年5月から竣工を開始し、折からの日中戦争へと投入されていった。
第二次上海事変では過去のトラウマから多数の掃討艦を集中配備して作戦に当たり、増強された中国側の魚雷艇や武装ボートとの戦闘が繰り広げ、求められた役割をいかんなく発揮する戦果を示すことになった。
この本格的な戦闘によって、小回りの利く掃討艦の評価は確定し、沿岸域での小型艦艇排除に留まらず、汎用性が高くバランスの良い武装もあって東シナ海での護衛任務にも投入されるようになり、更に需要が増すという状況になっていく。
その様な高評価を受ける掃討艦も、現場では不満が全く無かった訳ではない。
奄美型では6斤速射砲4門、沙弥型では57ミリ速射砲2門が主たる武装として使用されたが、6斤速射砲は当初から指摘されたように旧式にすぎ、沙弥型では性能は良いが、前後に各一門という配置は射界には優れたが、奄美型の様に片舷2門を常に指向できるとは限らず、火力不足という指摘が出ることになった。
当初から問題であった奄美型に関しては、順次九六式57ミリ速射砲への換装工事が勧められることになり、沙弥型では艦中央部に新たに57ミリ速射砲の砲座を設けた改良型が企画されることになった。
しかし、この改良型は建造されることなく終わる。
沙弥型掃討艦の武装を根本から改めた新型掃討艦へとその計画が移行したからだ。
新たに計画された掃討艦の武装は新開発の九八式50口径12.7センチ単装高角砲2門を搭載し、57ミリ速射砲を大型艦向けに開発された連装砲とするものだった。
これは対魚雷艇対処能力を大幅に向上させるもので、現場からも歓迎される。
ただ、九八式12.7センチ高角砲は重量もあり、当然ながら57ミリ速射砲を連装化すれば主砲並みの重量になってしまう。
こうした問題に対応するため、船体はさらに大型化し、とうとう排水量は1000tを超えることになった。
ただ、そうした大型化を行っても、機関出力を容易に上げることは出来ず、速力33ノットへの低下を甘んじて受け入れることになったのは仕方がない事であった。
こうして誕生した江田型掃討艦の建造が開始されたのは1941年。
すでに対米戦争は回避できないと言われるようになった状況下でのことだった。
江田型の船体は沙弥型譲りの高速船形ながらも量産性に優れていた為、当初計画を遥かに超える戦時発注が行われることになった。
相手が米英海軍であったが、護衛や上陸支援といった任務にうってつけの掃討艦への要望や期待は大きく、大型艦を計画中止として同一船渠で多数を同時建造するような状態になって行った。
搭載兵装は戦時中もほぼ変わることは無く、電探射撃装置の搭載も相まって飛躍的に対空性能が引き上げられるという想定以上の効果すら発揮した程だ。
この江田型掃討艦の活躍によって魚雷搭載のために砲火力を沙弥型程度まで落としてでも消耗激しい駆逐艦戦力の補強を、という要望から松型駆逐艦が誕生する事になった。
こうして江田型掃討艦と松型駆逐艦という性格の事なる艦種が並行して量産されることになったが、双方の役割の違いから、双方ともが海軍から重要視され続けることになった。




